2009年 05月 08日

北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅-

◆北疆ジュンガリア旅行から帰ってきて、その印象をまとめておこうと思っているうちに、もう半年以上が経ってしまった。



最後の遊牧帝国といわれるジュンガル、その興亡の地に立ってみたいと思って、ジュンガル盆地の縁を一巡りし、イリにも行った。しかし、予想されないことではなかったが、ジュンガル帝国の痕跡を見ることも聞くこともできなかった。無いものを見に行った旅…といったところ。






旅行は15日間のパッケージツアー。参加者は13名で、それに日本人添乗員とウルムチからの現地スルーガイド(漢人)とバスの運転手(撒拉族)の総勢16名。

行程は、9月4日午後に羽田を発って-上海(泊)-ウルムチ-トルファン(泊)-ハミ(泊)-バリコン(泊)-ジムサル(泊)-アルタイ(2泊)-カトンユイ(泊)-カナス湖-カトンユイ(泊)-ウルホ(泊)-精河(泊)-イーニン(泊)-昭蘇-イーニン(泊)-ウルムチ-上海(泊)-そして18日午後に羽田帰着。


こんな旅で印象に残ったことは…


ジュンガル

現地ガイドからは、ジュンガル族あるいはオイラト族について何も話されなかった。まだ若い漢人女性ガイドだったので、やむを得ないとも思ったが、アルタイやイーニンの博物館にも関係する展示はないようだった。ウルムチの博物館なら何かあったのかもしれないが、今回の旅行では安全面で不安があるということで、ウルムチの観光は中止。ウルムチでは飛行機の乗換えと食事だけになってしまった。


広大な町と道路と農地

今度の旅行で一番印象に残ったのは、「広大さ」。といってもジュンガル盆地や砂漠のことではない。盆地の縁を辿っただけのせいか、あるいは他の砂漠を見慣れたためか、これらの広さはそれ程実感できなかった。


広さ、大きさが印象に残ったのは、町と道路と農地。

県庁所在地だけでなくそれ以下の都市でもかなりの規模。それも町の中心部を大通りが貫通する中国風の街づくりになっていた。

また道路も整備されており、主要な都市の中は片側2~3車線、その外側に街路樹、さらに自転車路(?)、緑地、そして広い歩道。イーニン等では朝暗いうちから作業員が出て大きな竹箒で掃除をしていた。主要国道では高速道路化も進んでおり、今度の旅行のバス行程全3,700km中、工事中のところを除けば、ほとんど舗装完備だった。これも西部大開発戦略の成果か。

飛行機から見下ろす赤茶けた土漠の中に現れる、くっきりと直線で区切られた広大な緑の畑、これも印象的!




中国の統治

オリンピックの直後で、ウルムチの観光が中止になるなど、治安・安全面が気になっていたのだが、何事も起こらず、途中不安を覚えるようなこともなかった。

軍隊はおろか、制服姿の警官を見かけることもほとんどなかったように思う。

中国の統治が行き渡っているという感じ。


しかし旅行シーズンの終り間近ということもあるのだろうが、外国人観光客にはほとんど行き会わない。特に日本人は皆無。今年のカナス湖の観光客は、中国人を含めて例年の半分以下だったとか。


新疆生産建設兵団

あちこちで「137団場」のような道路標識を見かけた。新疆生産建設兵団の農場や工場団地があるのだろう。兵団は漢族の新疆進出の拠点として、いろいろ議論の的になってきたようだが、今では巨大なコングロマリットといったところか。

ウルホで泊まったホテルも兵団の系列のようだった。隣接して兵団の地方本部のような建物があり、このホテルはかつて「招待所」などと呼ばれていたものかもしれない。




民族英雄 林則徐

イーニンで予定外の林則徐記念館に寄った。林則徐の名前はアヘン戦争に絡んで高校の世界史にも出てきたように思うが、何故イーニンに? アヘン戦争後に、清朝は英国を慮ってか林則徐を新疆に形だけの流罪にし、彼は無位無官となったが当地の開発にも大いなる貢献をしたのだという。新疆にいたのはわずか3年たらず。


この記念館は、新疆開発というよりは、アヘン戦争の民族英雄を顕彰するのがメインのようだった。林則徐記念館は中国各地に合計6ヵ所あるとか。


撒拉族

15日間、3,700kmの全行程を一人でバスを運転してくれたドライバー氏。最初の日に「彼はムスリムです」とガイドから紹介があった。顔は漢族と見分けが付かないので、「回族か」と聞いてみると、「サラ族」だという。サラ族??


王柯著「多民族国家 中国」によれば、「撒拉(サラール)族 人口:10.45万人 その88%が青海省居住」とあり、他の資料には「西海省、甘粛省、新疆に住む 自称サラール 言語はウイグル語に非常に近いが、文字はなく、漢語を用いる 農業を主とする」とある。


この旅行の期間がちょうどラマダンと重なっていた。


◆さてその次は…

今度の旅行で残念だったのは、昭蘇まで行きながら、バインブルク(ユルドゥズ)草原に行けなかったこと。いつかバインブルクの大自然を堪能するだけでなく、ハズルンドの跡を少しでも追ってみたい。


摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-


そして、ジュンガルを滅ぼし中国の新疆支配を確立した清朝発祥の地、満洲。しかし近代以降の満洲と日本との関わりを思うと、気が重くなるようでもあり…


女真・満洲・満族


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# by satotak | 2009-05-08 13:13 | 東トルキスタン
2009年 04月 18日

近代満洲の民族相 -日本人の錯覚-

小林英夫著「〈満洲〉の歴史」(講談社現代新書 2008)より:

大いなる錯覚
関東軍作戦参謀だった石原莞爾(いしはらかんじ)は、満洲事変勃発(ぼっぱつ)4日後の1931年9月22日の作戦会議で、これまでの「満洲」直接占領構想を放棄し、清朝皇帝だった薄儀(ふぎ)を頭首とする国家づくりへと考え方を変えた。それまでは石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。

石原はここで満洲イメージの修正を強いられたわけだが、はたして多くの日本人はそうしたイメージ変更をできたのだろうか。…実は、こうした多くの日本人が共有していた大いなる錯覚が、1931年以降の日満のみならず日中関係を誤らせる結果を導いたのではないだろうか。…

17世紀ならいざ知らず、日本が本格的に係わり合いをもつ19世紀半ば以降のこの地は、漢族1000万以上の農民が住み、毎年40万から50万人の農民が津波のように押し寄せ、そして何もかも飲み込んだ大地を噛み砕く、漢族の自治の土地だったというべきだろうし、その中から生み出された張作霖(ちょうさくりん)に代表される政治指導者たちは高い政治統治能力を持っていた。それを「軍閥」という名称のもと、古いイメージでこの地と向き合った、この大いなる錯覚が、東北をめぐる日中関係の不幸の始まりだったのではないか。

黄龍から旭日へ
…たしかに、13世紀からの中国東北の.歴史をひもとけば、それは、清朝発祥の地として、何人も立ち入ることができない封禁(ふうきん)の地として、長い間、広大な荒野を野生の天国に存置していた。しかしこの地は漢族の移民の開始とともに、瞬く間に農業地帯へと変貌を遂げていった。そして露・中・日、三つ巴の抗争の歴史を経て日本がこの地に勢力の扶植を図りはじめたのは、漢族の開墾が大いに進んだ後の19世紀末から20世紀初頭のことだった。

日本は、日清・日露戦争を契機にこの地に進出し、1945年までこの地域に大きな足跡を記すこととなるのだが、その日本は、最大時でも約150万人という、漢族から比べれば20分の1にも足りぬ、しかも大地から遊離した移植の民をもって、ある「夢」を実現させんとしたのである。その「夢」とは、この地を清朝の黄龍旗(こうりゅうき)はためく地から旭日旗(きょくじつき)満ちる地に変えることであった。それはさまざまな手法をもって行われた。清朝皇帝と皇室との交流に始まり、工業化政策と移民政策がそれに加重された。しかしこの変更はあまりに困難で、厳しい環境の中で旭日旗自体が強風にむなしくもちぎれていった。…

17世紀に始まる漢人の満洲移民
当初、満洲はヌルハチに起源をもつ清朝発祥の地として、満洲旗人の地を保存する考えから、何人も立ち入ることができない封禁の地であった。ところが清朝が北京を都に定め全中国の統治をしはじめると、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満洲の空洞化現象が生じはじめた。これを防ぐために清朝は1644年に「土地分給案及開墾補助策」を、49年には「移住民の保甲編入、荒地開墾所有許可令」、53年には「遼東招民開墾例」などの一連の遼東招民開墾政策を実施し、漢人の東北移民を促進した。漢人の東北移民は急速に進行し、開墾奨励政策は1668年に停止されたものの、漢人の移民の勢いは止まらず、その後も自主的な移民が進められ1900年頃には東北の漢人の人口は推定1700万人近くに達したのである。

移民の増加とともに清は、各地に総督-巡撫-布政使司(ふせいしし)、按察使(あんさつし)のラインで地方統治を整備し、それ以下の行政レベルでは地方自治を許してきた。しかし満洲はその発祥地ゆえに事実上の軍政が布(し)かれ将軍、副都統がおかれて統治されてきた。

移住者の増加にともない、徴税という面では税損局を設けて課税を実施しはじめた。…多くの場合には徴税額ではとうていこの地域の歳出はまかないきれず、毎年中央からの補助金で財政の赤字を補填したといわれている。

漢人開拓地の自治の実像
漢人による満洲開拓が進行するなかで、この地域の牧草地や山林、森林は次第に耕されて耕地へと変貌していった。開拓を担ったのは山東省や河北省からの漢人移住者だった。彼らは、陸や海路を利用して満洲へと入り、まず奉天省の未開地を開拓し、さらに進んで吉林省へと踏み入り、そしてロシアと国境を接することとなる黒龍江省へと開拓の歩を進めた。…また吉林省の開拓に当たっては、18世紀中葉から生活に困窮した在京旗人救済の目的で彼らの移民策が展開されたが、農耕生活に不慣れな彼らは定着することはできなかったという。ロシアと国境を接した黒龍江省の開拓は、17世紀末に屯田のかたちで移民が進められたが、それが本格化したのは19世紀も後半で、主に漢人の私墾というかたちで展開された。こうして、東北では旗地の売買が活発化するなかで、清朝を支えていた旗人は土地を喪失して没落していった。それは同時に清朝の衰退過程に符合した。

1860年、天津(てんしん)条約に基づいて牛荘(きゅうそう、営口(えいこう))が開港されることで、満洲は世界経済の一環に包摂されることとなった。営口で取引をされたのは満洲特産の大豆三品(大豆、大豆油、大豆粕)で、この輸出入を通じて営口は賑わい、過炉銀(かろぎん)が流通することとなる。満洲特産大豆が世界製品になる過程は、同時にまた営口が栄え、漢人の満洲開拓が急速に促進される過程でもあった。

拡大した漢人の開拓地を清朝は総督を派遣して統治したことは前述したが、それは中央機関だけで、漢人の開拓村は自治に任されていた。自治とはいえ、中央機関とは何らかの関連を持つわけだが、それに対して彼らは、長年の政治経験を活用して柔軟に対応した。…

この満洲の地は清朝の統治の対象ではあったが、その治安を維持するための軍事力の多くを担ったのは、馬賊と称された、村落の自衛武装集団だった。日本では誤解されて馬賊というと馬に乗った略奪者、強盗もしくは盗賊集団として扱われるが、これは正しい認識ではない。治安が不良で自衛が必要とされる中国で、略奪のかたわら地域的自衛をも担当する武装集団が活動したが、彼らの多くは頭目が騎馬で指揮したことから馬賊と称されたのである。

もっとも満洲社会の防衛組織を馬賊で代表させることは、必ずしも適切ではない。馬賊というのは、そうした村落自衛組織の一つであって、時期や場所によって異なるが、民団、郷団、商団、保衛団、自衛団などさまざまな組織が活動していた。自衛団を例にとれば、これは常時ある場合もあるが、通常は村落にあって農作業に従事しているが、非常の際に銃器を携え村落防衛に従事する場合が多い。団長や副団長は村落の地主や富農の二男坊が就任し、兵は村民が志願もしくは義務的に従事する。彼らは自分たちの村を守るという意識が強いから、農家に宿泊しても馬賊などの雇われ者がやるような食い荒らしはせず、夜間の警備などを任せれば一番忠実で安全であるというのだ。…

混乱に生きる満洲住民
日露戦争中および戦後の満洲は、日清戦争時とは比較にならぬ範囲と規模で戦争の影響を受けた。まず、戦時好景気が満洲を覆ったことである。もっとも満洲全土というよりは、兵站地域でそれが著しかった。たとえばロシア軍の拠点ハルビン、大連と南の日本軍の拠点営口がそれである。戦争勃発直前のハルビンには850名程度の日本人がいた。彼らは娘子軍(じょうしぐん、売春婦)が圧倒的に多数で、以下、洗濯屋、理髪屋、時計士、写真師、大工、ペンキ屋等だった。彼らは日露開戦と同時にハルビンを引揚げた。…

そしていったん戦端が開かれると、ハルビンにはあらゆる物資が充満、ショーウインドウにはダイヤモンドやたくさんの酒が、そして濃艶なロシア女が街に溢れ、この都市は「極楽世界の観」を呈したという。日本軍の拠点、営口も同様で、軍需品の荷揚げで活況を呈し、満洲で一稼ぎしょうとする日本人が殺到し、日清戦争時にはわずか数十人に過ぎなかった居留民は8000人に膨らみ、旅行客を含むと 1万人を超えたという。…

もっともこれは戦場が生むことの一面であって、他面で、多くの中国人は戦火の犠牲となって多大な被害を受けたことはいうまでもない。クリスティーは、その著書の中で短く「それは支那の土地で戦はれた。支那の農民は、自分達の戦争ではなかったけれども、そのために苦しみ且つ死んだ。そして何等賠償を受けるあてもなかった」(『奉天三十年』下)と結んでいる…

戦争が終わると、今度は戦後の荒廃と混乱、景気の後退が満洲に打撃を与えた。ハルビンではあらゆる物資が暴落し、買い手のない悲惨な状況が生まれた。営口も被害を受けた港の一つだった。戦争勃発当初は、軍需品の輸送で活況を呈したが、戦争が終結すると軍需品の値下がりと滞貨の山のなかで、倒産する商人が続出、さらには大連港が復興し、満鉄の呑吐港(どんとこう)として機能しはじめると営口の重要性は減少していった。…

日本人移住者の増加
満洲も満鉄もまだ日露戦争直後の荒々しさの余韻を残している1907、08年ころ、他方で日本人の満洲移住が始まっていく。すでに中国人移民の数は1300万人を超えていた。日本人移民の数も徐々にではあるが増加を開始する。

ここに1906年8月時点の営口の日本人戸数調査がある。それによれば、営口の戸数合計は1044戸、人員は7087人、その内訳は男子5111人、女子1976人であった。職業の内訳の上位5種を挙げれば、下婢(かひ、使用人) 394、雑貨店 226、芸妓 113、料理店 75、菓子製造 68の順になっていた。…

占領初期と相も変わらず芸妓、酌婦、下婢、料理店、飲食店関連従事者の数が多いことがわかる。料理店、飲食店とは大半が淫売宿であり、芸妓、酌婦、下婢はその大半が淫売婦だったという。…

「五族協和」の内実
…満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族が住み分けていた、というのが実情に近かった。

人口構成
『満洲年鑑(昭和15年版)』に依拠して、満洲國の1937年12月末時点での民族別職業別人口構成を見てみよう。満洲国の総入口は約3667万人。うち最大多数の漢族が2973万人で全体の81%を占めている。第二位は満族でその数は425万人。全体の約12%を占める。第三位は蒙古族で、その数98万人、全体の3%弱。そして第四位は朝鮮族の93万人でこれまた3%弱。そして第五位が日本人で42万人、1%強である。

次に職業別人口構成を見てみよう。やはり農林牧業に従事する人口が圧倒的多数で、2304万人、63%弱で半数以上が農林牧業に従事しており、なかでも漢族が1841万人で、全体の50%、半分を占めている。この対極にいるのが日本人で、公務員・自由業が8.3万人で、全入口に占める比率こそ1.2%だが、満洲国全体の公務員・自由業の5.8%を占めている。

つまりトップに立つ日本人は、公務員及び自由業に従事するものが最大で、逆に最大の人口比率をもつ漢族は農林牧業を筆頭に以下商業、鉱工業と続いている。中国人が、農・商を通じてがっちりと満洲の大地を食んでいることがわかるであろう。…

実質的に農村を支配する中国人農民
中国人農民といった場合にも、4000万人(?)の農民の内訳を見れば、富農や地主から貧農、小作農までそれこそ千差万別で、一律に論ずることはできない。東北農村をコントロールしていたのは巨大な地主と富農で、彼らはしばしば大豆集買を業とする糧桟を兼業し、さらには金貸しをも兼ねていて、村落で絶対的な力を有していた。しかも農会をコントロールし、保甲制度の実施においては、保長か甲長を兼ねて村落で大きな権限をポストとともに保持していたのである。

彼らは、さまざまな情報を集計して、有利な条件で大豆を購入・販売しており、こうした利便性を活用して富を蓄積した。…特に戦時期に入ると統制が一般的となり、正確な情報いかんが収益を左右することとなり、それを有利に活用できる富農や地主がさらなる富をものにすることができた。したがって、彼らが実質的な意味での農村の支配者であり、満洲の大地の支配者だったのである。

商売上手な中国人商工業者
中国人商工業者の多くは、付属地に隣接する城内に住んでいた。満洲事変前は、城内と付属地の日本人街では交易を行う際には関税上の問題があり、自由な取引はできなかった。したがって、張作霖政権は、この関税を調整することで、中国人商人に有利なように商取引を実施することを仕掛けたのである。
満洲国成立後は、治外法権撤廃にともない、それ以前の制度は消滅したが、中国人商工業者の居住地と日本人のそれとは明確に峻別されていた。…

中国人商人の商売上手は、日本人のそれとは比較にならなかった。北満の奥地を旅した島木健作は、中国人商人が上手に日本語を使い、愛想よく島木に接し客を大切に扱う態度が随所に見られたのに対し、日本人商人の店は客扱いが雑で価格も高く、いい気持ちはしなかったと述べている(『満洲紀行』)。

しかし中国人商人のなかには、正常な商取引というよりは麻薬、阿片などの取引に手を染める者も少なくはなかった。時折彼らの暗号めいた符号入り書簡が憲兵隊の検閲に引っかかることがあったが、それは阿片取引の場合が少なくなかった。…

若い世代が台頭しはじめる中国人官吏
中国人官吏の生活は多様であったが、満洲国の官吏養成課程が整備されるにともない、次第にその養成課程から選出された官吏が要職を占めはじめた。建国当初は日本留学組が要職を占めていたが、やがて建国大学や大同学院出身者が、県長から満洲国中央政府の処長、科長、次長へと昇格を開始し、敗戦直前では、中央政府の次長クラスヘと昇格したものが現れはじめた。日本の大学を卒業し、帰国して中央政府入りを果たし、出世街道を進みはじめるものも現れはじめた。
その契機となったのは、1942年の「満洲建国10周年」を迎えた人事異動だった。…

広範に活動する朝鮮人
朝鮮人の活動領域は満洲国全域に及んでいたし、従事していた職業の業種も日本人よりははるかに広かった。彼らは、母国を離れて満洲国に住みながらも、官吏、農業、工業、商業など広範な領域にその触手を広げ、朝鮮人のネットワークを持ちながら、その領域を拡大していった。…
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# by satotak | 2009-04-18 16:37 | 女真・満州・内蒙古
2009年 03月 13日

ロシア人の進出とシベリア原住民の移動

三上次男・神田信夫編著「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:加藤九祚):

ロシアによるシベリア併合の意義
シベリアがロシアに併合されたことは、ロシアおよび現地住民にとってどのような歴史的意義をもつものであろうか。

この問題をはじめてとりあげた学者は、18世紀中ごろ以後に活躍したドイツ生まれのシベリア史家ミュラーであった。彼の見解は、シベリアはロシアの武器によって征服(ザウオエワニエ)された、というものであった。この見解はロシア史家の間で定着し、征服の主導者がツァーリ政府、企業家ストロガノフ家、エルマクを首領とするカザク(コサック)のいずれであるか、あるいはこの三者の組み合わせがどうであったかをめぐっての論議があるだけであった。…

ソ連時代になってから、研究者たちは多くの資料を細かく検討した結果、一部の原住民が自由意志でロシア国家に編入された事実が判明し、征服ということばは不適当であるとして「併合(プリソエジネニエ)」という表現を用いはじめた(たとえばシュンコフ)。これは征服、自由意志による編入、平和的進出などの意味をこめたものである。

シベリアの原住民にとって、ロシア併合はいかなる意味をもったか、ミュラーによると、ツァーリ政府は原住民を大切にあつかい、その結果、原住民に対してもロシア国家にとっても利益をもたらしたのである。この見解は帝政ロシア時代を通じて支配的であった。ソ連時代になってからも、一部の学者はこの立場であった。
これに対し、18世紀末のラジシチェフはまったく否定的な見解をとった。彼によればシベリアにおけるツァーリ政府の役人、商人、高利貸、ロシア正教の聖職者たちはすべて強慾で、原住民から毛皮などを仮借なく収奪し、原住民を貧困のどん底におとしいれたとするものである。この見解は19世紀中ごろ以後のシベリア出身のロシア人学者たちにひきつがれた。ただしこの場合、シベリアのロシア人農民や手工業者たちはシベリア原住民によい影響をあたえたことを指摘している。…

ロシア人のシベリア進出にともなう原住民の移動
現在、シベリアの総人口は約3000万、うち原住民は約100万人にすぎないが、最初ロシア人は、ロシア人のまったくいない地域へ侵入したのである。しかし原住民は侵入してくるロシア人に対して本格的な抵抗をすることはできなかった。シベリアの土地はあまりにも広大で、住民の数はあまりにも少なく(総数約30万)、また組織化されていなかった。またロシア人は政治・経済・軍事などの面で、原住民よりも圧倒的に優勢であった。原住民は稀れに反抗することもあったが、しかしそれは散発的・局地的なものにすぎず、すぐに鎮圧されてしまった。原住民は、進出してくるロシア人の圧迫から逃れるために、むしろその住地を変えることを選んだ。つまり消極的抵抗しかできなかった。そして、その後は毛皮税(ヤサク)の納入者として、移動すらも不可能となったのである。

ロシア人のシベリア進出直前の民族移動
〔ブリャト〕
ブリャト(ブリヤート)はモンゴル語を話す民族であるが、その形成地は現在と同じバイカル湖沿岸であった。バイカル湖沿岸の住民のなかへ、モンゴル高原からのモンゴル人がくわわって、現在のブリャトが形成されたものである。
ブリャトはロシア人の進出直前、バイカル湖岸から西方へ移動する傾向にあった。彼らはコソゴル湖付近およびエニセイ川上流部においてトゥワ(都播)やキルギズなどの民族と接するようになった。ブリャトの西方移動は、ロシア人の進出する17世紀までつづいた。

ロシア人がブリャトとはじめて接触したのはカン川であった。毛皮税の台帳によれば、1686年ロシア人のつくったバラガンスク砦付近に多くのブリャトが住んでいた。チュナ川、ウダ川の岸辺にもブリャトの住地があった。
ロシア人の進出以前におけるブリャトの住地の拡大は、ヤクートが北方のレナ川中流部へ移動した原因の一つと考えられている。
ロシア人がバイカル湖沿岸地方へ進出する前に、東部のブリャトはすでに、プリミティヴながら農耕を知っていた。…

〔ヤクートと北東シベリアの他の諸民族〕
ヤクートがバイカル湖沿岸地方から北方のレナ川中流域に移住したことは、多くの言語学的・考古学的資料によって証明されている。またヤクートの伝承によっても明らかにされている。しかしこのことは、ヤクートがすでに形成を終わった民族としてレナ川中流域に移動したことを意味するものでも、移動が一度だけおこなわれたものでもない。…
その時期について一部の歴史家は、最初の波は紀元初頭で、つぎが7-9世紀、最後がチンギス・ハン時代のモンゴルの移動にともなうものと考えている。考古学者オクラドニコフによれば、最後の波が15世紀末から16世紀初頭であるという。

ヤクート族は南から移住したチュルク系要素とブリャト・モンゴルの要素が原住民と混じって形成された。民族学者トカレフは書いている。
《ヤクートは、原地住民と移住民のいくつかのグループによって形成された。南方起源の要素はそのなかの一部にすぎない。原住民の言語はツングース系であったと考えられる。移住民のうち、一部はモンゴル語を話し、別のグループはチュルク語を話した。これらの言語が混じりあって新たな共通語が形成されたが、この言語の基本構造はチュルク語であった。》

ヤクートの形成において、南方からの移住民が重要な役割を果たしたのは、言語だけでなく、南方からもちこまれた牧畜という生業である。ヤクートは明らかに「騎馬民族」であった。乳のしぼり方をはじめ牧畜技術のすべてが南方のチュルク・モンゴル系諸民族と同じであった。牛もまた南方からもちこまれた。トカレフは書いている。
《牧畜はいうまでもなく、ヤクート地方にすぐに根づいたものではなかった。草原の家畜にとって不慣れなきびしい気候のために、もちこまれた家畜の多くは死んだ。新しい移住民がくりかえし家畜をもちこんで、気候条件に合わせて飼いならしたにちがいない。》
北方での牛の飼育は馬よりもなお困難であった。ヤクートの牛の品種は明らかにバイカル湖沿岸とのむすびつきを示している。

ヤクート地方は広大な面積を占め、しかもそこに住んでいた原住民ツングース(エヴェンキ)の人口は稀薄であったが、しかしそれでも、南方からのヤクートの移動はツングースに影響をあたえ、彼らを移動させた。ただし、当時ツングースは、それまでの徒歩移動から乗用トナカイを利用した移動に変わりつつあったから、ヤクートの移動はそれに拍車をかけたにすぎないともいえる。当時、シベリア北東端のチュクチにおいても、海岸の定住海獣漁撈と、内陸部のトナカイ飼育民の間の相違がひろがりつつあった。…

〔北西シベリアの諸民族〕
北西シベリアでは、チンギス・ハンの孫バトゥの遠征と金帳汗国(キプチャク・ハン国)の形成の結果、オビ川イルティシ川の中流部に「シベリア・タタール」が進出した。この結果、原住民ハンティ(旧称オスチャク)とマンシ(旧称ヴォグール)の間では氏族制の解体がはやまり、封建制の発生が促された。両民族とも、南方の遊牧民から牛馬の飼育を借用したが、東方のヤクートにおけるような発達をみなかった。この原因は、彼らの場合、家畜としてのトナカイ飼育が早くからおこなわれていたからと考えられる。

マンシは、ロシア人のシベリア進出よりも約200年前、ウラル山脈の西方に住んでいたことが知られている。彼らが東方のオビ川流域に移動したのはコミ(旧称ズィリャン、ペルミャク)の増加によるものと考えられる。他方、ウラル北部でのノヴゴロド住民による毛皮税(ヤサク)の徴収はペチョラ川流域における毛皮獣資源の悪化とともにますますきびしくなり、マンシを東方へ駆りたてた。…16-17世紀の北方諸民族にかんする記述にが、唯一の橇曳用家畜としてしばしば書かれていたが、それがしだいにトナカイにかわっていった。…トナカイ飼育の発展とともに、シベリア北西部の住民はしだいにトナカイ遊牧の様相をつよめた。
17-18世紀における北東シベリア諸民族の移動
この時期の原住民の移動は、直接間接にロシア人の進出結果によるものである。北東シベリアの場合、この時期でもっとも大きく移動したのはヤクートとユカギルであった。
ロシア人の進出当時、毛皮税の台帳によれば、ヤクートの住地はその百年以後にくらべてはるかにせまかった。マイノフによると、南西方におけるその密集地はレナ川沿いに、東部はアムガ川に限られていた。それが18世紀になると、はるかにひろがっている。反対に、17世紀に広大な地域を占めていたユカギルの住地は著しくせまくなっている。ヤクートの拡張について、19世紀の著名なヤクート研究家セロシェフスキーは書いている。
《これは実際、奇跡的ともいえる変化であった。わずか50-60年間にばく大な人口(もちろん当時の規模での話であるが)と広い面積を占めるにいたったのである。》
マイノフは、ヤクート住地の拡張は、ヤクートの人口の急激な増加によると説明している。しかしそれにしてもあまりにも急激な変化であるために、研究者のなかには、ロシア人の進出当時ヤクートの住地がせまかったことをみとめようとしない人もある。つまり毛皮税の台帳に誤りがあるのではないかとみている。

しかしこれは少数意見にすぎない。地理学者ポクシシェフスキーは書いている。
《われわれは知っている。われわれの祖先であるシベリア踏破者たちがどれほど正確に、彼らの出会った“異民族“グループの所属を明らかにしたか、また代官所においてどんなに注意深くそのデータを総括したかを知っている。その資料は“異民族“統治と毛皮税の課税額算定の基礎となったものである。》…

こうしてカザクの毛皮台帳を疑うことは困難である。地理学者ポクシシェフスキーは、ヤクートの人口と住地の増加・拡大をつぎのような二つの理由で説明している。すなわち、ヤクートはロシア人征服者にしたがってツングースの住地に入り、ロシア人が一時的に去った後にも、その地にとどまった。また多くのヤクートがロシア人カザクに従って行動し、褒賞として牧地や狩猟用地を特権的に分与された。…
第二は、以上とはまったく逆の理由である。一部のヤクートはロシア人の徴税からのがれて、オレニョク川、ヤナ川、インディギルカ川、コリマ川、一部はヴィリュイ川、さらにはオリョクマ川の流域まで入りこんだ。…

ヤクートの進出によって、ツングース系諸民族はさらに遠くへ散っていった。たとえばジガンスク砦付近のツングースはエニセイ川の西側まで移動した。ドルガーンも西方へ移動した。レナ川の東側でも、ツングースの住地が縮小した。

ユカギルの人口と住地も急速に縮小したが、これについては後に述べることにして、さらに北東方のチュクチについて一言しよう。チュクチ族の研究者ヴドヴィンは、18世紀中ごろ以後、チュクチがアナディル川の南方へ、チャウナ川の西方および南西方へ移動をはじめたことを指摘している。また少し後代になると、チュクチはコリマ川流域まで進出し、ロシア人と衝突するようになった。
コリマ地方の「トナカイ」チュクチは、ツングースからトナカイを借用し、これを乗用に利用し、場所によってトナカイの新品種をつくりだした。19世紀になると、一部の富裕なチュクチは5000頭からのトナカイ群を所有した。

ユカギルの謎
北東シベリアの諸民族のうち、ユカギルは不思議な民族の一つである。この民族はかつてレナ川下流部からアナディル川流域までの広大な地域を占めていた。ソ連の民族学者ドルギフが17世紀の毛皮税台帳によって調査したところ、17世紀中ごろで約4350人を数えた。…それ以前はさらに広大な地域に分布していた。これはユカギル語の分析によって明らかにされている。オクラドニコフとレーヴィンは、ユカギルの先祖こそはシベリア北東部(今のヤクート自治共和国)の最古の住民であったと考えている。近年ユカギルとサモディ(サモエド)語との関連が指摘された。これは、ユカギルとサモディ系民族とがかつて隣接していたことを示している。しかし現在のユカギルとサモディ系民族とは遠く離れており、両者の間にはツングース系の民族がくさびのように入っている。これは比較的新しい時代のできごととされている。

ユカギルの生業は、徒歩による野生トナカイ狩りであった。冬は橇を利用し、秋はおとりを用い、夏は湖岸や川岸でトナカイを待ちうけ、それを渡るトナカイを小舟に乗って仕とめた。また、秋にはプリミティヴな網で魚をとった。住居は竪穴を利用した円錐形のものが多かった。17世紀当時、ユカギルの物質文化はヤクートやツングースにくらべてはるかにプリミティヴであった。

ユカギルの人口はその後急速に減り、1859年にはわずか639人、1897年に351人となった。実に17世紀当時の十分の一以下である。1894-97年、ヨヘルソンの調査によれば、ユカギルはほとんどが、ヤクート、エヴェン、ロシアなどの人びとの住地のなかにまじって住んでおり、ユカギル語を話す家族は自称ユカギルの約三分の一にすぎず、あとはロシア語やエヴェン語、ヤクート語を話した。

ユカギルの人口減少は、ロシア人はもちろん、ヤクートやエヴェンにくらべても生業形態がプリミティヴであり、そのうえ飢餓、貧困、伝染病、ロシア人など支配者によるきびしい収奪、近隣諸族との融合が原因とされている。現在、自らの言語を知り、民族意識をもち、若干の文化的特徴を残すユカギルは150人ほどで、それもロシア革命後のソ連の少数民族保護政策の結果であるとされている。

アムール川流域諸民族の移動
ロシア人がアムール川中流部に進出した当時(1640-50)、その地域に住んだダウル、ゴグル、デュチェルらの民族が農耕を営んでいた。…ゴグルとデュチェルは同族であった。この繁栄が急激に衰退するが、その原因については、ロシア人の進出前後におこなわれた清の遠征によるといわれている。

ロシア人がはじめてアムール地方に進出したのは、1644年ゼーヤ川からアムール川に入ったポヤルコフの一行であった。ついで1649年には、ハバロフの一行がヤクーツクからアムール川へ進出した。ロシア人はアムール川を下りながら住民に毛皮税を課したが、そのときの台帳によると、17世紀なかばのギリャク(今のニヴフ)の住地は、最近までの住地とほぼ同じであることが判明した。

の太祖(ヌルハチ)と太宗は、ワルカ部征討(1634、1635、1637)をおこない、主としてウスリー江流域のフルハ(デュチェル)人を服属させ、多くの若者を八旗にくわえた。
1653年、カザクの一人ステパノフがハバロフにかわってアムール地区ロシア人の隊長となり、55年には中流・上流部の原住民から毛皮税を集めた。その翌年、ステパノフが再度この地を訪れたときには、デュチェル、ダウルは姿を消していた。
《これは清朝がデュチェル人の住居を強制的に焼きはらったり、こわしたりして、松花江の支流フルカ河方面にかれらを移住させたためであった。》(吉田金一による)

ステパノフの指揮するロシアのカザク兵と清軍との間でしぼしば軍事的衝突がおこり、1654年と58年の戦闘では、清国の要請によって朝鮮の鉄砲隊(150名)が派遣されたことが知られている。吉田金一の研究によれば、1658年の戦闘ではステパノフ以下220名が戦死、朝鮮の兵も8名戦死、25名が負傷した。…
ステパノフの敗北によって、ロシア人はいったんアムール川から姿を消すが、1660年代後半以後、ザバイカル方面から多くのロシア人がアルバジン地区に移住しはじめた。1680年代の初めには、アルバジンを中心とするアムール川の沿岸320キロメートルにわたって農地1000ヘクタール以上が開かれ、そこに営農部落20があった。

ロシアのアムール川進出は1689年8月29日に調印されたネルチンスク条約によって頓坐し、シベリア経略の方向はカムチャツカ北アメリカの方面へ転じたのである。…

(参考) シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-
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# by satotak | 2009-03-13 21:34 | シベリア
2009年 02月 07日

女真族の国家

川本芳昭著「中国史のなかの諸民族」(山川出版社 2004)より:
女真族の興起
遼や元を生み出したモンゴル高原の東境には南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)が横たわる。その東麓には現中国の東北地方、かつて満州と呼ばれた大平原地帯が存在する。

この大地は古来より言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族が活躍した舞台であり、古くは粛慎(しゅくしん)、挹婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が活躍したことを中国の史書は伝えており、なかには高句麗(こうくり)や渤海(ぼっかい)などのように強大な国家を建設するものもあらわれた。ただ、これらの諸族は基本的に万里の長城の線をこえて南下拡大することはなかった。

しかし、海東の盛国と称された渤海[契丹]によって滅亡させられたのち、その後身は女真(女直)という名のもとに結集を始め、やがてそのなかの完顔(ワンヤン)部がを建国するにいたり、それまでとは違った様相が生じるようになる。
完顔部の阿骨打(アクダ)は遼の圧政を排除しつつ、ムクンと呼ばれる単位を基礎とする氏族制社会としての女真勢力を改編して、完顔部を中心とする支配力を強化し、会寧(かいねい)を首都とする金を建国し、女真文字を定め、外に向かってついに長年の宿敵たる遼を滅ぼすことに成功する。この拡大は、金の華北進出から、さらに北宋の打倒へと展開し、やがて江南に南渡した(南宋)と淮水(わいすい)をはさんで対立するまでにいたるのである。

12世紀末の北東アジア
[拡大図]

こうした動きは、明らかにそれまでの満州諸族の歴史展開とは相違するものであり、その背景には、遼や北宋などとのあいだに生じた個々の具体的政治状況の存在とともに、古来より展開してきた満州系諸族の経済的・社会的発展の存在が関係していた。金による華北支配はそうした発展の、帰結であったということもできる。

この金は、華北を領有するとその基盤を華北に移すようになり、やがてそれは女真族の漢化民族性の喪失を惹起し、新興のモンゴルによって滅亡させられるにいたる。その結果、金の中国王朝化後も満州に残留していた女真族は、モンゴル・元の支配下に組み込まれ、その強大な軍事力に圧服される時代をむかえるのである。しかし、そのような状況下にあっても女真族再結集への動きは存続しており、それは明のあと、後金国が興隆してくる基礎となるのである。

金朝の国制
さて、完顔(ワンヤン)阿骨打(アクダ)は、1115年、自立して帝位につき(太祖)、国を金と号したが、その前年の14年、配下女真族を統制するうえでの軍事・行政の両面をかねた猛安(もうあん、[ミンアン])謀克(ぼうこく、[ムクン、ムケ])という制度を定めた。これは、300戸を1謀克としてこれを行政上の基礎単位とし、10謀克をもって1猛安とする制度であり、その1謀克当たり100人の兵士を徴し、これを軍編成の基礎単位として、1猛安当たり1000人の部隊を編成する軍事制度であった。各猛安、謀克の長の名称もそれぞれ猛安、謀克と称し、それらは世襲の職であり、そのために世官と呼ばれることもあった。

猛安はミンガンという女真語で「千」の意味をもっており、謀克は同じく女真語で「族長」を意味する言葉である。よって猛安・謀克制とは3000戸の構成員から1000人の戦士を徴発する制度ということになり、猛安が「千」の意味をもつことから行政上の制度の面をもちながらも、その本質は軍事面にあったということができる。こうした制度はさきにモンゴルの軍制についてふれた際、千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)の制やノヤンの制について述べたが、ミンガンという呼称の一致面をも含めて、金においてもこれと同様のことがおこなわれたことがうかがわれよう。また、その際、その千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)制と遼の軍制、はたまた北魏の軍制との共通性についても論じたが、そのことは大きくとらえると、金の猛安・謀克制は北魏の軍制(行政制度でもある)である八部制と同様の性格をもっていたことをも想定させるのである。

金は1142年、宋と和議を結ぶと、華北の治安維持のため多数の女真族をその猛安・謀克の組織のまま、満州から華北の地に移したが、その形勢は金の第四代海陵王による燕京(えんけい)遷都によっていっそう著しいものとなる。彼らが漢人といりまじって居住し、耕地を与えられ税負担も軽く抑えられた反面、漢人に対しては過重な負担がしいられた。このことは漢人の金朝に対する反感をいっそう強いものとし、金朝の滅亡の大きな原因の一つとなる。

彼ら自身も華北に移住した結果、自らの母語である女真語を失い、漢語をあやつるようになるなど、物心両面におよぶ中国化と民族性の喪失を生むのである。…

海陵王と世宗
…金の第四代海陵(かいりょう)王(完顔亮)は満州の都・会寧府(かいねいふ)を棄てて華北の大興府(北京)への遷都を断行し、多くの女真族を華北の地に移住させた。また彼は、皇帝権の強化のために宗室諸王や女真族大官を抑圧し、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、南宋を討つために、多くの反対を押して淮南へ軍を進めている。この海陵王の事跡をみるとき、北魏[注1]の孝文帝の事跡とのあまりの類似に驚かざるをえない。

海陵王と同じく中国文化にあこがれた北魏孝文帝は都を多くの家臣の反対を押しきって平城(大同)から洛陽へ移す。また、彼は洛陽遷都にみられるような中国王朝化をめざした施策に反対する鮮卑族大官を数多く粛正した。また、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、江南にあった南朝を討つため、多くの反対を排して南伐の軍を起こす……。

こうした類似が生じた根本には、皇帝個人の志向もさることながら、そこに両国が中国を支配するようになって徐々に進行する中国化にいかに対処し、その国家としての基盤を確固たるものにするにはこれまでの国家の有り様を根本的に変革するよりほかにない、とする判断があったがためと考えられるのである。

ただし、金と北魏を比較した際、その中国に対する対応にはやはり相当根本的な相違も存在する。それは、女真文字の創出や、海陵王のあと即位した第五代世宗(完顔烏禄)の施策にみられる女真族国粋の強化と、再興への動きの存在などに端的に示されているとされよう。その意味では、金はやはりそれに先行する遼、その跡を継ぐ元と同じく征服王朝としての性格を濃厚にもっており、北魏後に展開された北アジアの歴史発展を踏まえて出現した国家といえる。

しかしまた、金が遼や元と比較して中国文化と親和的な国家であったということもこの際、確認しておく必要がある。そのことは金が華北支配にあたって科挙(かきょ)制度を排除せず、1127年、その制を採用し、漢人を中央行政、地方行政において活躍させ、決して除外しようとしなかったこと、あるいは、金一代をつうじて儒教を国家の指導理念としていたことからもみてとれる。

つまり、金の場合、たしかに世宗にみるように女真主義の強化を標榜するものがあるが、それはあくまでも中国思想・文化を排斥、それと対立しようとするものではないことは注目に値しよう。このような遼・元との相違が生じた原因としては種々の事柄が考えられるが、その要因に、モンゴル高原という遊牧を生業とする地から発した国家としての遼・元と、満州という狩猟や牧畜、そこで農耕をも部分的におこなう地から発した金との差異があることは確実なことといえるであろう。

清による中国支配
元代の女真族がの強大な軍事力に圧服され、そうしたなかでも再結集をめざす動きがあったことをさきに述べたが、が江南の地を確保し、さらに元を追って満州にまで進出すると、女真の一部は明に帰服し、満州から元の残存勢力を駆逐した。その後、明は巧妙な羈縻(きび)政策[注2]をとり、有力首長に官職を授け彼らに朝貢・互市貿易の特権を与えることをつうじてその懐柔に成功した。

明代の女真族は満州南部の建州女直、松花江沿いの海西女直、東北極遠の野人女直に大別されるが、海西女直と建州女直は明一代をつうじて徐々に文化的・経済的生活を向上させ、明末には有力者の荘園も出現するようになる。その社会組織は血縁によって構成されるムクンとともに、地縁共同体としてのガシャン(村)もあらわれ、さらに明末にはその連合体としてのアイマン(部)やその諸部を統合したものとしてのグルン(国)が形成されるようになった。これらの部、国が明との朝貢・貿易権をめぐって激しく抗争し、やがてそれは建州女直出身のヌルハチの制覇に帰して後金国[アイシン国]の建国をみ、清朝へと発展するのである。

は第二代太宗ホンタイジが1643年に没し、子の世祖順治帝が位につくと、幼少のため睿(えい)親王ドルゴンが摂政となって政治にあたった。翌年、北京が李自成によって攻略され明が滅ぶと、これに乗じて清は万里の長城の要衝・山海関を突破して華北にはいり、北京に都を移した。これによって清は以後、1911年の辛亥<(しんがい)革命にいたるまで300年近くの年月にわたって中国全土を手中におさめる満州族による征服王朝として中国の大地に君臨することになる。…

[注1] 北魏 (386~534年):混乱を極めた五胡十六国時代を収束し、のちの隋唐統一帝国の母胎となった、鮮卑(せんぴ)族の一たる拓跋(たくばつ)部が建国した非漢民族国家。この国家は華北の大地のほぼ全域を統一し(439年)、以後100年をこえる支配を実現するが、中国史を通観するとき、中国の大地に侵攻し、国家を建国した北方諸民族国家の一つの典型を示しているといえる。
その北魏を建国する鮮卑族拓跋部は3世紀のなかごろ、その初期のリーダー拓跋力微(りきび)が諸部を合わせて盛楽(いまの内蒙古和林格爾(ホリンゴール))を中心に活躍するようになってから明確なかたちで史上にその姿をあらわし、以後、曲折をへながらもモンゴル高原の一大勢力として成長していく。
4世紀末、拓跋珪(けい)は、はじめて帝号を称し(太祖道武帝)、登国と建元して国号を魏と定めた(386年)。その後、道武帝、太宗明元帝、世祖太武帝と続く三代の皇帝の治世のあいだに、着々とその支配領域を拡大し、439年ついに割拠する諸国を平定し、華北を統一するまでに成長する。
そうした安定を基盤として北魏の最盛期を現出させた皇帝が、隋唐の均田制や日本古代における班田収授制に影響を与えた均田制を実施した皇帝として史上著名な高祖孝文帝・拓跋宏(こう)である。

鮮卑族はモンゴル高原東南部から大興安嶺南部を本拠地として、1世紀末からしばしば長城を越えて中国北部に侵入した遊牧民集団。東胡の末裔といわれ、言語はモンゴル系であったという説が有力だが確証はない。2世紀後半中国の体制が弛緩し治安が悪化すると、そのような状況から逃れるため、逆に大勢の中国人が長城を越えて鮮卑族の領域に移住し、人口増加をもたらすとともに、経済的・文化的に大きな影響を与えた。

[注2] 羈縻政策:羈縻(きび)とは、羈が馬の手綱、縻が牛の鼻綱のこと。アメとムチの政策を使い分けながら、国力の消耗を極力抑え、国家の威信を発揚していく中国王朝の対外政策。
朝貢・互市貿易の特権:中国王朝に朝貢する周辺民族は、帰属と貢物を献上する見返りに、朝廷から官爵や献上物に数倍する回賜(賜物)をえた。また、自国の産品と中国の産品とを交易する権限も与えられた。この権限は首長層に大きな利益をもたらした。
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# by satotak | 2009-02-07 12:41 | 女真・満州・内蒙古
2009年 01月 23日

満族 -創出される民族、想像される民族-

劉正愛著「民族生成の歴史人類学 -満洲・旗人・満族」(風響社 2006)(注1)より:


■ 集団の名称とアイデンティティ
満洲(注2)が正式にある人々の集団を指す言葉として用いられたのが1635年だとすれば、それ以降書かれた歴史(あるいは神話)に登場する「満洲」は、歴史を書いた時点から遡上して定立されたものである。それは「満族(注3)という語が1950年代以降正式に使用されたにもかかわらず、あたかも当初から存在しているかのように語られているのと同じである。

集団の名称は、名付けであろうと、名乗りであろうと、それが生まれた時点から、遡及的にそれにアイデンティティを求める運動が起きる。「満洲」と「満族」という語はそういった意味でも、人々のアイデンティティの形成においては特に重要な意味を持つものであるといえよう。しかし、清朝政府がその「満洲の道」を推進するに当たって、八旗満洲や八旗漢軍を問わず、旗人を一つのカテゴリーとしてみてはいたものの、「満洲」という言葉は決して八旗漢軍や八旗蒙古を包括できる概念ではなかった。たとえば、八旗漢軍は「旗人」であっても「満洲人」「満人」ではなかった。

現代満族の間で「純粋な満族」とそうでない「満族」という議論があるのもそのためである。「旗人」はすべて「満族」と見なされるが、旗人の構成における多元的特徴のゆえに、満族はさらに二つのカテゴリーに分類される。つまり、八旗満洲は「純粋な満族」で、八旗漢軍は「純粋な満族」ではないという考え方が生まれるわけである。ただ、こうした議論は外部調査者あるいは行政への応対の時に表に出るものであって、日常生活ではほとんど意識されない問題である。…

一方、「民人」というカテゴリーも考察の対象にしなければならない。なぜなら、東北地方ではこれら「民人」――旗人ではない漢人の後裔たち――も今日では満族の一員になっているケースが数多く確認されているからである。…

東北地方のいくつかの事例と福建省の二つの事例を比較してみれば分かるように、今日満族と呼ばれる人々はその歴史的・社会的背景が異なるがゆえに、アイデンティティの表出も異なっている。
村人の話を借りれば、肇家村(注4)では、80年代、特に84年の上夾河満族郷成立以前は「誰も満族という言葉を口にしなかった」。「満族」という言葉が頻繁に登場するのはそれ以降のことである。肇家村では…周囲との明確な境界もなければ、他者を強く意識することもない。なぜなら、彼らは自ら満族であると強調しなくても、事実として満族であり続けてきたため、自らを差異化する必要に迫られていない。つまり、彼らの日常生活における生活実践は「無意識の生活様式」である。

それに対して、福建省の満族、特に琴江(注5)の満族は、長年地元の福建漢人とは異なった社会的環境(物理的にも精神的にも)に置かれたため、自らを差異化しないと「満族」としてのステータスを確保できない。血縁的に漢人に結びつけられるような「漢軍旗人」という立場は時として彼らを困らせる。彼らは数百年間旗人として生活しており、「旗人」=「満族」という図式が成り立つならば、彼らは文句なしの「満族」である。しかし、行政側を含む周囲の人々は彼らが「漢軍」ということでそれを否定する傾向にある。民族籍を満族に変更し、満族村が成立されて20数年以上たった今でも、彼らの「満族」としてのステータスは常に「漢軍」であるがゆえに不安定なままである。「満族」であることを証明するためには、周囲の漢人とは異なる旗人たる身分を証明しなければならず、それは同時に国のために献身的に戦った功績の証明にも繋がる。そして、何よりも重要なのは、文化的差異を強調する必要がある。それはたとえどんな小さな差異でも、彼らにとっては大きな意味を有する。…

彼らが積極的に「満族」として名乗り出る背景にはもうひとつ重要な要素がはたらいている。それは単に少数民族としての優遇政策を享受しようとするだけではない。宗族組織が発達している「城外」の福建漢人社会に囲まれた社会的環境において、個と個の繋がりの薄い彼らにとって、「満族」は共同体の結束力を高める重要なカテゴリーでもあるからである。その意味において、彼らのアイデンティティには強い政治性があるといえよう。

しかし、一方では、民族政策の実施に伴う厚生的利益享受のための民族籍変更が見られており、同じ満族でも決して一枚岩的ではない。
…1985年満族自治県の成立をきっかけに新賓の満族人口は1982年の33%から1985年の63%に急増した。これは少数民族人口が半数以上占めることが自治県成立の条件の一つとされたため、県政府や郷鎮政府の動員によって多くの人が満族籍に変更したことに起因する。満族として新たに登録したのは、①八旗満洲後裔(辛亥革命以降に漢族に変えた者)、②八旗漢軍の後裔(元漢族と申告した者や満族と申告したが辛亥革命以降に漢族に変えた者)、③民人の後裔などであるが、変更の原因については少数民族の優遇政策のためだと答える人がほとんどである。

現在、中国において、少数民族とは厚生の対象となる籍としての性質をもっており、少数民族になることは様々な優遇政策を享受できることを意味する。ここで、アイデンティティの実利的側面を窺うことができる。もちろん、これは自治県という特殊な行政地域においてのみ顕著に現れることであり、すべての少数民族の民族意識が実利的であるとは言っていない。事実上、利益などかまわず、満族としての強いアイデンティティを持っている人は多数存在しており、また、利益があっても「民族を裏切る行為」をしたくないため、頑なに民族籍を変えない漢族もいるわけで、アイデンティティを一枚岩的にとらえては決してならないのである。

■ 創出される民族、想像される民族
筆者は肇家村を含め新賓満族自治県の五村及び… (調査対象は満族が大半を占める)などで個別のインタビューを通して意識調査を行ったが、満族の特色を表すものはなにかという質問に対して、「漢族と大して変わりない」との回答は90%以上であった。しかし、この語りは「満族は自らの文化を持っていない」という意味ではなく、逆に「漢族はわれわれ満族と変わりない」という意味でとらえることもできる。この場合、「漢化」と「満化」の図式は同時に成立できる。
標準中国語の基礎になっている北京語は、清代の旗人語に由来するといわれるように、現代中国語に対する満族の影響は無視できない。中国の伝統服といわれるチャイナドレスも実は旗人の服装「旗袍」の改訂版であり、食生活においても、東北、北京地方では満族の伝統的メニューといわれるものがまだ生きている。だが、これらは満族の独立した文化体系としてではなく、むしろ支配王朝における満漢文化の相互受容によって新たに生み出された旗人文化あるいは地域文化として存続してきたのかもしれない。...

東北の地域文化として表象されてきたこれらの文化的諸要素は、満族の伝統文化として新たに意味付けられ、アイデンティティ構築のための文化的距離は明確な形で確立された。これらの「選び取られた」文化要素がエスニック・マーカーとして再びクローズアップされたとき、それは、文化要素の原初性から用具性への転換を意味し、ある種の政治性を帯びるようになる。

八旗満洲、八旗漢軍、八旗蒙古を網羅する「旗人」は、初期においては様々な異質の文化を抱え込み、後期ではそれらの異質な文化要素が渾然たる一体をなし、新たに再構成された旗人文化を所有する「上位集団」となった。
この上位集団の中でも上は為政者から下は八旗兵士や庄園の農奴までの階級区分があった。しかし、辛亥革命とともに清王朝の統治に終止符が打たれ、中国が王朝政権から国民国家に移行したとき、「旗人」は、今度はそれを陵駕する政治的権力国家の中に内包される下位集団少数民族としての満族へと反転していった。このとき、かつての階級的区分は消し去られ、かつて存在した満洲・漢軍・蒙古などの区分もなくなり、「旗人」はそのまま想像された均質的な文化や共通の起源に基づく「満族」として生まれ変わる。

現在「中国人」と呼ばれる人々が国民国家の成立と共に形成された一つの「多元一体」的な民族範疇(中華民族)であるとすれば、かつての「旗族」という語に示されるとおり、「旗人」もまた当時においては「民人」を排除した、狭い範囲とはいえ一つの「多元一体」(満、漢、蒙、朝ほか)的なカテゴリーであったといえよう。

支配的な「漢化」という言説の中で、80年代の半ばから満族は今日を待っていたかのように人々の前に現れ、自らの存在を強く主張し始めた。共通言語の不在や文化的特徴の欠如のために、「帰属意識」のみが強調されてきた満族は、近年様々な歴史的記憶を想起し、「歴史文化の再構成」活動が政府主導の観光の場で行われ、かつて曖昧であったイメージの明確化を図っている。ヘトアラ城(注6)に代表されるように、そこに動員されるファクターはヌルハチにまつわる清前史、ヌルハチ家の生活様式など一連の王朝系譜的なものであり、「満族文化」=「清朝文化」という図式が成り立っている。ここで、歴史と文化は経済利益を獲得する商品として開発され、歴史や文化の真正性を問う研究者らとの思惑の違いも見られている。しかし、本物であろうと、まがいものであろうと、すでにそれらは確実に満族文化の一部になっている。...

民族は流動的で多変的な現象であり、民族という概念は常に変化のプロセスの中で捉えなければならないということは今日人類学においては常識である。しかし、多くの場合、民族は自明の概念のごとく語られているため、あたかも実体として存在するかのような錯覚を人々に与える。言語、文化、宗教、慣習などの定義要素は他者規定による客観的基準であることが多い。しかし、自らの言語を持たず、宗教・生活慣習などを共有しない場合でも、自分たちは「○○族」だと認識することはよくあることである。
このような共属意識が行政という制度に対応する必要が生じた場合、上記の他者規定による客観的定義要素は自己規定による主観的定義要素に転じ、主観的認識を裏付ける「証拠」として逆利用される場合がある。これは例えば、言語の再習得や「伝統文化の回復」など客観的に定義し得る方向へ向かう姿勢によく表れている。したがって、客観的定義要素と主観的定義要素は決して無関係のものではなく、むしろ互いに補完し合うものであり、定義される主体側が自らの状況に応じて巧みに操作していくものである。ここで主導的役割を果たすのは主体内部の権力者やエリートなどの「活動家(エージェント)」である。

中国の民族を論じる際のもう一つの重要な側面は、戸籍制度民族政策の関係である。1949年以降、中国では民族政策を戸籍制度に反映させるために、戸籍に「民族成分」という欄が設けられた。個々人にとって、「民族成分」は簡単に変更できず、民族籍は避けられない問題である。両親の民族籍が異なる場合、子供はそのどちらかを選択することができる。50年代から行われた国家主導の民族識別作業は、多くの人の民族籍を行政的に確定した。こうした制度的な他者による定義は個々人のアイデンティティを一層複雑なものにした。人々は生まれたその瞬間から、制度的にあるレッテルを貼られてしまい、その後、自分の意識がどうであれ、通常一生○○族として生きていかなければならない。

一方、戸籍上の民族籍の欄は逆に彼らのアイデンティティを規定する要因になったのも事実である。つまり、「○○族」というレッテルは漢族と少数民族を差異化する。その結果、少数民族側に差別される意識を与える一方、彼らの民族意識の高揚をもたらし、少数民族優遇政策に対応した利益獲得のための実利的帰属意識をもたらすことにもなった。つまり、中国において、「民族」は学術用語であるというよりはむしろ国民や住民を分類して統治するための行政的な装置の中で生まれた行政的範疇であり、国家によって作られた行政的範疇はそれに属される人々の「共属意識」を醸成し、それは「作為的・政治的」と「自生的・文化的」という二つの力の拮抗と相互作用によって維持されている。

佐々木[史郎]は民族帰属意識の形成過程について二つのケースを提示している。一つはカリスマ性を持った少数の指導者が政治力と軍事力を持って人々を結集して、それを民族に類する集団に仕立て、国家建設の原動力とするケースで、もう一つは国家の中枢を担う有力な人々によって区分され、枠組を与えられた行政的な「民族」が時とともにそれに属する人々の意識の中に定着して、帰属意識が共有されるようになり、人類学的に民族と見なせる集団になってしまうケースである。そして、満洲(満族)は前者の典型的な例だとしている。しかし、今日の満族はむしろ両方の性質を帯びているといえるかもしれない。つまり、清朝時代の「旗人」はヌルハチがその政治力と軍事力を持って結集した人々の集団であり、中華人民共和国成立後の「満族」は国家主導による行政的な「民族」である。しかしながら、「満族」は与えられた枠組の中で「満族」としての帰属意識を持つようになったのは確かだが、同時に「満族」という枠組を乗り越えて自らを清王朝に結びつけ、「旗人」としての社会的・歴史的記憶を依然保持し続けており、「満族」としてのアイデンティティを裏付けるものとして、その「輝かしき征服の歴史」を文化として打ち出している。

上述の通り、満族が今日、「満族」と呼ばれるようになったのは、様々な歴史的、政治的経緯があった。「旗人」という歴史的、政治的カテゴリーが「原初的体験」として満族の定義における客観的、主観的根拠になっているとすれば、中国における「民族成分」という制度は、制度への帰属意識を醸成する装置であり、「均質的で固定的な帰属意識を持たせ」るアイデンティティの新たな根拠として機能しているといえよう。

1949年まで、満族は自称、他称とも「旗人」「満人」「満洲人」などと呼ばれていたが、1949年以降、「満族」という呼称が正式に行政的名称として使用されたとき、満族は実体のあるものとして、あたかも最初から存在していたかのように語られ、自明の実体のある概念として人々の脳裏に植え付けられた。そしていまも満族自身を含め誰も「満族」という実体を疑うものはいない。
民族は「上から作られ」てきたというのは、ある程度の妥当性を持つかもしれないが、作られる側の主体性を剥奪してしまう危険性も常にあることを忘れてはいけない。その主体性を確立させるためには、もう一つの側面を視野に入れなければならない。つまり、それは「作られる」ことへの少数民族側の積極的な呼応の側面であり、国家によって「創出」された「民族」への少数民族側の「想像」の側面である。それらの一方だけを強調せず、二つあるいはそれ以上の力学を視野に入れてはじめて、中国における少数民族の本質を理解することができるのである。

この視点を受け入れたとき、われわれは、民族は近代に創られたものなのだから、民族そのものが存在するのではなく、民族は幻想でありウソなのだとする理論に疑問を投げかけるであろう。渡邊欣雄は沖縄文化を論じる際に、「仮構」という概念を利用し、絶えず生成し、創造される「沖縄文化」を積極的に肯定しようとした。「仮構」とはもともとなかったものが、あるものとして構築されることであり、真正なものかまがい物かを問わず、あるがままの現実を積極的に肯定しようとする姿勢を反映している。それに対して、「虚構」という概念はあるがままの現実を主観的に否定し、その現実を生きている人々の主体性を奪う危険性を常に孕んでいる。
「仮構」という概念は「民族」にも適用できるものである。民族は現に創られており、それに向かって振舞おうとする人びとにとって、「イメージ」や「目標」、「……らしさ」の民族は明らかにいま存在している。かれらのイメージや目標は、もはや民族を創った政策から離れ、民族の担い手のものになっている。かれらにとって民族は虚構、つまりはウソなのではなく、仮構、つまりは仮=前提として構築すべき対象になっている。民族の担い手たちにとって、民族はいかなる意味でもウソ=虚構ではない。

「ある特定の集合的アイデンティティの形態を無条件に普遍化し実体化する」本質主義を、支配や不平等を隠蔽する政治的役割を担ってきたとして批判した構築主義の功績は評価される一面がある。しかし、本質主義を絶対視するあまり、現実社会における人々の日々の実践を見逃すと、現実離れの空論になってしまうという懸念も残される。

筆者からすれば、「構築」と「本質」は表裏一体のものである。前者は固定したものへの相対化を図ることによって、流動的で、未来に開かれた可能性を切り開き、後者は揺れ動く意味要素を認知可能なものとして固定する作用をもっている。この両者のいずれをも絶対視せず、それらを、相互作用のスペクトルで捉えることが、いま必要となっている。つまり、人類学やほかの社会科学において重要なのは、意味の解体だけでなく、解体された後、新たな意味が生成されるプロセスを視野に入れることであり、そのためには共時的かつ通時的な研究である歴史人類学的手法が有効となってくるだろう。

(注1) 著者 劉正愛:1965年中国遼寧省生まれの朝鮮族、東京都立大学博士課程終了(社会人類学博士)、2006年現在北京大学社会学人類学研究所ポストドクター。本書は彼女の博士論文をベースにしたもの。

(注2) 満洲:1635年にヌルハチの位を継いだホンタイジが、自らの集団を指す言葉として、ジュセン(諸申、女真、女直)をマンジュ(満洲)に改名したということについては、歴史学会の定説になっているようである。

(注3) 満族:清朝の根幹的存在であった「旗人」が「満族」として認定されたのは1950年のことであるとされるが、「満族」が少数民族であるかどうかという議論はその後も続いた。

(注4) 肇家村:肇家(ちょうけ)村は遼寧省新賓満族自治県に属し、県庁所在地の新賓鎮から61キロ、撫順市から60キロ離れた山地に位置する。2000年現在の総人口は1612人である。満族と登録しているものは約93%で、満族集居村、そして愛新覚羅の後裔の居住村として内外にその名を知られている(「肇家」の「肇」は愛新覚羅の漢字姓)。

(注5) 琴江村:琴江村は福建省東部を流れる閔江(びんこう)南岸の烏龍江、馬江、琴江の合流するところに位置する省内唯一の満族村である。総人口は2002年現在157世帯の395人、うち満族222人、漢族171人、苗族2人。1979年まで、琴江村は洋嶼村に所属する一つの自然村(当時は「生産大隊」と呼ばれた)であったが、満族村として独立した。
琴江村の前身である常磐里は雍正7年(1729)に作られた。朝廷が福州に駐屯していた漢軍八旗から513名の官兵とその家族を派遣し、三江口水師旗営を創建したのが、その始まりである。

(注6) へトアラ城の「復元」:新賓は、農業以外に特に目立った産業はなく、交通不便などの原因で経済発展が遅れているが、観光開発が経済発展の柱産業となった。「ヌルハチの生まれ故郷、清王朝の発祥の地」と称される新賓では、美しい自然景色と清前史を観光資源として打ち出した。2000年に新賓で行われた記者会見で、ある政府関係者は次のように述べている。
「わが県中部の永陵地区に位置する清王朝の祖陵-永陵と後金政権の第一都城-ヘトアラ城などの歴史名勝は、民族英雄ヌルハチが残してくれた世紀を跨る作品であり、新賓観光産業の最大のカードである。清前史跡という文章を完成し、満族というブランドを打ち出すために新賓は1.5億元を投資し、全国唯一の「中華満族風情園』を建設し、清永陵、覚爾察城、皇寺などの人文景観を修繕・開発した」。
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# by satotak | 2009-01-23 20:59 | 女真・満州・内蒙古
2008年 12月 05日

二人のロシア人狩人 -20世紀初頭の満洲奥地で-

ニコライ・A・バイコフ著、中田甫訳「バイコフの森 –北満洲の密林物語」(集英社 1995)より:

鬱然(うつぜん)たる密林(タイガ)の静寂を破り、遠い銃声が響いてきた。私はぎくりとして耳をそばだてた。連れていた犬が、息を吸いこみ、利口そうな褐色の目でいぶかしげに私を見やった。私が声を立てぬようにと指で脅すと、賢い動物は尾を振って背に巻き、前もって踏みならしてある雪の上、私の横に座った。

私は岩山の険しい尾根の、がれ場のそばに立っていた。そこで、忠僕の黒ライカ犬シビルレットとジャコウジカの跡を追い求めていたのである。
黒い鬱蒼(うっそう)たるシベリアマツの森に覆われた張広才嶺(チャンクアンツァイリン)の支脈が、ぼんやりと青みがかって数十キロメートルにわたり、遠い空にかすんでいた。
下の谷底では、ここでは石河(シホ)と呼ばれている海林河(ハイリンホ)が、白いリボンのように曲がりくねりながら、暗い密林の高地を通り抜けていた。
山は静まり返っていた。曲がったシラカバの枯れた幹では、大きなクマゲラが丈夫な嘴(くちばし)で音を立ててつつきながら、哀れっぽく鳴いているだけであった。
上方には青空が広がっていた。絹雲が走るように流れていたが、それは、明日になれば雪が降り、風が吹くという前触れであった。
私は森の物音に耳を澄ましながら立ちつくしていた。その荘厳なまでの静謐(せいひつ)を破るものは、何ひとつとしてなかった。

このあたりには紅胡子(フンフーズ 匪賊)(注1)が出没していたので、不意をつかれてその手中に陥らぬよう、銃を撃った男の正体をつきとめておく必要があった。…

打つ手を決めなければならない。私は大声で犬を呼ぶと、銃を構えて先へ進んだ。
シラカバの幹の陰から人の姿が現れた。私がすぐそばまで近づき、「やあ、こんちは!」と言うと、男は両手で持っていた銃を下ろした。
「こんちわ!」見知らぬ男は答えた。
私の前に若い男が立っていたが、どうやらロシア人らしかった。中背で、均整がとれており、肩幅が広かった。長い亜麻(あま)色の髪がオオヤマネコの毛皮帽の下からのぞいていた。…
「あなたも狩りをなさってるんですか?」彼は、しばし沈黙していたのちに尋ねた。
「そうですよ」私は答えた。「ジャコウジカを探しとるんだが、ひょっとしたら、あなたがもう仕留められたのでは?」
「ええ、仕留めました。ほら、あの石の横に置いてあります。私はね、臓物抜きをしようとしていたら、あなたの姿が見えたので、相手が何者か確かめたかったんです。ぼくはヴェセロフスキー、名はアレクサンドル、父称(父の名から作られ、名の後につく)はイワノヴィチです。どうぞよろしく!」そう言うと、彼は大きいとはいえないが、がっちりした手を差し伸べた。…

日はすでに低く傾き、斜めの光が茂みのあちこちに射しこんでいた。暗くなった。私が別れを告げて立ち去ろうとすると、ヴェセロフスキーが先手を打ってきた。
「どこへ行くつもりです?ぼくの所へ来ませんか。小屋はすぐそこですよ。ぼくの小屋は、豪邸じゃないですがね、密林(やま)の雪の上で夜を明かすよりはましですよ」
彼のたっての要望でもあり、また森での野宿を考えると承知せざるをえなくなり、私は彼と並んで山腹を降り始めた。…
星空になった。私たちが険しい川岸に着いたときには、もう夜が訪れていた。崖下に二つの窓をもつ小屋がひっそりと建っていた。ノロ皮が打ち着けてある低くて大きな扉に表から突つかい棒がかってあった。
私たちは小屋へ入った。小屋の主がともした大豆油のランプの光で、かなり広い部屋が目に入った。壁ぎわに木製のベッドが置かれ、ふさふさした熊の毛皮がかぶせてあり、床の半分に同じような毛皮が敷いてあった。壁の横にかまどと、自然石を積み、粘土を塗った暖炉があった。さらに片側の壁には小さな机と椅子が置かれ、質素な小屋の調度品を補っていた。…

「ぼくの友達はまだです」テーブルに着きながら彼は言った。「多分、遠くに仕掛けた罠で手間取っているんでしょう。あのですね」-私のいぶかしげな表情を見て取ると、彼は言葉を続けた-「ぼくたちは二人でここに住んで、一緒に猟をしてるんです。ぼくは鉄砲一本槍(やり)ですが、連れのほうは銃ばかりでなくて、罠、つまり、それで毛皮獣を捕るんです。もう帰ってくるはずですがねえ。…ほうら、噂(うわさ)をすれば影とやら。帰ってきましたよ!」
…大きな話し声と犬の鳴き声が聞こえてきた。
シビルレットが緊張して背中の毛を逆立て、脅すように吠えだしたので、壁に打ち付けてある輪につながなければならなかった。
なんと驚いたことに、馬のいななきがするではないか。
いったい、なぜここに馬がいるのかと尋ねると、ヴェセロフスキーは、馬は三頭いて、一頭は馬車用、二頭は荷櫨(にぞり)用で、仕留めた獣を密林から鉄道沿線まで搬出するのに使うためだと言った。
「以前は、ただ働きみたいなもんで、運び出せないために、ずいぶん獣を無駄にしました。ところが、おかげさまで馬や運搬道具がなんとか手に入り、まあまあの暮らしをしてます。…

そのとき小屋へ、上背がある、もう若くはない男が入ってきた。かなり白いものが混ざった黒く濃い頬(ほお)ひげと、赤褐色の荒れた顔とは色の区別があまりつかなかった。
私は立ち上がって大男と握手したのだが、私の手はその大きな掌の中にすっぽり収まってしまった。彼は子供のようにいたずらっぼく笑うと、遠慮がちに首を振った。
「イリヤ・コンドラチェヴィチ・バラバシュ(名、父称、姓の順序)、あだ名はイリヤ・ムーロメツ(ロシア英雄伝説に登場する勇士)です!」ヴェセロフスキーは彼を紹介した。
「お好きなように呼んでください。ぼくは、いつもイリューシャ(イリヤの愛称)と呼んでますが、…」…

二人が獣の片づけや家事に追われている間に、私は彼らをよく観察し、ある程度の結論を得ることができた。
恐らく、アレクサンドル・ヴェセロフスキーはインテリ層に属しているが、イリヤ・バラバシュのほうは典型的な庶民であろう。私は、このようなきわめて特異な環境の下で、緊密な共同生活において異種の要素が結合したり、性格や理解力や物の考え方が異なっている性格の人が強い友情に結ばれているという事実に、深い興味を抱いた。…

イリヤはチェルニゴフ県(ウクライナ)の農民の出で、父に連れられてウスリー地方へ移住した。だが、不運なことに、父はチフスで亡くなり、彼は興凱(ハンカ)湖畔に建てた家を捨てて、ニコリスクヘ、そこからまたウラジヴォストークヘと移り、ドックの鍛冶(かじ)工になった。そこで五年ほど働いた。その後、商船会社の機械工になり、日本や、インドや、コンスタンチノープル(現イスタンブール)へも行った。やっとチェルニゴフ近郊の生まれ故郷の村へ帰ってきたものの、すべてになじめず、また極東地方へ舞い戻り、ウスリー州のチェルニゴフカ村に住民登録をした。
ここでは狩猟を業とし、かなりうまくいっていた。トタン葺(ぶ)きの家を建て、馬や牛も手に入れ、結婚もした。移住民の青年を雇い入れて朝鮮人労務者の仕事の監督をさせ、自分は秋から冬にかけて密林へ入って狩猟をした。こうして一年が過ぎた。ところがイリヤは、その移住民の青年と自分の妻とが、あまりに親しすぎることに感づいた。二人はついに、すでにかなり前から夫婦同然だったことを白状した。「勇士」イリヤは、言いようもない悲しさをぐっと抑え、その男に全財産を渡して妻とも別れ、永久に密林へと去ったのだが、その後、ヴェセロフスキーと出会うことになったのである。

こうした密林漂泊者の出来事の一部始終を知ったのはヴェセロフスキーの口からであった。それというのも、無口で陰気なイリヤは身の上話をしたがらず、…

「あなたは、どこで彼と知り合いになったんですか?」
中国煙草を短いパイプに詰め、一服吹かすと、彼は答えた。
「三年ほど前、ウスリー地方の、いわゆる、アヌーチン森で知り合ったんです。そのころ、ぼくは紅胡子を追跡して捕えるために派遣されていたんです」
ひと息つくと彼は続けた。「言っておきますが、ぼくはウラジヴォストークに司令部のある東シベリア連隊の将校だったんです」
「本名はヴェセロフスキーではありません。別にあります。ある理由で他人の身分証明書を手に入れなければならなかったんです。」…

「モスクワの陸軍幼年学校を出て、小尉に任官するとすぐに極東地方へ配属になりました。ぼくはここの手つかずの自然と特異な生活環境に心から引かれていたのです。ぼくが探し求めていたものをここで見つけたのはもちろんのことです。自然のままの原始的なこの地方に、ぼくは強烈な印象を受けました。ぼくは勤務の余暇を、アムール湾とウスリー湾とを取り囲んでいる山や森で過ごしていました。ついに、中尉になってからのことですが、この地方で最も興味のある地方の一つ、アヌーチノ村へ派遣されました。この近辺は、当時あらゆる鳥獣の豊庫だったのです。ぼくは半箇小隊を率いて密林を渉猟したのですが、それがさらに漂泊生活への愛着を強めたのです。ある行軍の途次、密林(やま)の中で偶然猟師の越冬小屋にぶつかり、そこで泊まりました。小屋主はまる一日後に、虎の毛皮を持って戻ってきたのです。それが、イリヤ・バラバシュなのです。ぼくは彼と馬が合い、このお人よしの力持ちが大好きになったのです……」
そのとき犬が吠えだし、シビルレットも寝台の下から這(は)い出し、外へ行かせてくれとせがんだ。
ヴェセロフスキーは毛皮を羽織って外へ出た。
依然として強風が吹き、密林は捻りを上げていた。
やがてヴェセロフスキーが戻り、雪を払いながら言った。「なんでもない嵐(あらし)のときには、犬はいつもこうなんです」…

「…そのころ、清国との戦い(注2)が始まると、ぼくは連隊付で満洲へ派兵されました。ずいぶんあちこち回りましたが、自然の美しさと鳥獣の豊かさでは、吉林省がいちばん気に入りました。ここでの猟は豪華なもので、密林にはありとあらゆる動物がひしめいているんです。まったく自由な暮らしができますよ。当時はすでに鉄道付属地では猟で生きていくロシア人が、ぼつぼつ出始めていました。彼らは戦争が終わると残留して、満洲の猟師になってしまったのです。
…戦争が終わって部隊がニコリスク(現ウスリースク)へ引き揚げると、すぐ予備役に編入してもらい、今までの生活に完全に見切りをつけ、背水の陣を敷いた、つまり、ウラジヴォストークで10ルーブル出し、他人の身分証明書を買ったんです。
あなたはそんなぼくを非難なさるでしょうが、こんな自由な暮らしをするには、そうするよりほかに手はなかったのです。そして、やれ身内だの、親類だの、やれコネだの、知己だのと、もうほんとうに嫌気がさしてしまい、過去とはきっぱり縁を切ることにしたのです。一度死んでしまい、生まれ変わる。」…

油が足りなくなったので、ランプが煤(すす)を出し始めた。彼はこれを完全に消さなくてはならなかった。あたりは真っ暗闇になり、凍てついたガラス窓に、やっと見えるほどの弱い光がちらついていただけであった。
風は強くなりまさり、小屋全体が風圧で揺れていた。森は嵐の海鳴りのようにざわめいていた。
鳴きやまぬコオロギが暖炉の陰で、はぜるような歌を歌い続けていた。…

「純益ですか?」彼は聞き直した。「どう言えばいいのかなあ。年に千ルーブルくらいは貯まるのかな、毎年ですよ。だが、これも、獣の数とか、天候とか、それにも増して本人次第ですがね。
体さえまめに動かせば、獣だって鳥だって捕れます。部屋でごろごろしてたら、獣も目に入りません。うまい諺(ことわざ)があるでしょう、《歩く狼は餌にありつく》とね。イリューシャのほうは肉獣がおもで、猪(いのしし)、赤鹿(あかしか)、獐(のろ シカ科の小型動物)などを仕留めています。昨今は肉の値段ががた落ちで、以前は沿線で1プード(16.38キログラム)が5、6ルーブルで売れたものでした。そこでぼくは毛皮獣専門に切り替えました。黒貂(くろてん)、栗鼠(りす)、川獺(かわうそ)、貂(てん)、大山猫(おおやまねこ)、狐(きつね)、浣熊(あらいぐま)、熊(くま) - これがぼくの商売目的の動物です。虎を仕留めるのはまれです。じつにずる賢いやつですからね。それでもひと冬に一、二頭は捕えますが。こいつは金になる代物です。中国人たちは毛皮ばかりでなく、肉を臓物ぐるみ買い取ってくれますから。
だから大きな雄虎ならば、三百から四百ルーブルぐらい取れますよ。肉、骨、脂肪、内臓、脳など、すべて特別な薬の材料になるんです。ある知り合いの満洲人猟師の言葉ですが、虎の心臓を食べた者は、虎のように偉く、強くなれるのだそうです。むろん、これはたわいない迷信ですが。

ところが、袋角(ふくろつの)の卓効については、ぼくはこれを信じています。この物質が、貧血、瘰瀝(るいれき 頸部リンパ節結核)、老衰、その他多くの慢性疾患に効くことは間違いありません。わが医学界も、この物質の医薬品としての特性に、啓蒙的関心を抱くことが必要です。
ぼくたちは去年の夏、寧古塔(ニンクタ 現・寧安)で大きな袋角一本を八百ルーブルで売りました。だから、ここでもなんとか生きていけますよ!

ちょっぴり寂しいことは確かです。ときどき、憂愁に胸をさいなまれることはありますが、猟に出てしまえばけろりと忘れ、人の世がはるか彼方に思われるんです。浮き世の心配事はこの深い山奥には入ってきません。第一、虚偽、欺瞞、絶望などは起こる機会も、感じる場もないのです。ここでは人間が精神的、肉体的に生まれ変わり、過去を悔やむのではなく、将来に望みを託して強くなり、勢いよく前を見ているのです……ところで、もう夜中の二時ですよ!」ヴェセロフスキーはうわずった声で、鋼鉄側の懐中時計を枕の下へしまいながら言った。…

「あなたはね、紅胡子や土地の満洲人の猟師たちと、どのようにしてうまくやっているんですか?」私は尋ねた。「紅胡子どもはロシア人を憎んでおり、追撃に対して報復しているし、満洲人たちは野獣捕りでの危険な競争相手だと見なしているはずでしょう」
「紅胡子に関しては、おっしゃるとおりです。彼らはロシア人全部を憎んでいます。だが、襲うのは実際に彼らの邪魔立てをする者だけです。ぼくたちは彼らに手出しはしないので、邪魔にはならない。正しくは、彼らはぼくたちを怖がってはいないし、彼らの敵でもない。ふざけてぼくたちに手を出したり、因縁をつけて復讐するなんてはずはない。世話がやけて面倒なだけですから。たまに彼らはぼくたちの所へやって来ます。茶をもてなし、パンをくれてやると、また遠くの森へ消えていきます。とにかく、とてもいい、筋を通す、まじめな連中です。けっして理由もなく侮辱したり襲ったりはしません。
また、土地の満洲人猟師ときたら、彼らは一度もぼくたちに腹を立てたことはありません。穀物を取り上げるわけでもなければ、彼らの縄張り荒らしをしたこともありませんから。ここの山や森はじつに広大で、猟師が何人いようとも、たがいに邪魔になることはありません。ぼくたちは誰とでもじつに仲よく暮らしています。いちばん近い男は、ここから十露里(10.67キロメートル)ほどの所に住んでいます。もう八十歳近くの老入ですが、まだ頑健で、足の達者な勇気のある猟師です。ぼくたちの所にはよく立ち寄り、乾パンを添えて紅茶を飲むのが好きです。パンも好きで、歯のない口でもぐもぐ食べるのが滑稽です。」…

翌日の昼食までには、私はヴェセロフスキーに手を貸して熊を運んできた。毛皮をはぎ、体をいくつかに切って量った。すると18プード(約295キログラム)もある重量級の、なかなかの熊であった。私は気さくな森の漂泊者たちと食事を終えると、もうここの犬たちと仲よしになったシビルレットを口笛で呼び寄せ、横道河子(ハンダオヘーヅ)駅へと北東を目指し帰宅の途についた。

私は、未開の満洲密林の開拓者である、これらロシア人猟師(トラッパー)たちの僻遠(へきえん)の小屋で過ごしたときのことを思い起こしては、満足感に浸るのである。

事件の多い1904年が訪れた。
戦争(日露戦争)が勃発した。
満洲の地、とくに哈爾賓以南はまったく変貌し、千年の夢から覚めてこれを振り払い、二国の大軍の大激戦の行方に固唾(かたず)を呑み、刮目(かつもく)していた。…
戦いも終わりに近づいた。
困憊(こんぱい)の極に達した勝利者の軍隊は、最後の決戦に備えて静かに待機する敗者の北の大軍との闘いに入る術(すべ)もなく、手を拱(こまね)いていた。それは、必死の狩人が傷ついたライオンを前にしておずおずと後ずさりし、ライオンは目に瞋恚(しんい)の火を燃やし、恐ろしい口を開け、死の一撃をくわせようと、強力な脅威の脚を上げようとしている場面を思わせた。

新しい部隊が哈爾賓に到着した。駅頭は人の波であった。…
私は暇つぶしにプラットホームを歩きながら、東行きの郵便列車を待っていた。
ベルが鳴った。列車が前の駅を出たという合図だ。
「やあ、こんちは!こんな所でお目にかかれるとは思いませんでした!」すぐそばで大きな声がした。私は振り向いた。外套を着、アライグマの毛皮帽をかぶった将校が私の目の前に立っていた。彼は中背で、あごひげを剃っており、ブロンドの口ひげが左右に立っていた。大きな碧眼(へきがん)が物問いたげに、いたずらっぽく私を眺めていた。
この眼差しには何やら見覚えがあった。こんな表情豊かな目をどこかで見たような気がした。そして私は、あの鬱蒼たる密林と、険しい川岸に立っている見すぼらしい猟師小屋や、熊狩り、知り合った二人の猟師を思い出した。あれは二年前のことであった。…

旧満州東部 [全体図]

(注1) 紅胡子(フンフーズ 匪賊): 中国語でフンは「赤色」、フーヅはひげ。もと満洲ではロシア人を指した。転じて、19~20世紀初頭にかけ、主として東満密林地帯に根拠地を持つ盗賊団を指すようになった。彼らの目的は現地の農民が作る阿片(あへん)や、ロシア人・中国人実業家、森林利権企業などからの物資の略奪、貢ぎ物の取り立てであった。のちに政治的勢力を持つに至る匪賊(ひぞく)団さえあった。これら匪賊対策は東清鉄道警備軍の重要な任務の一つであった。

(注2) 義和団事件(1900年)を指す。中国華北に起こった排他的反乱で、日、露、米ほか五か国が北京に出兵。ロシアはこの事件に事寄せ、満洲に出兵し、東清鉄道全線にも特別の警備軍を配して満洲を勢力下に置き、これが日露戦争の原因ともなった。
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# by satotak | 2008-12-05 11:11 | 女真・満州・内蒙古
2008年 12月 02日

「華夷一家」 -大清帝国の世界観-

石橋崇雄著「大清帝国」(講談社 2000)より:

華を超えた夷
『大義覚迷録』(注1)に見られる多民族国家としての考え方を称して大中華主義という。しかし、大清帝国の世界観は中華世界の枠内で捉えうるものではなかった。満洲族のハンとして盛京[瀋陽]の宮殿にある八角殿に座し、北アジアの大ハンとして避暑山荘[承徳(熱河)]にあってマカートニーを手玉に取り、中華世界の大皇帝として北京の紫禁城に座すその姿は、単なる夷狄の血を継承する中国皇帝の姿にとどまるだけのものではない。イエズス会士とヨーロッパを語り、典礼問題でローマ教皇庁を叱り飛ばす。ロシアと渡り合って自らの領域を固め、多世界の文化の粋を結集した円明園で政務を執る。問題に対する解決は積極的に試みるが、結果には固執しない。変化をおおらかに受け入れて成長する。それはやはり中華世界の枠内に閉じ込められた中国皇帝としての姿には収めきれない。


清朝系図 [全体図]

確かに「華夷一家」としての複合多民族国家である。が、華におもねる「華夷一家」ではない。それにはあまりにも、夷に抱合させる部分が大きく、広いからである。具体的な領域上の支配関係こそないが、この夷にはイエズス会士を介してのヨーロッパ文化さえ含まれている。領域上の大清国世界は、満洲族世界から中華世界、北アジア世界、チベット世界、中央アジア東トルキスタンのイスラム世界を内包する。文化の上ではさらにヨーロッパ世界までが抱合される。そこにある世界観は、北アジア世界をも越えた大ハンの意識であったのではないか。まさに中華世界をも単に内包する一世界に過ぎないまでに拡大した「華夷一家」の世界の現出であった。その意味では「華夷一家」と称するのも正確ではないことになる。正しくは「夷華一家」の世界帝国と称するべきであろう。清朝の中で夷は華を越えていたのである。

中国を「閉ざされた自給自足世界」と見なす説がある。だが清朝は決して閉ざされてはいない。それが、たぐい稀なる拡大発展を実現した原動力でもあったろう。そして「夷華一家」の世界帝国を実現した結果、大清帝国世界内では自給自足が可能であった。その意味では「閉ざされた自給自足世界」とも言えるかもしれない。無ければ困るものが無いからである。しかし、乾隆帝時代が終り、清朝も動脈硬化をきたして保守化した。もはや「夷華一家」の政治力・軍事力・経済力はヨーロッパの「野蛮な自分中心主義」の破壊力には太刀打ちできなくなっていた。清朝が滅び、「夷華一家」の世界帝国から再び中華世界の後遺症が残る「中国」に戻ったこの世界は、現在にいたるまで自己再生の道の途上にあるのである。

絶えまなき革新の力
比類ない大清「帝国」への第一歩は、太祖ヌルハチによる孤立無援の経済覇権闘争に始まった。その結果、自身が属していた建州部を統合してマンジュ国を樹立した後、さらに東北部における女真(満洲)族の統合を果たして複合部族国家としてのアイシン国を形成したヌルハチは、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成るという、不安定な要素を抱える複合部族国家の管轄・支配を強化する中で、分権に基づく伝統的部族制の中では革新的ともいうべき政策によって自らの集権体制を築き上げ、漢族農耕地域を経済基盤とすることも開始した。そこに伝統的分権体制を保持しようとする保守派の反動が生まれ、その結果がヌルハチの後継者としてホン=タイジを選択することになった。

即位後、太宗ホン=タイジはモンゴル族・漢族を自己の新たな勢力基盤に加える独自の革新的政策を採用し、その集権体制を築き上げようとした。その結果が、内モンゴルを平定し、東北部での満洲・モンゴル・漢族世界を統合した多民族国家としての大清国の成立となった。ここに旗人社会の頂点に立つハンは満洲・モンゴル・漢族に推戴された大清皇帝を兼ねることになったのである。ここで再度、伝統的分権体制を保持しようとする保守派からの反動が起こり、ドルゴンを摂政とする世祖順治帝の即位となった。その直後にたまたま明朝が滅亡した機に乗じた大清国は、明朝の後継者として中国内地に進出し、東北部・内モンゴル・中国内地にまたがって君臨し、待望の巨大な経済基盤を手中に収める独自の多民族国家としての清朝へと大きく変身する転機を得た。ただし、その支配層の本質はいまだ伝統的部族制に立脚する性格が強く、あくまでもその中においてドルゴンは自身の独裁体制を強化することになった。

ドルゴンの死後、親政を開始した順治帝は、中国化という当時の旗人社会にあっては革新的というべき政策を採用することで自己の集権化を図ったが、果たす前に死去した。そこに三度(みたび)、伝統的分権体制を保持しようとする保守派の反動が現れることになった。四人の輔政大臣が補佐する形式で聖祖康煕帝を即位させると共に、順治帝の中国化政策を象徴する内十三衙門を撤廃した。

才知によってこの輔政大臣を失脚させて親政を開始した康煕帝は、いわば夷狄としての満洲族の血を引きながらも中華世界の北京に生を受けている点で、華夷の同居する清朝最初のハン=皇帝であった。三藩の乱を平定し、鄭氏一族をも下して明朝再興運動を終息させ、中国統→を果たしたことは、単に中国内地における漢族を併合したことだけにとどまらず、その巨大な経済基盤を確保することに繋がった。この機に、帝は八旗制を改革する革新的政策を打ち出し、それまでの伝統に裏打ちされた族制内の秩序を変えて、その独裁化を図ろうとした。支配領域も東北部・内モンゴル・中国内地に加えて、外モンゴルからチベットまでに拡大されることになり、帝は承徳(熱河)の地に避暑山荘の建設も始めた。ロシアとの間にネルチンスク条約を締結したことで、清朝の版図がそのまま、内外から中国として認識される契機も生まれることになった。

帝の素養は、満洲族世界の伝統文化や中華世界の伝統文化に加え、イエズス会士を通じてヨーロッパ世界における当時最新の学問知識までにも及んでいた。となれば帝の内部では既に「華夷一家」の基盤はできていたようにも思える。しかし、ネルチンスク条約の国内発表に際して中華世界の伝統に妥協する形でしか対処できなかったように、それが国内の華夷思想に対する具体的な施策として現れるまでには至らなかった。のみならず、中国史上でも数少ない長期政権保持の弊害でもあろうか、晩年の帝には壮年期の革新性は姿を消し、保守に転じた姿しか見えてこない。皇太子にまつわる旗人社会内の混乱に対する弾圧と皇太子に対する再度の廃位・幽閉に苦悩する姿は、往時の手際よい政治能力と隔世の感がある。

その力が止んだ時……
その後を継いだ世宗雍正帝の即位には、謎めいた暗い印象こそ付きまとっているものの、康煕帝の即位までに繰り返しみられたような保守の反動はもはやうかがえない。とはいえ、康煕帝晩年の保守政治による旗内の混乱は激化しており、即位時の状況は決して安定したものではなかった。その不安定さの中で即位したことを原動力として、自らの独裁権確立に邁進した雍正帝による国内政治は、いうなればそのすべてが康煕帝晩年の保守政治に対する革新政治として位置付けられるものであった。康煕帝による中国統一を背景とする旗(満洲・モンゴル・漢)・漢(中国内地)における「華夷一家」としての清朝における支配権の確立は、雍正帝による絶対権の確立によって成し遂げられたのである。夷から華に返答した史上初めての政治思想である『大義覚迷録』はその革新性を最もよく象徴するものであった。

続く高宗乾隆帝は、雍正帝による支配権確立を背景とする安定の中で即位したことになる。康煕・雍正の両帝が蓄財した豊かな国庫もある。いわば、政治・経済・軍事の諸条件に最も恵まれた中での即位なのである。帝以前における歴代のハン=皇帝の即位時にみられたような不安定な要素は皆無といえる。そうした恵まれた環境では革新性が生まれることは難しい。革新性を求める原動力となる負の条件が欠如しているからである。となれば、そこからは保守の立場しか生まれ得ない。雍正帝による『大義覚迷録』を禁書処分にした自主規制は、それを象徴していよう。理論の欠落を実践で埋めるかのように打ち続けられた外征による領土拡大も、革新性によるものというよりは保守性から生まれたものとの感が強い。たしかにその結果として、モンゴル・チベット・ウイグルを併合し、清朝の経済基盤である中国内地を取り囲む外壁となる藩部を完成することになった。しかし、外壁を築くことが大きな目的であったかにみえる点からして、守りの姿勢ではなかろうか。

清朝の最大版図 [拡大図]

とはいえ、ここに形成された清朝の最大版図には、中国に君臨する王朝としては史上初めて、イスラム世界の一部をも収められており、入関(注2)前におけるマンジュ国の樹立から不断に続いた清朝の領域拡大過程における、いわば新たな多民族国家への脱皮ともいうべき政治上の変遷を反映する成長段階の最終部分であり、複合多民族国家清朝の完成と捉えうるものである。ここからは、清朝の政治的変遷と多民族国家として発展・拡大する過程とが表裏一体のものであったことを直ちにみて取れよう。

そしてこの保守性による乾隆帝の長期に亘る外征は、最大版図を形成した代償として、豊かな国庫を浪費し、回復不可能な国力の低下を後に残すことになった。いわば革新と保守との軋轢(あつれき)を重ねることで成長.拡大し続けてきた清朝の特性は、乾隆帝によって終焉を迎えたことになる。そこから新たな革新を生み出すだけの余力はもはや残っていなかったのである。

(注1) 大義覚迷録: 中国内地を統一・支配した最後の非漢族王朝である清朝。その中央集権制の頂点に立つ、独裁権力としての皇帝権の確立をみたとされる雍正帝が、史上初めて夷の側から華の唱える華夷思想に対して反論し、清朝の正統性(皇帝としての正当性)を政治思想として主張しようとしたのが『大義覚迷録』であった。
『大義覚迷録』の意は、雍正帝の大いなる義の徳によって清朝の正統性に疑義を持つ輩(やから)の迷いを覚まさせる記録というものである。記録とは何か。これは裁判記録なのである。それも、理論に秀でたたぐい稀なる皇帝が開いた御前裁判の記録である。朱子学の流れを汲み、強い反清思想を唱え、今は亡き呂留良(りょりゅうりょう)の思想に影響されて反清運動を展開した曾静(そうせい)らが被告。弁護士はいない。検事と裁判官は帝自身である。とうてい被告に分があるとは思えない御前裁判であった。
ではなぜ、雍正帝は自分の考えを上諭の形で下さなかったのであろうか。なぜ、このように面倒な手順を踏んだのであろうか。答えはさほど難しくはない。自分の正しさを本人の言葉だけをつづっていくら力説しようと、聞く側は耳を貸さないであろう。たとい真実に近かろうと、その言葉をそのまま受け止めるであろうなどとは、とうてい期待できない。世の現実とはそうしたものである。それよりも反清運動を続ける当の人物に自己批判してもらった方が影響力は大きい。帝の意図はそこにあった。帝と曾静らが問答を繰り返し、結果として曾静らが自己批判して清朝の正統性を認めることになった裁判記録。それが『大義覚迷録』なのである。

(注2) 清朝入関:1644(順治元)年5月、ヌルハチの第14子、摂政 和碩睿親王(せっしょうホショイえいしんのう)ドルゴンが率いる大清の精鋭軍は、もと明の総兵官呉三桂(ごさんけい)の先導によって万里の長城の最東端に位置する山海関を通り、明朝崩壊直後の中国内地に進んだ。大清が北京に入城した時の情景を、『大清世祖実録』は次のように語る。

5月1日、摂政和碩睿親王ドルゴン率いる大清の軍隊が北京の東方すぐ近くにある通州(つうしゅう)まで来たところ、通州を管轄する知州は百姓を引き連れ、大清を喜び迎えて、これに降(くだ)った。そこで大清は諭を下してこれらの者に薙髪(ていはつ)させた。翌2日、大清の軍隊はついに燕京(えんけい)(北京(ペキン))城までやって来た。故(もと)の明の文武官員は城外五里まで出て、これを喜び迎えた。…
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# by satotak | 2008-12-02 13:08 | 女真・満州・内蒙古
2008年 11月 17日

マンジュ国・アイシン国から大清国へ -女真・満洲族の再興-

石橋崇雄著「大清帝国」(講談社 2000)より:

■マンジュ国の樹立
女真族
清朝を建てた女真(満洲)族は、かつて(916~1125)から独立して現在の中国東北部に(1115~1234)を建て、この地を統一した後、遼を滅ぼし、さらに南下して中国内地に進み、(960~1279)を倒して華北を支配した女真族の、直系の末裔にあたる。女真族は、金が新興のモンゴル帝国に滅ぼされた後は、モンゴル帝国、大元、大明の支配下に置かれていた。その間に、金の時代に創始した独自の女真文字も失い、金建国以前の部族集団に後退して生活していた。この女真族が再び勢いを盛り返して復活するのは、明の支配を受けていた明末のことである。数百年を経て二度にわたって歴史に名を残す統一国家を建てて中国内地を支配した、稀有な例である。

大元を建てて北アジアの民族としては史上初めて中国内地を統一支配したモンゴル族と、大清を建てて中国内地を統一支配した女真(満洲)族とは対比されることが多い。しかし両者は、その生活基盤において大きく異なっていた。女真族のいた地域には、モンゴル高原近くの牧草地や山地に広がる森林地帯に加え、河川流域の平野があったことから、モンゴル族と異なり、女真族はもともと原始的ながら農耕を営んでいたからである。このことは、農耕世界に特有な土地所有を基盤とする考え方を理解し易くしていた。この点が、中国農耕世界を支配する際、漢族に対する対処や中国文化の採用において、大元と大清との決定的な相違を生じさせることになった。大元は、漢族を政治の場から分離し、江南の経済地域への執着も薄かったが、大清では漢族を政治の場に活用すると共に、終始、江南の経済地域に執着して税制改革を試みている。

大明の支配下にあった女真族は、その自然環境に従って、馬などの放牧、毛皮や薬用人参の狩猟採集、農耕を行なっていた。とはいえ、それだけで十分に自給自足できるだけの豊かな経済基盤を築いていたわけでは決してなかった。大元をモンゴル高原に追い払った大明は、対モンゴル政策の一環として、モンゴル高原の東に隣接する女真族世界を利用する政策を採った。その際、大明の軍事組織である衛所(えいしょ)制を適用し、各地の女真族の部族長に官職を授けては、官職を示す勅書と印璽を与え、朝貢や馬市の特権を与え、彼らを招撫(しょうぶ)しようとした。このことは、自給自足できない状態にあった女真族世界に、より安定した経済基盤が確約される大明の勅書を得ようとする経済闘争を生じさせ、結果として、各部族長は相互に熾烈な争いを繰り広げることになった。その背景には、女真族の部族長が統合して勢力を拡大させることを阻止しようとする、大明の対女真族分断政策があった。こうした時代にヌルハチが登場し、マンジュ国を樹立するのである。

明朝末期の満洲 [拡大図]

ヌルハチの建州五部統合と多民族性
ここでいうマンジュ(満洲)国の樹立とは、明朝での呼称でいうところの建州女直(けんしゅうじょちょく)の各部族が、ヌルハチによって統合され、一つの国となったものである。明朝では、女真族(明は女直と称した)を大きく、建州・海西(かいせい)・野人(やじん)の三女直に区分していた。そのため、あたかもこの三者各々の中に、もともと何らかの結合関係があったかのように錯覚されがちだが、実態はそうではなかった。建州女直(…マンジュ国)が五部、海西女直(…フルン国)が四部、野人女直が四部の、計13部に分れていた。…建州五部とは、スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェンの五部であり、その領域は、渾河(こんが)流域以南、鴨緑江(おうりょくこう)沿岸以北、渾江(こんこう)流域以西、遼東平野の明との国境以東であったとされている。ヌルハチが属していたのは、このうちのスクスフ部で、…

ヌルハチによって統合された建州五部の各々は、もともと別個に建てられた独立国と言うべきものであり、それぞれの集団の間に血縁的な、あるいは民族的な結合関係は認められなかった。すなわち建州部に始まり、やがて女真族全体におよぶヌルハチによる女真統合とは、部族内部における単なる権力抗争といったものではなく、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争だったのである。その結果実現された統合国家は、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成るという、不安定な要素を抱える複合部族国家であった。マンジュ国の樹立が清朝への成長段階の第一歩であることを考えれば、清朝はその当初の段階から多民族性を蔵していたことになる。

ヌルハチは一般に、満洲族統一の英雄とされている。しかし、…ヌルハチの統一事業が、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争であったとするならば、その統合結果には、部族内部の権力抗争における単なる勝者・敗者というだけの関係に留まらず、征服・被征服の関係が内包されていたことになる。実際、後にヌルハチによって統合された建州以外の女真族を祖先とする現在の満洲族の中には、ヌルハチを民族統一の英雄とすることに否定的な評価を下す例がみられるという。…

近隣世界の動揺
マンジュ国の樹立は、女真(女直)族世界や近隣のモンゴル族世界に大きな動揺を生じさせることになった。1587年には最初の居城である旧老城(フェ=アラ)を築き、1589年に明から都督僉事(ととくせんじ)を授与されたヌルハチは、明との取引によって富を蓄えると共に武器を買い入れて軍備を増強していった。この新興国の急激な発展に脅威を覚えた海西女直(ハダ、イェヘ、ホイファ、ウラ)は、1593年、内モンゴルのハルハ五部の一つコルチン部らと共に九部三万からなる連合軍でヌルハチを攻撃した。…この戦いに敗退したコルチン部はハルハ五部と共に、モンゴル族として初めて、ヌルハチに使者を送り、通好を開始した。

明との対決を決意
他方、この戦いに勝利を収めたヌルハチは、女真族世界における勢力を確立し、その勢いに乗じて、海西女直を次々に滅ぼしていった。そしてイェヘを除く海西女直を併合したヌルハチは、1603年に居城を興京老城(ヘト=アラ)に移した。この情勢の中で1606年、モンゴルのハルハ五部はヌルハチにクンドゥレン(恭敬なるの意)=ハンの称号を贈った。これは、ここまで勢力を拡大したヌルハチがモンゴルのハルハ五部からマンジュ(建州)国主として承認され、両者が友好関係に入ったことを示すものである。

一方、女真族世界に対する分断支配政策を行なってきたは、こうしたヌルハチの勢力拡大と内モンゴル世界との関係強化を危惧し、…海西女直のうちでただ一つ残ったイェヘを擁護すると共に、ヌルハチを圧迫するようになった。ここに、ヌルハチがイェヘを滅ぼして、女真世界の民族統合を完成させるためには、明と直接に対決しなければならないという状況が生まれたのである。明との直接対決を決意したヌルハチは、1616(天命元)年にイェヘを除く女真族のベイレらからゲンギェン=ハンの尊号を贈られてハン位に即き、アイシン国を建て、自立することになるのである。…

■アイシン国の形成-八旗制の創生と遼東への進出
アイシン国
ヌルハチによる覇権闘争は、マンジュ国樹立に続いてアイシン(aisin=金の意)国の形成へといたる。…五部からなる建州女直(マンジュ国)の統合に続く、四部からなる海西女直(フルン国)の統合段階である。…この過程は、部族内部の単なる権力抗争ではなく、東北地域に散在する独立国間における覇権闘争であった。それゆえ、その結果成立した統合国家は必然的に、相互に血縁上や民族上の結合関係を持たない複数の部族集団から成る、不安定な複合部族国家とならざるを得なかったのである。

となれば、統合後の安定を計るための新しい国内秩序を打ち立てると共に、統合国家としての権威を国の内外に示すことが必要となる。ヌルハチの行なった一連の覇権闘争が、もともと一族内から支持されない孤立無援の性格であったこと、統合に、一部族による他部族の征服という面があったことを考慮すれば、その必要性はなおさら強かったに相違ない。事実、このマンジュ国樹立からアイシン国形成前後にいたる時期には、ヌルハチによる次の特筆すべき施策が見られるのである。

モンゴルと漢族の影響
その第一は、一族の支援すら望めない状況下で1583(万暦11)年に覇権闘争を始めたヌルハチが、その当初から内密に明の遼東総兵官李成梁と提携関係を結んで勢力の拡大をはかったことである。統合を進めるヌルハチに対して、明は1589(万暦17)年に都督僉事(ととくせんじ)を授与している。アイシン国の成立過程に漢族世界が深く関わっていたことがうかがえる事例である。

第二は、女真語を書き表すための独自の文字(いわゆる満洲文字)を1599(万暦27)年に創始したことである。金朝の滅亡後、女真族の世界では次第にその女真文字を失い、ヌルハチがモンゴル文字を借りて新たに満洲文字を創始するまで、モンゴル文あるいは漢文に翻訳して文書を作っていた。このことは、当時の女真族世界におけるモンゴル族漢族の影響の大きさをうかがわせる。

第三は、1606(万暦34)年にモンゴルのハルハ五部がヌルハチにクンドゥレン(恭敬なるの意)=ハンの称号を贈っていることである。これもまたアイシン国の成立過程にモンゴル族との深い関わりのあったことを示す事例である。

第四は、統合の最終段階でヌルハチが女真族からゲンギェン(英明なるの意)=ハンの尊号を贈られてハン位に即いたことである。その際、…開国説話を作成し、国号に12~13世紀の金朝の正統的な後継者であることを示すアイシン(金)を採用している。これらは単にヌルハチ個人の権威付けというだけにとどまらず、統合国家それ自体の結合や権威の象徴とする意味も持っていたはずだ。開国説話の内容…は、従前からトゥングース系諸民族に広がっていた夫余(ふよ)系開国説話…に史実を脚色して添加したものである。ヌルハチを文殊菩薩の化身として位置付け、これにチベット仏教によって粉飾された満洲シャマニズムの世界を配したとされているが、こうした動向は、この統合国家が当初から単なる女真族統合という枠を越える多民族国家としての性格を備えていたことを示唆していよう。…

八旗制度
ヌルハチの時代に八旗制度が創始されたのは、相互に何一つ結合関係を持たない複数の部族集団を統合・管轄する上で、新たな結合秩序としての組織を創設する必要が生じたためである。…

八旗とは満洲語でグサと呼ぶ軍団八個からなる軍事組織である。本来、グサに旗(はた)の意味はないが、各グサがそれぞれ鑲黄(じょうおう)・正黄・正白・鑲白・正紅・鑲紅・正藍・鑲藍という八種類の旗(四色の旗をさらに縁取りの有無で区分し、縁取りのあるものを鑲旗、ないものを正旗という)を標識として用いたことから、漢字では八旗と表記するようになった。グサの軍事・経済上の基盤をなすものにニルがある。ヌルハチは、満洲族固有の社会組織をもとに、成年男子300人で1ニルを編成し、これを基本単位に5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサとした。…女真(のちに満洲)人、それに来帰したモンゴル人、漢人などの全てはいずれかのグサに所属しており、グサは軍事組織であると同時に、政治・社会組織としての性格をも兼ね備えていた。…

サルフの戦い
アイシン国を建て、八旗制を整備して軍事力の増強を進めたヌルハチは、1618(天命3)年、天を仰いで明に対する「七大恨(こん)」をかかげ、ついに軍を発した。…

重要な点は、アイシン国の領域とそこにかかわる経済(穀物)問題とがここで大きな比重を占めていることである。このことは、対明攻撃の本質に、経済基盤確保の点のあったことをうかがわせる。これもまた、安定した経済基盤を確保しようとする経済闘争から派生した覇権闘争の一環として捉えられるのである。

悲願の女真族統一を達成
攻撃を開始したヌルハチはまず、イェヘの領域近くにある明の諸城を次々と攻め落とした。この報に驚いた明は翌年、大軍を派してヌルハチの居城である興京老城(ヘト=アラ)に迫った。配下の者からこの情報を得たヌルハチはヘト=アラで迎え撃っては敗れると考え、先手をうち、サルフの山上に出城を築いてこれを待ち伏せた。…明軍の大敗に終わったのである。

これが明と清とにおける天下分け目の決戦として名高いサルフの戦いであった。ここにヌルハチは明に対する勢力をも確立することになった。明軍に大勝したヌルハチは、明の援軍が望めなくなったイェヘを楽々と滅ぼし、ここに悲願の女真族世界の統合を果たしたのである。孤立無縁の中、25歳で覇権闘争を始めてから36年、ヌルハチは既に還暦を越えていた。明に勝利したヌルハチは、民族統合を成し遂げたと同時に、より大きな経済基盤を有する遼東に進出する契機をも得たことになる。ここに、アイシン国は遼東進出という新たな政治上の展開をみせることになるのである。

部族連合としての八旗
八旗制が相互独立の関係にある八つの旗からなる部族連合ともいうべき性格であったことは重要である。…

さて、女真族統合の最終段階で明朝との直接対決(1619〔天命4〕年のサルフ戦)を余儀なくされたヌルハチは、これに勝利をえたことで、最後まで残ったイェヘを統合して女真族の統合を果たすと同時に遼東進出の契機を獲得し、ここにアイシン国は政治上の新たな展開をみせることになる。初めての明地(=漢族農耕地域)支配と、それにともなう対モンゴル関係の変化である。アイシン国は、南進によって、大元の嫡裔(ちゃくえい)で明の歳幣(さいへい)を受けて内モンゴル統合を推進していたチャハル部のリンダン=ハンによる後方・側面からの脅威を受けることとなった。このためヌルハチは、東部モンゴル諸部と征明(みん)の盟約を結んでチャハル部に対抗することとなった。こうして成立した、女真・蒙古・漢族が混在する旗人社会と、八旗外の漢族・モンゴル族が対置される構図は、その後の清朝における独特な多民族国家構造へとつながっていくことになる。

ヌルハチの遼東進出の目的は、アイシン国の経済基盤を漢族農耕社会に据えることによって、国の基盤をより安定したものにすることにあった。それは同時に、女真族相互間の抗争にも原因があった。女真族相互における抗争の大きな原因は、「交易を必要とする、北方的な狩猟採集経済に依存していた」女真族が、明との「交易権を示す勅書の獲得」をすることにあった…。激しい覇権闘争の内実は、不安定な経済状況下で少しでもより安定した経済条件を獲得しようとする経済抗争だったのである。

遼河以東の広大な漢族農耕社会を攻略・領有し、明が東北経営の拠点とした遼東に遷都したヌルハチは、遼東新城の建設を進め、…さまざまな土地政策をともなう対漢人政策を実施した。…これらの政策は社会・経済上の混乱を招き、漢人農耕社会での経済戦争に敗退した女真(満洲)族に、遼東からの後退を余儀なくさせただけであった。…瀋陽に遷都して失敗の立て直しを図ったのである。しかし、ヌルハチの急死でこれらの改革の遂行は続くホン=タイジの時代に持ち越されることとなった。…
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# by satotak | 2008-11-17 09:20 | 女真・満州・内蒙古
2008年 10月 20日

シベリア先住民族 -日本はどう向き合うか-

ジェームズ・フォーシス著・森本和男訳「シベリア先住民の歴史 –ロシアの北方アジア植民地」(彩流社 1998)より:


シベリアの先住民


シベリアの自然地形


北方アジアの民族(1600年頃)



17世紀の西シベリア



17世紀の中央シベリア


17世紀の東北シベリア



19世紀の極東



ロシア人によるシベリア征服


1934年のシベリアと東ロシアにおける民族領域




トゥヴァ人のシャーマン

アムールのナナイ

エヴェンキの猟師


1980年頃のシベリアの民族


シベリアの人口



ノゴ族のアニコ


訳者あとがき
シベリアと言うと、多くの日本人は「シベリア鉄道」、「シベリア抑留」のことを思い出し、そして、広漠とした大地に、白樺や、モミ、スギからなる森林が延々と続く、単調な景色を頭の中に思い浮べるであろう。ロシア文学に登場するモスクワやサンクト・ペテルブルク等のヨーロッパ・ロシアの都市のイメージと、やや異質な印象をシベリアについて抱くはずである。その上、冷戦構造、中ソ紛争等の複雑な地政的状況が長く続き、距離的にさほど遠くないシベリアの情報が日本に届きにくかったために、日本人のシベリアのイメージは漠然となりがちであった。この傾向は、今日でも日露間の領土問題が未解決なまま、さほど好転していない。ともかくも、日本人にとってシベリアは、アメリカ、ヨーロッパ、中国、東南アジア等と比較して、それほど身近に感じられるような地域ではなかったし、また、深く理解していると決して言えるような場所でもないだろう。

現在シベリアは、まぎれもなくロシアの一部となっているが、そこは太古からロシアの土地であったわけではない。大航海時代の幕開けと同時に、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス等の西ヨーロッパの帝国諸国が、金銀財宝を始めとする富を求めて、世界各地に侵出した。それと同じように、ロシア人も毛皮の富を求めて東へと進み、次々に領土を拡張して一時は、アラスカまでをも版図の内に取り込んだのであった。また、西ヨーロッパの植民地為政者たちが世界各地でその土地の先住民に遭遇し、彼らを植民地統治下に置いたように、ロシア人もシベリア各地で様々な先住民と出会い、片っ端から彼ら帝国の統治体制に組み入れて搾取したのであった。16世紀から始まったヨーロッパ諸国によるアジア、アフリカ、アメリカの分割と植民地支配は、その後400年の間に、植民地の独立や民族運動が盛んになるにつれて表面的には姿を消していった。しかしながら、シベリアは植民地のよう性格であったにもかかわらず、宗主国から独立することも、あるいは連邦制の下で分離するということもなく、今でもロシア国家の枠組みの中に留まっている。その意味で、シベリアはロシアの中で特異な存在なのである。…

ここ数年のシベリア先住民を取り巻く状況について、訳者宛の私信で、筆者は以下のように語っていた。ロシアにおける全般的な社会経済的凋落は、先住民の状況改善を(ダイヤモンドを所持しているヤクート・サハを除いて)ないがしろにしている。「主権宣言」や、憲法上の自治共和国としての地位の承認は、実際上、ほとんど何も意味していない。空前の規模の腐敗と犯罪をともなって、私人、州幹部、大企業は、絶え間ない富の略奪に夢中となっている。国の職員は給料を手にしておらず、生活水準きわめて低い。国家の平常な機能はマヒしていて、税金は集まらず、信頼できる輸送はない。社会福祉のための基金もない。ほとんどの平均的市民は、悪化し続ける悲惨な状況に苦しんでいて、シベリアの非ロシア人を思いやる余裕を欠いている。冬になると東シベリアでは、ウラジオストクから船で輸送される狩猟民や漁労民たちへの供給品がしばしば滞る。伝統的な生活技術の復興によってのみ、そのような共同体は生き長らえているのである。

地域研究は、言わば、政策決定に必要な情報収集のような性格をも兼ね備えているのである。イギリス人によって記述された本書にも、そのような傾向が全く無いわけではない。古ロシアのシベリア侵略の動機を、他の世界帝国の場合と同様に、飽くなき富への追及に求めたのはごく自然であり、誰もが納得できるだろう。イギリス人は、大英帝国の世界侵略過程を熟知しているので、この点を明確に描写できたのである。けれども、旧ソ連邦の民族政策については、いわゆる「西側」社会の価値観を反映して、社会主義的民族施策や集団化をも含め、概して否定的な見地から述べられている。確かに旧ソ連邦の崩壊前夜から多発した民族紛争などを見ていると、旧ソ連邦の民族政策が必ずしも完全であったとは言い難いだろう。だが、シベリア先住民は、初期ソヴィエト政権の下でロシア史上初めて搾取される対象から外された。その存在が認められ、表面的ながらも民族自決権さえも付与され、国家の側から各種の施策がなされた。同時期に、第三世界の多くの民族、先住民が植民地支配の苦しみにあえいでいたことを考えると、ソヴィエト政権の民族政策に肯定的な側面もあったのではなかろうか。ソヴィエト社会主義体制下の民族政策については、まだ十分な研究がなされておらず、検討の余地があるだろう。

さて、日露関係は、現在、領土問題の交渉のもつれ等から、かなり冷えきっている。経済関係も、近隣諸国と比べてきわめて小規模である。このような膠着した事態を打開しようと、1997年7月に橋本首相は新しい外交政策である「ユーラシア外交」を表明し、11月にクラスノヤルスクで開かれた日露首脳会談に臨んだ。この会談で、日本側は領土問題をめぐる平和条約の締結に関心を寄せ、ロシア側は「橋本-エリツィン・プラン」の対露経済協力に期待を寄せた。すでに日本では、極東・シベリアのエネルギー資源の開発について、政財官界の間で着々と構想が練られ、その展望には、エネルギー開発をめぐる東アジア全体の秩序までをも、視野に含めている。この流れからすると、将来必ず日露双方の国益を背景にして、日本とシベリアの交流は活発になるはずだ。その時、日本人はシベリア開発、そして先住民の問題に直面するだろう。旧ソ連時代に起きたシベリア開発と先住民をめぐる問題について、ロシア政府は十分な結論や、改善策を打ち出さないうちに、外国資本の援助を受けながら巨大開発を再開するかもしれない。そして日本人は、現地の問題を深く知ることなく、大規模開発に専念するかもしれないのである。

シベリアの潜在的な経済的可能性を、ロシアや日本だけが認識しているわけではない。…シベリアの資源は、ロシア外交の不可欠な要素となっており、今後、シベリア開発はさらに促進されるであろう。これらの大国の利害が渦巻く中で、シベリア先住民の運命は翻弄されてしまうのではなかろうか。旧ソ連邦時代まで、シベリアの大自然と先住民たちは、ロシアの経済開発にだけ左右されていたわけだが、シベリア開発の国際化とともに、冷酷な世界市場の荒波にさらされてしまう可能性が強い。

将来、シベリアは経済開発を軸に、ロシアだけでなく、日本や世界との結び付きを強めるだろう。その結び付きは単なる経済的関係にとどまらず、社会文化的交流にも拡大されるであろうし、またそうすべきである。シベリアを単なるエネルギー供給源用の土地と見なし、もしも、それ以上の関係に目を向けようとしないならば、そのような態度は、かつてのソヴィエト政権が犯した間違いを再び繰り返すことになるだろう。また、国家的戦略の見地からのみ隣国に接するという態度は、あまりにも時代錯誤的で、貧困な精神を表明しているように見える。となると必然的に、関係を結ぶ側にとって、シベリアの歴史、先住民、ロシア人に関する認識が必要となろう。過去の出来事についても、例えば日本の場合、シベリア出兵、満州国の建国と崩壊、シベリア抑留、サハリンの朝鮮人問題等々を直視しなければならないだろう。先住民に関しては、日本のアイヌ問題と同じように、歴史的な民族問題に対する判断を避けて通ることはできまい。要するに、シベリアと接するにあたり、日本人独自の見識が要求されるのである。日本人にとってシベリアが何を意味するのか、その姿勢も問われるだろう。

外交的にもシベリアヘの関心が高まっているのに反して、日本国内で当該地域を研究対象としている研究機関、研究者はきわめて少ない。残念ながら、…日本にはシベリアの情報が根本的に乏しいのだ。さらに、日本におけるロシア語圏研究の現状も、さほど芳しくない。…とは言うものの、シベリア民族の研究には様々な意義があり、日本人による研究が、今後も進展することを願ってやまない。…
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# by satotak | 2008-10-20 16:23 | シベリア
2008年 09月 29日

昭蘇石人 -西突厥の痕跡-

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「NHKスペシャル 新シルクロード2 草原の道-風の民 タクラマカン-西域のモナリザ」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一・内藤みどり):
…このイリ河は、天山山脈の万年雪から流れ出た雪解け水を集め、一年を通して豊富な水の恵みを周辺の草原地帯にもたらしています。…そこが単に草原地帯であるだけでなく、多様な植生にも恵まれた土地であることがわかります。天山山脈のイリ河流域は、古来遊牧民にとって豊かな草原地帯であったのと同時に、農耕民にとっても肥沃な土地でした。

このことは、突厥などに代表される騎馬遊牧民が、イリ河流域を根拠地にして強大な帝国を作ることになった大きな要因であったようです。

もともと遊牧というのは生産性が低く、それだけでは大きな経済力になり得ないのですが、古代遊牧民は略奪によって獲得した定住農耕民に農業をさせ、その収穫を帝国の経済力の基礎にしてきたといわれています。古代遊牧国家にとって天山山脈がひとつの重要拠点となっていたのは、その天山山脈を流れるイリ河によって豊かな農産物がもたらされたからなのです。

この古代騎馬遊牧民と定住農耕民の関係を示唆する遺物が、ナラティからイリ河をたどって下流に下った昭蘇(しょうそ)(注1)というところにあります。

その遺物というのは小洪納海(コナカイ)石人というもので、石人とは遊牧民をかたどって草原に置かれた石像なのですが、新疆の草原地帯には200体もの石人があちこちに点在していて、その多くは、突厥時代に作られたものと考えられています。この小洪納海石人には、他の石人とは大きく異なる特徴があります。それは、この石人の下半身の部分に、ソグド文字(元々シルクロードの交易の民として知られるソグド人の文字で、後に突厥もこの文字を使用するようになります)が刻まれているのです。

その文字は摩耗が激しく、また読める研究者も極めて限られている特殊な文字なので、久しく読解が困難とされてきました。しかし近年の研究で、その文字の一部がようやく読めるようになったのです。

石人に刻まれた文字には、六世紀末に突厥を治めた泥利可汗(ニリ・カガン)の名前が見て取れるといいます。その石人は、泥利可汗の業績を讃えるために作られたものらしいのです。中国の史書「隋書・西突厥伝」によれば、泥利可汗の后は漢人の女性でした。突厥によって略奪された女性だったと考えられています。当時は、突厥によって多くの漢人が略奪され、突厥領内に連行されていました。そして、その漢人は主に農耕民だったと考えられますが、突厥はその農耕民に、自分の領内で農業に当たらせていたらしいのです。…

こうして古代騎馬遊牧国家は、広大な領土を維持する経済力を東西貿易からだけでなく、定住農耕民を使った農業によって得ていたと考えられています。突厥は、遊牧民のみならず、農耕民や交易の民、異なる部族、異なる民族を飲み込んでその支配下に置きました。その意味で、突厥はいわば世界帝国の先駆けともいうべき遊牧国家だったのです。

◎ 昭蘇県の石人と達頭可汗(タルドゥ・カガン)の行方
…ソグド語・ソグド文字の突厥碑文がある。それは中国・新疆ウイグル自治区の伊犁(イリ)地区昭蘇(しょうそ)県にある石人の腰に書かれた縦書き約20行のソグド文で、これが突厥史の不明部分を明らかにすることになった。そこには第三代「木杆可汗(ムハン・カガン)」が「21年間国を保持した」こと、「26年後に木杆可汗の孫、神なる泥利可汗(ニリ・カガン)……」と見え、木杆可汗とその孫である泥利可汗の関係が記されているのである。この碑は泥利可汗のため、その子泥橛處羅可汗(でいけつしょら・カガン)599年頃に建てたと考えられている。

実際、現地資料ほど研究に役立つものはない。この豊かな地域を根拠としていた泥利可汗(ニリ・カガン)の父は、木杆可汗(ムハン・カガン)の子で阿波可汗(アバ・カガン)の弟にあたり、泥利は阿波の甥であることがわかった(注2)。阿波可汗は第四代他鉢可汗(タトバル・カガン)の死に際して本国モンゴリアでの可汗継承戦に敗れると、最強の西面可汗である達頭可汗(タルドゥ・カガン)のもとに逃げ、援軍を得て第六代の大可汗沙鉢略可汗(イシュンバラ・カガン)と国を挙げての大戦乱となるが、阿波は沙鉢略に捕らえられる。これは、中国を統一した隋の、突厥分離策だったのである。達頭可汗が、隋軍を攻撃する沙鉢略可汗戦線から分離した時点(583年)を、東・西突厥の分裂とする見方もある。

ところで不思議なのは、これ以後しばらく達頭可汗(タルドゥ・カガン)の消息が途絶えたことである。代わって泥利可汗(ニリ・カガン)とその系統が、中部天山の北麓、豊富な雪解け水に穀物も実るという豊かな地にいたことが、昭蘇石人とその銘によって証明された。

頭に三つの円環をもつ王冠帯をつけ、後ろに長く弁髪を垂らしている昭蘇石人は、泥利可汗(ニリ・カガン)その人の姿を思わせる。かつては、溝に囲まれていた約30メートル四方の方形土台上の南東部に、東面して立っていたというが、筆者が訪問した2000年には、草が繁茂して方形台趾を確認するのが困難で、おまけに多くの新しい道もつけられ、十ほどの石人がその周囲に集められて石人公園となっていた。石人は是非もとの場所から動かさないでほしい。その置かれた状況自身が歴史を語るのであるから。

泥利可汗(ニリ・カガン)が亡くなった頃、達頭可汗(タルドゥ・カガン)はモンゴリアに現れ、大可汗都藍可汗(とらん・カガン)と提携して突利可汗(とつり・カガン)を南に追い、都藍可汗が部下に殺されると、ついに大可汗の地位に立った。かつて西面可汗であった達頭可汗は、東ローマのマウリキオス帝に手紙を送り、この時叛乱を平定して全土を統一したことを誇っているが、今はふれる余裕がない。しかし、西面可汗達頭が大可汗位を簒奪したこと自体、突厥がまだ東西に分裂していなかったことを示すと考えられる。

その後、達頭(タルドゥ)は国内の大反乱に加え隋の討伐を受けて、603年に吐谷渾に走入した。隋末、中国北辺の群雄はみな突厥の力を借りてしのぎを削り、その中で唐朝が成立したことは有名である。しかし一旦全国統一した唐には勝てず、630年、突厥(第一)可汗国は滅亡した。

この後約50年の唐の支配を受けたのち、モンゴリアで第二可汗国を立ち上げたのは、阿史那氏の骨咄禄可汗(クトゥルク・カガン)であった。…

◎ 西突厥・統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)時代の繁栄
七世紀の初め、ほぼ唐朝の統一と並行して繁栄した独立可汗国西突厥は、達頭可汗(タルドゥ・カガン)の孫、統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)の大発展によって築かれた。かつての西面可汗国を受け継ぎ、ジュンガリアから、天山山脈の草原を西に黒海付近まで最大勢力範囲を回復し、その統治機能を充実させていた統葉護可汗が、牙庭を東部天山の北から西方の「砕葉(スイアブ)」(現キルギスタン共和国トクマク付近)に移したのは、ササン朝ペルシアとの対立も激しく、黒海に至る西方草原で活躍していた多くの部族の統制に力を注いだ結果でもあると思われる。一方、南はソグディアナからヒンドゥクシュ山脈にいたる地域を確保して、アム河の南、エフタルの根拠地であったクンドゥズを副牙とし、パミールを東に越えて西域南道と北道の諸国に通じる状況にあった。長安からインドに行くため、玄奘が西部天山の北麓砕葉に統葉護可汗を訪れた理由は、その保護なしに中央アジアを行くことができなかったからである。

統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)に会った玄奘は、その牙庭の状況に驚いた。「可汗は長い髪を緑色の錦帯で巻いて後ろに垂らし、その前にはしとねを敷いた上に宮廷官たちが二列に座り、その後ろには護衛兵が武器を持って立ち並んでいた。彼らは錦織の華美な衣服をつけて輝いており、草原の君とは、このように華美であるものか」と詠嘆している。

一方、達頭可汗(タルドゥ・カガン)も統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)も、ソグディアナの中心サマルカンド王に娘を与えたことに注目したい。また、統葉護可汗は、「西域諸国すべての王に、(部族長に与える)イルテベルの称号を与え、トドンを派遣して監視させ税を取り立てた」。オアシス民の城郭都市の規模は小さく、彼らは、東西に繋がる道―シルクロード―を利用する中継貿易で利益をあげ、繁栄してきた。それに対して、オアシス民の生産する穀物や日用品、そこに集合する多くの商品は遊牧民にとっても重要で、貿易や税の対象とされた。それゆえ、彼らはオアシスとその商業活動を保護し、花とミツバチの関係にも似て、共栄を図ったのである。

西域諸国にはトドンとして、あるいは護衛兵として突厥人が派遣されて、その安全を守り、利益を確保していたのであった。

中心を阿史那氏一族で固めた西突厥であったが、外部的発展に内部の組織が追いつかず、叛乱によって可汗自身も倒れ(628年頃)、混乱の中で西突厥自身の勢力が分裂し縮小していった。これはまさに唐朝の統一と安定に反比例している。この結果、唐朝に近い突厥第一可汗国の滅亡(630年)に次いで、唐朝の三回にわたる西突厥討伐戦により、西突厥は滅亡した(657年)。

6-7世紀 草原の道とシルクロード
[拡大図]  [全体図]

(注1) 実際は、昭蘇はイリ河本流から約50km南の一山越えたところにあり、その真中をイリ河支流のトクス河が西から東に流れている。

(注2) 突厥可汗系図

(参考) 突厥
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# by satotak | 2008-09-29 20:49 | テュルク