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2009年 05月 08日

北疆ジュンガリア旅行 -無いものを見に行った旅-

◆北疆ジュンガリア旅行から帰ってきて、その印象をまとめておこうと思っているうちに、もう半年以上が経ってしまった。



最後の遊牧帝国といわれるジュンガル、その興亡の地に立ってみたいと思って、ジュンガル盆地の縁を一巡りし、イリにも行った。しかし、予想されないことではなかったが、ジュンガル帝国の痕跡を見ることも聞くこともできなかった。無いものを見に行った旅…といったところ。






旅行は15日間のパッケージツアー。参加者は13名で、それに日本人添乗員とウルムチからの現地スルーガイド(漢人)とバスの運転手(撒拉族)の総勢16名。

行程は、9月4日午後に羽田を発って-上海(泊)-ウルムチ-トルファン(泊)-ハミ(泊)-バリコン(泊)-ジムサル(泊)-アルタイ(2泊)-カトンユイ(泊)-カナス湖-カトンユイ(泊)-ウルホ(泊)-精河(泊)-イーニン(泊)-昭蘇-イーニン(泊)-ウルムチ-上海(泊)-そして18日午後に羽田帰着。


こんな旅で印象に残ったことは…


ジュンガル

現地ガイドからは、ジュンガル族あるいはオイラト族について何も話されなかった。まだ若い漢人女性ガイドだったので、やむを得ないとも思ったが、アルタイやイーニンの博物館にも関係する展示はないようだった。ウルムチの博物館なら何かあったのかもしれないが、今回の旅行では安全面で不安があるということで、ウルムチの観光は中止。ウルムチでは飛行機の乗換えと食事だけになってしまった。


広大な町と道路と農地

今度の旅行で一番印象に残ったのは、「広大さ」。といってもジュンガル盆地や砂漠のことではない。盆地の縁を辿っただけのせいか、あるいは他の砂漠を見慣れたためか、これらの広さはそれ程実感できなかった。


広さ、大きさが印象に残ったのは、町と道路と農地。

県庁所在地だけでなくそれ以下の都市でもかなりの規模。それも町の中心部を大通りが貫通する中国風の街づくりになっていた。

また道路も整備されており、主要な都市の中は片側2~3車線、その外側に街路樹、さらに自転車路(?)、緑地、そして広い歩道。イーニン等では朝暗いうちから作業員が出て大きな竹箒で掃除をしていた。主要国道では高速道路化も進んでおり、今度の旅行のバス行程全3,700km中、工事中のところを除けば、ほとんど舗装完備だった。これも西部大開発戦略の成果か。

飛行機から見下ろす赤茶けた土漠の中に現れる、くっきりと直線で区切られた広大な緑の畑、これも印象的!




中国の統治

オリンピックの直後で、ウルムチの観光が中止になるなど、治安・安全面が気になっていたのだが、何事も起こらず、途中不安を覚えるようなこともなかった。

軍隊はおろか、制服姿の警官を見かけることもほとんどなかったように思う。

中国の統治が行き渡っているという感じ。


しかし旅行シーズンの終り間近ということもあるのだろうが、外国人観光客にはほとんど行き会わない。特に日本人は皆無。今年のカナス湖の観光客は、中国人を含めて例年の半分以下だったとか。


新疆生産建設兵団

あちこちで「137団場」のような道路標識を見かけた。新疆生産建設兵団の農場や工場団地があるのだろう。兵団は漢族の新疆進出の拠点として、いろいろ議論の的になってきたようだが、今では巨大なコングロマリットといったところか。

ウルホで泊まったホテルも兵団の系列のようだった。隣接して兵団の地方本部のような建物があり、このホテルはかつて「招待所」などと呼ばれていたものかもしれない。




民族英雄 林則徐

イーニンで予定外の林則徐記念館に寄った。林則徐の名前はアヘン戦争に絡んで高校の世界史にも出てきたように思うが、何故イーニンに? アヘン戦争後に、清朝は英国を慮ってか林則徐を新疆に形だけの流罪にし、彼は無位無官となったが当地の開発にも大いなる貢献をしたのだという。新疆にいたのはわずか3年たらず。


この記念館は、新疆開発というよりは、アヘン戦争の民族英雄を顕彰するのがメインのようだった。林則徐記念館は中国各地に合計6ヵ所あるとか。


撒拉族

15日間、3,700kmの全行程を一人でバスを運転してくれたドライバー氏。最初の日に「彼はムスリムです」とガイドから紹介があった。顔は漢族と見分けが付かないので、「回族か」と聞いてみると、「サラ族」だという。サラ族??


王柯著「多民族国家 中国」によれば、「撒拉(サラール)族 人口:10.45万人 その88%が青海省居住」とあり、他の資料には「西海省、甘粛省、新疆に住む 自称サラール 言語はウイグル語に非常に近いが、文字はなく、漢語を用いる 農業を主とする」とある。


この旅行の期間がちょうどラマダンと重なっていた。


◆さてその次は…

今度の旅行で残念だったのは、昭蘇まで行きながら、バインブルク(ユルドゥズ)草原に行けなかったこと。いつかバインブルクの大自然を堪能するだけでなく、ハズルンドの跡を少しでも追ってみたい。


摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-


そして、ジュンガルを滅ぼし中国の新疆支配を確立した清朝発祥の地、満洲。しかし近代以降の満洲と日本との関わりを思うと、気が重くなるようでもあり…


女真・満洲・満族



# by satotak | 2009-05-08 13:13 | 東トルキスタン
2009年 04月 18日

近代満洲の民族相 -日本人の錯覚-

小林英夫著「〈満洲〉の歴史」(講談社現代新書 2008)より:

大いなる錯覚
関東軍作戦参謀だった石原莞爾(いしはらかんじ)は、満洲事変勃発(ぼっぱつ)4日後の1931年9月22日の作戦会議で、これまでの「満洲」直接占領構想を放棄し、清朝皇帝だった薄儀(ふぎ)を頭首とする国家づくりへと考え方を変えた。それまでは石原は、歴史的に考えても満蒙は中国人の土地ではないし中国人は政治能力を持っていない、という発想を強烈に抱いていた。ところが、占領作戦を展開するにつれ、また中国人の政治能力の高さを見るにつけ、そうした考えの変更を余儀なくされたのである。

石原はここで満洲イメージの修正を強いられたわけだが、はたして多くの日本人はそうしたイメージ変更をできたのだろうか。…実は、こうした多くの日本人が共有していた大いなる錯覚が、1931年以降の日満のみならず日中関係を誤らせる結果を導いたのではないだろうか。…

17世紀ならいざ知らず、日本が本格的に係わり合いをもつ19世紀半ば以降のこの地は、漢族1000万以上の農民が住み、毎年40万から50万人の農民が津波のように押し寄せ、そして何もかも飲み込んだ大地を噛み砕く、漢族の自治の土地だったというべきだろうし、その中から生み出された張作霖(ちょうさくりん)に代表される政治指導者たちは高い政治統治能力を持っていた。それを「軍閥」という名称のもと、古いイメージでこの地と向き合った、この大いなる錯覚が、東北をめぐる日中関係の不幸の始まりだったのではないか。

黄龍から旭日へ
…たしかに、13世紀からの中国東北の.歴史をひもとけば、それは、清朝発祥の地として、何人も立ち入ることができない封禁(ふうきん)の地として、長い間、広大な荒野を野生の天国に存置していた。しかしこの地は漢族の移民の開始とともに、瞬く間に農業地帯へと変貌を遂げていった。そして露・中・日、三つ巴の抗争の歴史を経て日本がこの地に勢力の扶植を図りはじめたのは、漢族の開墾が大いに進んだ後の19世紀末から20世紀初頭のことだった。

日本は、日清・日露戦争を契機にこの地に進出し、1945年までこの地域に大きな足跡を記すこととなるのだが、その日本は、最大時でも約150万人という、漢族から比べれば20分の1にも足りぬ、しかも大地から遊離した移植の民をもって、ある「夢」を実現させんとしたのである。その「夢」とは、この地を清朝の黄龍旗(こうりゅうき)はためく地から旭日旗(きょくじつき)満ちる地に変えることであった。それはさまざまな手法をもって行われた。清朝皇帝と皇室との交流に始まり、工業化政策と移民政策がそれに加重された。しかしこの変更はあまりに困難で、厳しい環境の中で旭日旗自体が強風にむなしくもちぎれていった。…

17世紀に始まる漢人の満洲移民
当初、満洲はヌルハチに起源をもつ清朝発祥の地として、満洲旗人の地を保存する考えから、何人も立ち入ることができない封禁の地であった。ところが清朝が北京を都に定め全中国の統治をしはじめると、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満洲の空洞化現象が生じはじめた。これを防ぐために清朝は1644年に「土地分給案及開墾補助策」を、49年には「移住民の保甲編入、荒地開墾所有許可令」、53年には「遼東招民開墾例」などの一連の遼東招民開墾政策を実施し、漢人の東北移民を促進した。漢人の東北移民は急速に進行し、開墾奨励政策は1668年に停止されたものの、漢人の移民の勢いは止まらず、その後も自主的な移民が進められ1900年頃には東北の漢人の人口は推定1700万人近くに達したのである。

移民の増加とともに清は、各地に総督-巡撫-布政使司(ふせいしし)、按察使(あんさつし)のラインで地方統治を整備し、それ以下の行政レベルでは地方自治を許してきた。しかし満洲はその発祥地ゆえに事実上の軍政が布(し)かれ将軍、副都統がおかれて統治されてきた。

移住者の増加にともない、徴税という面では税損局を設けて課税を実施しはじめた。…多くの場合には徴税額ではとうていこの地域の歳出はまかないきれず、毎年中央からの補助金で財政の赤字を補填したといわれている。

漢人開拓地の自治の実像
漢人による満洲開拓が進行するなかで、この地域の牧草地や山林、森林は次第に耕されて耕地へと変貌していった。開拓を担ったのは山東省や河北省からの漢人移住者だった。彼らは、陸や海路を利用して満洲へと入り、まず奉天省の未開地を開拓し、さらに進んで吉林省へと踏み入り、そしてロシアと国境を接することとなる黒龍江省へと開拓の歩を進めた。…また吉林省の開拓に当たっては、18世紀中葉から生活に困窮した在京旗人救済の目的で彼らの移民策が展開されたが、農耕生活に不慣れな彼らは定着することはできなかったという。ロシアと国境を接した黒龍江省の開拓は、17世紀末に屯田のかたちで移民が進められたが、それが本格化したのは19世紀も後半で、主に漢人の私墾というかたちで展開された。こうして、東北では旗地の売買が活発化するなかで、清朝を支えていた旗人は土地を喪失して没落していった。それは同時に清朝の衰退過程に符合した。

1860年、天津(てんしん)条約に基づいて牛荘(きゅうそう、営口(えいこう))が開港されることで、満洲は世界経済の一環に包摂されることとなった。営口で取引をされたのは満洲特産の大豆三品(大豆、大豆油、大豆粕)で、この輸出入を通じて営口は賑わい、過炉銀(かろぎん)が流通することとなる。満洲特産大豆が世界製品になる過程は、同時にまた営口が栄え、漢人の満洲開拓が急速に促進される過程でもあった。

拡大した漢人の開拓地を清朝は総督を派遣して統治したことは前述したが、それは中央機関だけで、漢人の開拓村は自治に任されていた。自治とはいえ、中央機関とは何らかの関連を持つわけだが、それに対して彼らは、長年の政治経験を活用して柔軟に対応した。…

この満洲の地は清朝の統治の対象ではあったが、その治安を維持するための軍事力の多くを担ったのは、馬賊と称された、村落の自衛武装集団だった。日本では誤解されて馬賊というと馬に乗った略奪者、強盗もしくは盗賊集団として扱われるが、これは正しい認識ではない。治安が不良で自衛が必要とされる中国で、略奪のかたわら地域的自衛をも担当する武装集団が活動したが、彼らの多くは頭目が騎馬で指揮したことから馬賊と称されたのである。

もっとも満洲社会の防衛組織を馬賊で代表させることは、必ずしも適切ではない。馬賊というのは、そうした村落自衛組織の一つであって、時期や場所によって異なるが、民団、郷団、商団、保衛団、自衛団などさまざまな組織が活動していた。自衛団を例にとれば、これは常時ある場合もあるが、通常は村落にあって農作業に従事しているが、非常の際に銃器を携え村落防衛に従事する場合が多い。団長や副団長は村落の地主や富農の二男坊が就任し、兵は村民が志願もしくは義務的に従事する。彼らは自分たちの村を守るという意識が強いから、農家に宿泊しても馬賊などの雇われ者がやるような食い荒らしはせず、夜間の警備などを任せれば一番忠実で安全であるというのだ。…

混乱に生きる満洲住民
日露戦争中および戦後の満洲は、日清戦争時とは比較にならぬ範囲と規模で戦争の影響を受けた。まず、戦時好景気が満洲を覆ったことである。もっとも満洲全土というよりは、兵站地域でそれが著しかった。たとえばロシア軍の拠点ハルビン、大連と南の日本軍の拠点営口がそれである。戦争勃発直前のハルビンには850名程度の日本人がいた。彼らは娘子軍(じょうしぐん、売春婦)が圧倒的に多数で、以下、洗濯屋、理髪屋、時計士、写真師、大工、ペンキ屋等だった。彼らは日露開戦と同時にハルビンを引揚げた。…

そしていったん戦端が開かれると、ハルビンにはあらゆる物資が充満、ショーウインドウにはダイヤモンドやたくさんの酒が、そして濃艶なロシア女が街に溢れ、この都市は「極楽世界の観」を呈したという。日本軍の拠点、営口も同様で、軍需品の荷揚げで活況を呈し、満洲で一稼ぎしょうとする日本人が殺到し、日清戦争時にはわずか数十人に過ぎなかった居留民は8000人に膨らみ、旅行客を含むと 1万人を超えたという。…

もっともこれは戦場が生むことの一面であって、他面で、多くの中国人は戦火の犠牲となって多大な被害を受けたことはいうまでもない。クリスティーは、その著書の中で短く「それは支那の土地で戦はれた。支那の農民は、自分達の戦争ではなかったけれども、そのために苦しみ且つ死んだ。そして何等賠償を受けるあてもなかった」(『奉天三十年』下)と結んでいる…

戦争が終わると、今度は戦後の荒廃と混乱、景気の後退が満洲に打撃を与えた。ハルビンではあらゆる物資が暴落し、買い手のない悲惨な状況が生まれた。営口も被害を受けた港の一つだった。戦争勃発当初は、軍需品の輸送で活況を呈したが、戦争が終結すると軍需品の値下がりと滞貨の山のなかで、倒産する商人が続出、さらには大連港が復興し、満鉄の呑吐港(どんとこう)として機能しはじめると営口の重要性は減少していった。…

日本人移住者の増加
満洲も満鉄もまだ日露戦争直後の荒々しさの余韻を残している1907、08年ころ、他方で日本人の満洲移住が始まっていく。すでに中国人移民の数は1300万人を超えていた。日本人移民の数も徐々にではあるが増加を開始する。

ここに1906年8月時点の営口の日本人戸数調査がある。それによれば、営口の戸数合計は1044戸、人員は7087人、その内訳は男子5111人、女子1976人であった。職業の内訳の上位5種を挙げれば、下婢(かひ、使用人) 394、雑貨店 226、芸妓 113、料理店 75、菓子製造 68の順になっていた。…

占領初期と相も変わらず芸妓、酌婦、下婢、料理店、飲食店関連従事者の数が多いことがわかる。料理店、飲食店とは大半が淫売宿であり、芸妓、酌婦、下婢はその大半が淫売婦だったという。…

「五族協和」の内実
…満洲国は「五族協和」を建前に、日・朝・漢・満・蒙の協和を目指したとされるが、この民族構成も一皮むけば、少数の日本人を頂点に、圧倒的多数の漢族を底辺に作られたピラミッド支配構造で、各民族相互の交流は非常に少なかった。つまり「五族協和」とは名ばかりで、実態は五民族が住み分けていた、というのが実情に近かった。

人口構成
『満洲年鑑(昭和15年版)』に依拠して、満洲國の1937年12月末時点での民族別職業別人口構成を見てみよう。満洲国の総入口は約3667万人。うち最大多数の漢族が2973万人で全体の81%を占めている。第二位は満族でその数は425万人。全体の約12%を占める。第三位は蒙古族で、その数98万人、全体の3%弱。そして第四位は朝鮮族の93万人でこれまた3%弱。そして第五位が日本人で42万人、1%強である。

次に職業別人口構成を見てみよう。やはり農林牧業に従事する人口が圧倒的多数で、2304万人、63%弱で半数以上が農林牧業に従事しており、なかでも漢族が1841万人で、全体の50%、半分を占めている。この対極にいるのが日本人で、公務員・自由業が8.3万人で、全入口に占める比率こそ1.2%だが、満洲国全体の公務員・自由業の5.8%を占めている。

つまりトップに立つ日本人は、公務員及び自由業に従事するものが最大で、逆に最大の人口比率をもつ漢族は農林牧業を筆頭に以下商業、鉱工業と続いている。中国人が、農・商を通じてがっちりと満洲の大地を食んでいることがわかるであろう。…

実質的に農村を支配する中国人農民
中国人農民といった場合にも、4000万人(?)の農民の内訳を見れば、富農や地主から貧農、小作農までそれこそ千差万別で、一律に論ずることはできない。東北農村をコントロールしていたのは巨大な地主と富農で、彼らはしばしば大豆集買を業とする糧桟を兼業し、さらには金貸しをも兼ねていて、村落で絶対的な力を有していた。しかも農会をコントロールし、保甲制度の実施においては、保長か甲長を兼ねて村落で大きな権限をポストとともに保持していたのである。

彼らは、さまざまな情報を集計して、有利な条件で大豆を購入・販売しており、こうした利便性を活用して富を蓄積した。…特に戦時期に入ると統制が一般的となり、正確な情報いかんが収益を左右することとなり、それを有利に活用できる富農や地主がさらなる富をものにすることができた。したがって、彼らが実質的な意味での農村の支配者であり、満洲の大地の支配者だったのである。

商売上手な中国人商工業者
中国人商工業者の多くは、付属地に隣接する城内に住んでいた。満洲事変前は、城内と付属地の日本人街では交易を行う際には関税上の問題があり、自由な取引はできなかった。したがって、張作霖政権は、この関税を調整することで、中国人商人に有利なように商取引を実施することを仕掛けたのである。
満洲国成立後は、治外法権撤廃にともない、それ以前の制度は消滅したが、中国人商工業者の居住地と日本人のそれとは明確に峻別されていた。…

中国人商人の商売上手は、日本人のそれとは比較にならなかった。北満の奥地を旅した島木健作は、中国人商人が上手に日本語を使い、愛想よく島木に接し客を大切に扱う態度が随所に見られたのに対し、日本人商人の店は客扱いが雑で価格も高く、いい気持ちはしなかったと述べている(『満洲紀行』)。

しかし中国人商人のなかには、正常な商取引というよりは麻薬、阿片などの取引に手を染める者も少なくはなかった。時折彼らの暗号めいた符号入り書簡が憲兵隊の検閲に引っかかることがあったが、それは阿片取引の場合が少なくなかった。…

若い世代が台頭しはじめる中国人官吏
中国人官吏の生活は多様であったが、満洲国の官吏養成課程が整備されるにともない、次第にその養成課程から選出された官吏が要職を占めはじめた。建国当初は日本留学組が要職を占めていたが、やがて建国大学や大同学院出身者が、県長から満洲国中央政府の処長、科長、次長へと昇格を開始し、敗戦直前では、中央政府の次長クラスヘと昇格したものが現れはじめた。日本の大学を卒業し、帰国して中央政府入りを果たし、出世街道を進みはじめるものも現れはじめた。
その契機となったのは、1942年の「満洲建国10周年」を迎えた人事異動だった。…

広範に活動する朝鮮人
朝鮮人の活動領域は満洲国全域に及んでいたし、従事していた職業の業種も日本人よりははるかに広かった。彼らは、母国を離れて満洲国に住みながらも、官吏、農業、工業、商業など広範な領域にその触手を広げ、朝鮮人のネットワークを持ちながら、その領域を拡大していった。…

# by satotak | 2009-04-18 16:37 | 女真・満州・内蒙古
2009年 03月 13日

ロシア人の進出とシベリア原住民の移動

三上次男・神田信夫編著「民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史」(山川出版 1989)より(筆者:加藤九祚):

ロシアによるシベリア併合の意義
シベリアがロシアに併合されたことは、ロシアおよび現地住民にとってどのような歴史的意義をもつものであろうか。

この問題をはじめてとりあげた学者は、18世紀中ごろ以後に活躍したドイツ生まれのシベリア史家ミュラーであった。彼の見解は、シベリアはロシアの武器によって征服(ザウオエワニエ)された、というものであった。この見解はロシア史家の間で定着し、征服の主導者がツァーリ政府、企業家ストロガノフ家、エルマクを首領とするカザク(コサック)のいずれであるか、あるいはこの三者の組み合わせがどうであったかをめぐっての論議があるだけであった。…

ソ連時代になってから、研究者たちは多くの資料を細かく検討した結果、一部の原住民が自由意志でロシア国家に編入された事実が判明し、征服ということばは不適当であるとして「併合(プリソエジネニエ)」という表現を用いはじめた(たとえばシュンコフ)。これは征服、自由意志による編入、平和的進出などの意味をこめたものである。

シベリアの原住民にとって、ロシア併合はいかなる意味をもったか、ミュラーによると、ツァーリ政府は原住民を大切にあつかい、その結果、原住民に対してもロシア国家にとっても利益をもたらしたのである。この見解は帝政ロシア時代を通じて支配的であった。ソ連時代になってからも、一部の学者はこの立場であった。
これに対し、18世紀末のラジシチェフはまったく否定的な見解をとった。彼によればシベリアにおけるツァーリ政府の役人、商人、高利貸、ロシア正教の聖職者たちはすべて強慾で、原住民から毛皮などを仮借なく収奪し、原住民を貧困のどん底におとしいれたとするものである。この見解は19世紀中ごろ以後のシベリア出身のロシア人学者たちにひきつがれた。ただしこの場合、シベリアのロシア人農民や手工業者たちはシベリア原住民によい影響をあたえたことを指摘している。…

ロシア人のシベリア進出にともなう原住民の移動
現在、シベリアの総人口は約3000万、うち原住民は約100万人にすぎないが、最初ロシア人は、ロシア人のまったくいない地域へ侵入したのである。しかし原住民は侵入してくるロシア人に対して本格的な抵抗をすることはできなかった。シベリアの土地はあまりにも広大で、住民の数はあまりにも少なく(総数約30万)、また組織化されていなかった。またロシア人は政治・経済・軍事などの面で、原住民よりも圧倒的に優勢であった。原住民は稀れに反抗することもあったが、しかしそれは散発的・局地的なものにすぎず、すぐに鎮圧されてしまった。原住民は、進出してくるロシア人の圧迫から逃れるために、むしろその住地を変えることを選んだ。つまり消極的抵抗しかできなかった。そして、その後は毛皮税(ヤサク)の納入者として、移動すらも不可能となったのである。

ロシア人のシベリア進出直前の民族移動
〔ブリャト〕
ブリャト(ブリヤート)はモンゴル語を話す民族であるが、その形成地は現在と同じバイカル湖沿岸であった。バイカル湖沿岸の住民のなかへ、モンゴル高原からのモンゴル人がくわわって、現在のブリャトが形成されたものである。
ブリャトはロシア人の進出直前、バイカル湖岸から西方へ移動する傾向にあった。彼らはコソゴル湖付近およびエニセイ川上流部においてトゥワ(都播)やキルギズなどの民族と接するようになった。ブリャトの西方移動は、ロシア人の進出する17世紀までつづいた。

ロシア人がブリャトとはじめて接触したのはカン川であった。毛皮税の台帳によれば、1686年ロシア人のつくったバラガンスク砦付近に多くのブリャトが住んでいた。チュナ川、ウダ川の岸辺にもブリャトの住地があった。
ロシア人の進出以前におけるブリャトの住地の拡大は、ヤクートが北方のレナ川中流部へ移動した原因の一つと考えられている。
ロシア人がバイカル湖沿岸地方へ進出する前に、東部のブリャトはすでに、プリミティヴながら農耕を知っていた。…

〔ヤクートと北東シベリアの他の諸民族〕
ヤクートがバイカル湖沿岸地方から北方のレナ川中流域に移住したことは、多くの言語学的・考古学的資料によって証明されている。またヤクートの伝承によっても明らかにされている。しかしこのことは、ヤクートがすでに形成を終わった民族としてレナ川中流域に移動したことを意味するものでも、移動が一度だけおこなわれたものでもない。…
その時期について一部の歴史家は、最初の波は紀元初頭で、つぎが7-9世紀、最後がチンギス・ハン時代のモンゴルの移動にともなうものと考えている。考古学者オクラドニコフによれば、最後の波が15世紀末から16世紀初頭であるという。

ヤクート族は南から移住したチュルク系要素とブリャト・モンゴルの要素が原住民と混じって形成された。民族学者トカレフは書いている。
《ヤクートは、原地住民と移住民のいくつかのグループによって形成された。南方起源の要素はそのなかの一部にすぎない。原住民の言語はツングース系であったと考えられる。移住民のうち、一部はモンゴル語を話し、別のグループはチュルク語を話した。これらの言語が混じりあって新たな共通語が形成されたが、この言語の基本構造はチュルク語であった。》

ヤクートの形成において、南方からの移住民が重要な役割を果たしたのは、言語だけでなく、南方からもちこまれた牧畜という生業である。ヤクートは明らかに「騎馬民族」であった。乳のしぼり方をはじめ牧畜技術のすべてが南方のチュルク・モンゴル系諸民族と同じであった。牛もまた南方からもちこまれた。トカレフは書いている。
《牧畜はいうまでもなく、ヤクート地方にすぐに根づいたものではなかった。草原の家畜にとって不慣れなきびしい気候のために、もちこまれた家畜の多くは死んだ。新しい移住民がくりかえし家畜をもちこんで、気候条件に合わせて飼いならしたにちがいない。》
北方での牛の飼育は馬よりもなお困難であった。ヤクートの牛の品種は明らかにバイカル湖沿岸とのむすびつきを示している。

ヤクート地方は広大な面積を占め、しかもそこに住んでいた原住民ツングース(エヴェンキ)の人口は稀薄であったが、しかしそれでも、南方からのヤクートの移動はツングースに影響をあたえ、彼らを移動させた。ただし、当時ツングースは、それまでの徒歩移動から乗用トナカイを利用した移動に変わりつつあったから、ヤクートの移動はそれに拍車をかけたにすぎないともいえる。当時、シベリア北東端のチュクチにおいても、海岸の定住海獣漁撈と、内陸部のトナカイ飼育民の間の相違がひろがりつつあった。…

〔北西シベリアの諸民族〕
北西シベリアでは、チンギス・ハンの孫バトゥの遠征と金帳汗国(キプチャク・ハン国)の形成の結果、オビ川イルティシ川の中流部に「シベリア・タタール」が進出した。この結果、原住民ハンティ(旧称オスチャク)とマンシ(旧称ヴォグール)の間では氏族制の解体がはやまり、封建制の発生が促された。両民族とも、南方の遊牧民から牛馬の飼育を借用したが、東方のヤクートにおけるような発達をみなかった。この原因は、彼らの場合、家畜としてのトナカイ飼育が早くからおこなわれていたからと考えられる。

マンシは、ロシア人のシベリア進出よりも約200年前、ウラル山脈の西方に住んでいたことが知られている。彼らが東方のオビ川流域に移動したのはコミ(旧称ズィリャン、ペルミャク)の増加によるものと考えられる。他方、ウラル北部でのノヴゴロド住民による毛皮税(ヤサク)の徴収はペチョラ川流域における毛皮獣資源の悪化とともにますますきびしくなり、マンシを東方へ駆りたてた。…16-17世紀の北方諸民族にかんする記述にが、唯一の橇曳用家畜としてしばしば書かれていたが、それがしだいにトナカイにかわっていった。…トナカイ飼育の発展とともに、シベリア北西部の住民はしだいにトナカイ遊牧の様相をつよめた。
17-18世紀における北東シベリア諸民族の移動
この時期の原住民の移動は、直接間接にロシア人の進出結果によるものである。北東シベリアの場合、この時期でもっとも大きく移動したのはヤクートとユカギルであった。
ロシア人の進出当時、毛皮税の台帳によれば、ヤクートの住地はその百年以後にくらべてはるかにせまかった。マイノフによると、南西方におけるその密集地はレナ川沿いに、東部はアムガ川に限られていた。それが18世紀になると、はるかにひろがっている。反対に、17世紀に広大な地域を占めていたユカギルの住地は著しくせまくなっている。ヤクートの拡張について、19世紀の著名なヤクート研究家セロシェフスキーは書いている。
《これは実際、奇跡的ともいえる変化であった。わずか50-60年間にばく大な人口(もちろん当時の規模での話であるが)と広い面積を占めるにいたったのである。》
マイノフは、ヤクート住地の拡張は、ヤクートの人口の急激な増加によると説明している。しかしそれにしてもあまりにも急激な変化であるために、研究者のなかには、ロシア人の進出当時ヤクートの住地がせまかったことをみとめようとしない人もある。つまり毛皮税の台帳に誤りがあるのではないかとみている。

しかしこれは少数意見にすぎない。地理学者ポクシシェフスキーは書いている。
《われわれは知っている。われわれの祖先であるシベリア踏破者たちがどれほど正確に、彼らの出会った“異民族“グループの所属を明らかにしたか、また代官所においてどんなに注意深くそのデータを総括したかを知っている。その資料は“異民族“統治と毛皮税の課税額算定の基礎となったものである。》…

こうしてカザクの毛皮台帳を疑うことは困難である。地理学者ポクシシェフスキーは、ヤクートの人口と住地の増加・拡大をつぎのような二つの理由で説明している。すなわち、ヤクートはロシア人征服者にしたがってツングースの住地に入り、ロシア人が一時的に去った後にも、その地にとどまった。また多くのヤクートがロシア人カザクに従って行動し、褒賞として牧地や狩猟用地を特権的に分与された。…
第二は、以上とはまったく逆の理由である。一部のヤクートはロシア人の徴税からのがれて、オレニョク川、ヤナ川、インディギルカ川、コリマ川、一部はヴィリュイ川、さらにはオリョクマ川の流域まで入りこんだ。…

ヤクートの進出によって、ツングース系諸民族はさらに遠くへ散っていった。たとえばジガンスク砦付近のツングースはエニセイ川の西側まで移動した。ドルガーンも西方へ移動した。レナ川の東側でも、ツングースの住地が縮小した。

ユカギルの人口と住地も急速に縮小したが、これについては後に述べることにして、さらに北東方のチュクチについて一言しよう。チュクチ族の研究者ヴドヴィンは、18世紀中ごろ以後、チュクチがアナディル川の南方へ、チャウナ川の西方および南西方へ移動をはじめたことを指摘している。また少し後代になると、チュクチはコリマ川流域まで進出し、ロシア人と衝突するようになった。
コリマ地方の「トナカイ」チュクチは、ツングースからトナカイを借用し、これを乗用に利用し、場所によってトナカイの新品種をつくりだした。19世紀になると、一部の富裕なチュクチは5000頭からのトナカイ群を所有した。

ユカギルの謎
北東シベリアの諸民族のうち、ユカギルは不思議な民族の一つである。この民族はかつてレナ川下流部からアナディル川流域までの広大な地域を占めていた。ソ連の民族学者ドルギフが17世紀の毛皮税台帳によって調査したところ、17世紀中ごろで約4350人を数えた。…それ以前はさらに広大な地域に分布していた。これはユカギル語の分析によって明らかにされている。オクラドニコフとレーヴィンは、ユカギルの先祖こそはシベリア北東部(今のヤクート自治共和国)の最古の住民であったと考えている。近年ユカギルとサモディ(サモエド)語との関連が指摘された。これは、ユカギルとサモディ系民族とがかつて隣接していたことを示している。しかし現在のユカギルとサモディ系民族とは遠く離れており、両者の間にはツングース系の民族がくさびのように入っている。これは比較的新しい時代のできごととされている。

ユカギルの生業は、徒歩による野生トナカイ狩りであった。冬は橇を利用し、秋はおとりを用い、夏は湖岸や川岸でトナカイを待ちうけ、それを渡るトナカイを小舟に乗って仕とめた。また、秋にはプリミティヴな網で魚をとった。住居は竪穴を利用した円錐形のものが多かった。17世紀当時、ユカギルの物質文化はヤクートやツングースにくらべてはるかにプリミティヴであった。

ユカギルの人口はその後急速に減り、1859年にはわずか639人、1897年に351人となった。実に17世紀当時の十分の一以下である。1894-97年、ヨヘルソンの調査によれば、ユカギルはほとんどが、ヤクート、エヴェン、ロシアなどの人びとの住地のなかにまじって住んでおり、ユカギル語を話す家族は自称ユカギルの約三分の一にすぎず、あとはロシア語やエヴェン語、ヤクート語を話した。

ユカギルの人口減少は、ロシア人はもちろん、ヤクートやエヴェンにくらべても生業形態がプリミティヴであり、そのうえ飢餓、貧困、伝染病、ロシア人など支配者によるきびしい収奪、近隣諸族との融合が原因とされている。現在、自らの言語を知り、民族意識をもち、若干の文化的特徴を残すユカギルは150人ほどで、それもロシア革命後のソ連の少数民族保護政策の結果であるとされている。

アムール川流域諸民族の移動
ロシア人がアムール川中流部に進出した当時(1640-50)、その地域に住んだダウル、ゴグル、デュチェルらの民族が農耕を営んでいた。…ゴグルとデュチェルは同族であった。この繁栄が急激に衰退するが、その原因については、ロシア人の進出前後におこなわれた清の遠征によるといわれている。

ロシア人がはじめてアムール地方に進出したのは、1644年ゼーヤ川からアムール川に入ったポヤルコフの一行であった。ついで1649年には、ハバロフの一行がヤクーツクからアムール川へ進出した。ロシア人はアムール川を下りながら住民に毛皮税を課したが、そのときの台帳によると、17世紀なかばのギリャク(今のニヴフ)の住地は、最近までの住地とほぼ同じであることが判明した。

の太祖(ヌルハチ)と太宗は、ワルカ部征討(1634、1635、1637)をおこない、主としてウスリー江流域のフルハ(デュチェル)人を服属させ、多くの若者を八旗にくわえた。
1653年、カザクの一人ステパノフがハバロフにかわってアムール地区ロシア人の隊長となり、55年には中流・上流部の原住民から毛皮税を集めた。その翌年、ステパノフが再度この地を訪れたときには、デュチェル、ダウルは姿を消していた。
《これは清朝がデュチェル人の住居を強制的に焼きはらったり、こわしたりして、松花江の支流フルカ河方面にかれらを移住させたためであった。》(吉田金一による)

ステパノフの指揮するロシアのカザク兵と清軍との間でしぼしば軍事的衝突がおこり、1654年と58年の戦闘では、清国の要請によって朝鮮の鉄砲隊(150名)が派遣されたことが知られている。吉田金一の研究によれば、1658年の戦闘ではステパノフ以下220名が戦死、朝鮮の兵も8名戦死、25名が負傷した。…
ステパノフの敗北によって、ロシア人はいったんアムール川から姿を消すが、1660年代後半以後、ザバイカル方面から多くのロシア人がアルバジン地区に移住しはじめた。1680年代の初めには、アルバジンを中心とするアムール川の沿岸320キロメートルにわたって農地1000ヘクタール以上が開かれ、そこに営農部落20があった。

ロシアのアムール川進出は1689年8月29日に調印されたネルチンスク条約によって頓坐し、シベリア経略の方向はカムチャツカ北アメリカの方面へ転じたのである。…

(参考) シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-

# by satotak | 2009-03-13 21:34 | シベリア
2009年 02月 07日

女真族の国家

川本芳昭著「中国史のなかの諸民族」(山川出版社 2004)より:
女真族の興起
遼や元を生み出したモンゴル高原の東境には南北1500キロにおよぶ大興安嶺(こうあんれい)が横たわる。その東麓には現中国の東北地方、かつて満州と呼ばれた大平原地帯が存在する。

この大地は古来より言語的にツングース系に属する狩猟・牧畜を生業とする民族が活躍した舞台であり、古くは粛慎(しゅくしん)、挹婁(ゆうろう)、勿吉(ぶつきち)、靺鞨(まっかつ)などと呼ばれる諸族が活躍したことを中国の史書は伝えており、なかには高句麗(こうくり)や渤海(ぼっかい)などのように強大な国家を建設するものもあらわれた。ただ、これらの諸族は基本的に万里の長城の線をこえて南下拡大することはなかった。

しかし、海東の盛国と称された渤海[契丹]によって滅亡させられたのち、その後身は女真(女直)という名のもとに結集を始め、やがてそのなかの完顔(ワンヤン)部がを建国するにいたり、それまでとは違った様相が生じるようになる。
完顔部の阿骨打(アクダ)は遼の圧政を排除しつつ、ムクンと呼ばれる単位を基礎とする氏族制社会としての女真勢力を改編して、完顔部を中心とする支配力を強化し、会寧(かいねい)を首都とする金を建国し、女真文字を定め、外に向かってついに長年の宿敵たる遼を滅ぼすことに成功する。この拡大は、金の華北進出から、さらに北宋の打倒へと展開し、やがて江南に南渡した(南宋)と淮水(わいすい)をはさんで対立するまでにいたるのである。

12世紀末の北東アジア
[拡大図]

こうした動きは、明らかにそれまでの満州諸族の歴史展開とは相違するものであり、その背景には、遼や北宋などとのあいだに生じた個々の具体的政治状況の存在とともに、古来より展開してきた満州系諸族の経済的・社会的発展の存在が関係していた。金による華北支配はそうした発展の、帰結であったということもできる。

この金は、華北を領有するとその基盤を華北に移すようになり、やがてそれは女真族の漢化民族性の喪失を惹起し、新興のモンゴルによって滅亡させられるにいたる。その結果、金の中国王朝化後も満州に残留していた女真族は、モンゴル・元の支配下に組み込まれ、その強大な軍事力に圧服される時代をむかえるのである。しかし、そのような状況下にあっても女真族再結集への動きは存続しており、それは明のあと、後金国が興隆してくる基礎となるのである。

金朝の国制
さて、完顔(ワンヤン)阿骨打(アクダ)は、1115年、自立して帝位につき(太祖)、国を金と号したが、その前年の14年、配下女真族を統制するうえでの軍事・行政の両面をかねた猛安(もうあん、[ミンアン])謀克(ぼうこく、[ムクン、ムケ])という制度を定めた。これは、300戸を1謀克としてこれを行政上の基礎単位とし、10謀克をもって1猛安とする制度であり、その1謀克当たり100人の兵士を徴し、これを軍編成の基礎単位として、1猛安当たり1000人の部隊を編成する軍事制度であった。各猛安、謀克の長の名称もそれぞれ猛安、謀克と称し、それらは世襲の職であり、そのために世官と呼ばれることもあった。

猛安はミンガンという女真語で「千」の意味をもっており、謀克は同じく女真語で「族長」を意味する言葉である。よって猛安・謀克制とは3000戸の構成員から1000人の戦士を徴発する制度ということになり、猛安が「千」の意味をもつことから行政上の制度の面をもちながらも、その本質は軍事面にあったということができる。こうした制度はさきにモンゴルの軍制についてふれた際、千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)の制やノヤンの制について述べたが、ミンガンという呼称の一致面をも含めて、金においてもこれと同様のことがおこなわれたことがうかがわれよう。また、その際、その千戸(ミンガン)・百戸(ジャングン)制と遼の軍制、はたまた北魏の軍制との共通性についても論じたが、そのことは大きくとらえると、金の猛安・謀克制は北魏の軍制(行政制度でもある)である八部制と同様の性格をもっていたことをも想定させるのである。

金は1142年、宋と和議を結ぶと、華北の治安維持のため多数の女真族をその猛安・謀克の組織のまま、満州から華北の地に移したが、その形勢は金の第四代海陵王による燕京(えんけい)遷都によっていっそう著しいものとなる。彼らが漢人といりまじって居住し、耕地を与えられ税負担も軽く抑えられた反面、漢人に対しては過重な負担がしいられた。このことは漢人の金朝に対する反感をいっそう強いものとし、金朝の滅亡の大きな原因の一つとなる。

彼ら自身も華北に移住した結果、自らの母語である女真語を失い、漢語をあやつるようになるなど、物心両面におよぶ中国化と民族性の喪失を生むのである。…

海陵王と世宗
…金の第四代海陵(かいりょう)王(完顔亮)は満州の都・会寧府(かいねいふ)を棄てて華北の大興府(北京)への遷都を断行し、多くの女真族を華北の地に移住させた。また彼は、皇帝権の強化のために宗室諸王や女真族大官を抑圧し、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、南宋を討つために、多くの反対を押して淮南へ軍を進めている。この海陵王の事跡をみるとき、北魏[注1]の孝文帝の事跡とのあまりの類似に驚かざるをえない。

海陵王と同じく中国文化にあこがれた北魏孝文帝は都を多くの家臣の反対を押しきって平城(大同)から洛陽へ移す。また、彼は洛陽遷都にみられるような中国王朝化をめざした施策に反対する鮮卑族大官を数多く粛正した。また、中国的国制の整備に努め、さらに中国の統一を企図し、江南にあった南朝を討つため、多くの反対を排して南伐の軍を起こす……。

こうした類似が生じた根本には、皇帝個人の志向もさることながら、そこに両国が中国を支配するようになって徐々に進行する中国化にいかに対処し、その国家としての基盤を確固たるものにするにはこれまでの国家の有り様を根本的に変革するよりほかにない、とする判断があったがためと考えられるのである。

ただし、金と北魏を比較した際、その中国に対する対応にはやはり相当根本的な相違も存在する。それは、女真文字の創出や、海陵王のあと即位した第五代世宗(完顔烏禄)の施策にみられる女真族国粋の強化と、再興への動きの存在などに端的に示されているとされよう。その意味では、金はやはりそれに先行する遼、その跡を継ぐ元と同じく征服王朝としての性格を濃厚にもっており、北魏後に展開された北アジアの歴史発展を踏まえて出現した国家といえる。

しかしまた、金が遼や元と比較して中国文化と親和的な国家であったということもこの際、確認しておく必要がある。そのことは金が華北支配にあたって科挙(かきょ)制度を排除せず、1127年、その制を採用し、漢人を中央行政、地方行政において活躍させ、決して除外しようとしなかったこと、あるいは、金一代をつうじて儒教を国家の指導理念としていたことからもみてとれる。

つまり、金の場合、たしかに世宗にみるように女真主義の強化を標榜するものがあるが、それはあくまでも中国思想・文化を排斥、それと対立しようとするものではないことは注目に値しよう。このような遼・元との相違が生じた原因としては種々の事柄が考えられるが、その要因に、モンゴル高原という遊牧を生業とする地から発した国家としての遼・元と、満州という狩猟や牧畜、そこで農耕をも部分的におこなう地から発した金との差異があることは確実なことといえるであろう。

清による中国支配
元代の女真族がの強大な軍事力に圧服され、そうしたなかでも再結集をめざす動きがあったことをさきに述べたが、が江南の地を確保し、さらに元を追って満州にまで進出すると、女真の一部は明に帰服し、満州から元の残存勢力を駆逐した。その後、明は巧妙な羈縻(きび)政策[注2]をとり、有力首長に官職を授け彼らに朝貢・互市貿易の特権を与えることをつうじてその懐柔に成功した。

明代の女真族は満州南部の建州女直、松花江沿いの海西女直、東北極遠の野人女直に大別されるが、海西女直と建州女直は明一代をつうじて徐々に文化的・経済的生活を向上させ、明末には有力者の荘園も出現するようになる。その社会組織は血縁によって構成されるムクンとともに、地縁共同体としてのガシャン(村)もあらわれ、さらに明末にはその連合体としてのアイマン(部)やその諸部を統合したものとしてのグルン(国)が形成されるようになった。これらの部、国が明との朝貢・貿易権をめぐって激しく抗争し、やがてそれは建州女直出身のヌルハチの制覇に帰して後金国[アイシン国]の建国をみ、清朝へと発展するのである。

は第二代太宗ホンタイジが1643年に没し、子の世祖順治帝が位につくと、幼少のため睿(えい)親王ドルゴンが摂政となって政治にあたった。翌年、北京が李自成によって攻略され明が滅ぶと、これに乗じて清は万里の長城の要衝・山海関を突破して華北にはいり、北京に都を移した。これによって清は以後、1911年の辛亥<(しんがい)革命にいたるまで300年近くの年月にわたって中国全土を手中におさめる満州族による征服王朝として中国の大地に君臨することになる。…

[注1] 北魏 (386~534年):混乱を極めた五胡十六国時代を収束し、のちの隋唐統一帝国の母胎となった、鮮卑(せんぴ)族の一たる拓跋(たくばつ)部が建国した非漢民族国家。この国家は華北の大地のほぼ全域を統一し(439年)、以後100年をこえる支配を実現するが、中国史を通観するとき、中国の大地に侵攻し、国家を建国した北方諸民族国家の一つの典型を示しているといえる。
その北魏を建国する鮮卑族拓跋部は3世紀のなかごろ、その初期のリーダー拓跋力微(りきび)が諸部を合わせて盛楽(いまの内蒙古和林格爾(ホリンゴール))を中心に活躍するようになってから明確なかたちで史上にその姿をあらわし、以後、曲折をへながらもモンゴル高原の一大勢力として成長していく。
4世紀末、拓跋珪(けい)は、はじめて帝号を称し(太祖道武帝)、登国と建元して国号を魏と定めた(386年)。その後、道武帝、太宗明元帝、世祖太武帝と続く三代の皇帝の治世のあいだに、着々とその支配領域を拡大し、439年ついに割拠する諸国を平定し、華北を統一するまでに成長する。
そうした安定を基盤として北魏の最盛期を現出させた皇帝が、隋唐の均田制や日本古代における班田収授制に影響を与えた均田制を実施した皇帝として史上著名な高祖孝文帝・拓跋宏(こう)である。

鮮卑族はモンゴル高原東南部から大興安嶺南部を本拠地として、1世紀末からしばしば長城を越えて中国北部に侵入した遊牧民集団。東胡の末裔といわれ、言語はモンゴル系であったという説が有力だが確証はない。2世紀後半中国の体制が弛緩し治安が悪化すると、そのような状況から逃れるため、逆に大勢の中国人が長城を越えて鮮卑族の領域に移住し、人口増加をもたらすとともに、経済的・文化的に大きな影響を与えた。

[注2] 羈縻政策:羈縻(きび)とは、羈が馬の手綱、縻が牛の鼻綱のこと。アメとムチの政策を使い分けながら、国力の消耗を極力抑え、国家の威信を発揚していく中国王朝の対外政策。
朝貢・互市貿易の特権:中国王朝に朝貢する周辺民族は、帰属と貢物を献上する見返りに、朝廷から官爵や献上物に数倍する回賜(賜物)をえた。また、自国の産品と中国の産品とを交易する権限も与えられた。この権限は首長層に大きな利益をもたらした。

# by satotak | 2009-02-07 12:41 | 女真・満州・内蒙古
2009年 01月 23日

満族 -創出される民族、想像される民族-

劉正愛著「民族生成の歴史人類学 -満洲・旗人・満族」(風響社 2006)(注1)より:


■ 集団の名称とアイデンティティ
満洲(注2)が正式にある人々の集団を指す言葉として用いられたのが1635年だとすれば、それ以降書かれた歴史(あるいは神話)に登場する「満洲」は、歴史を書いた時点から遡上して定立されたものである。それは「満族(注3)という語が1950年代以降正式に使用されたにもかかわらず、あたかも当初から存在しているかのように語られているのと同じである。

集団の名称は、名付けであろうと、名乗りであろうと、それが生まれた時点から、遡及的にそれにアイデンティティを求める運動が起きる。「満洲」と「満族」という語はそういった意味でも、人々のアイデンティティの形成においては特に重要な意味を持つものであるといえよう。しかし、清朝政府がその「満洲の道」を推進するに当たって、八旗満洲や八旗漢軍を問わず、旗人を一つのカテゴリーとしてみてはいたものの、「満洲」という言葉は決して八旗漢軍や八旗蒙古を包括できる概念ではなかった。たとえば、八旗漢軍は「旗人」であっても「満洲人」「満人」ではなかった。

現代満族の間で「純粋な満族」とそうでない「満族」という議論があるのもそのためである。「旗人」はすべて「満族」と見なされるが、旗人の構成における多元的特徴のゆえに、満族はさらに二つのカテゴリーに分類される。つまり、八旗満洲は「純粋な満族」で、八旗漢軍は「純粋な満族」ではないという考え方が生まれるわけである。ただ、こうした議論は外部調査者あるいは行政への応対の時に表に出るものであって、日常生活ではほとんど意識されない問題である。…

一方、「民人」というカテゴリーも考察の対象にしなければならない。なぜなら、東北地方ではこれら「民人」――旗人ではない漢人の後裔たち――も今日では満族の一員になっているケースが数多く確認されているからである。…

東北地方のいくつかの事例と福建省の二つの事例を比較してみれば分かるように、今日満族と呼ばれる人々はその歴史的・社会的背景が異なるがゆえに、アイデンティティの表出も異なっている。
村人の話を借りれば、肇家村(注4)では、80年代、特に84年の上夾河満族郷成立以前は「誰も満族という言葉を口にしなかった」。「満族」という言葉が頻繁に登場するのはそれ以降のことである。肇家村では…周囲との明確な境界もなければ、他者を強く意識することもない。なぜなら、彼らは自ら満族であると強調しなくても、事実として満族であり続けてきたため、自らを差異化する必要に迫られていない。つまり、彼らの日常生活における生活実践は「無意識の生活様式」である。

それに対して、福建省の満族、特に琴江(注5)の満族は、長年地元の福建漢人とは異なった社会的環境(物理的にも精神的にも)に置かれたため、自らを差異化しないと「満族」としてのステータスを確保できない。血縁的に漢人に結びつけられるような「漢軍旗人」という立場は時として彼らを困らせる。彼らは数百年間旗人として生活しており、「旗人」=「満族」という図式が成り立つならば、彼らは文句なしの「満族」である。しかし、行政側を含む周囲の人々は彼らが「漢軍」ということでそれを否定する傾向にある。民族籍を満族に変更し、満族村が成立されて20数年以上たった今でも、彼らの「満族」としてのステータスは常に「漢軍」であるがゆえに不安定なままである。「満族」であることを証明するためには、周囲の漢人とは異なる旗人たる身分を証明しなければならず、それは同時に国のために献身的に戦った功績の証明にも繋がる。そして、何よりも重要なのは、文化的差異を強調する必要がある。それはたとえどんな小さな差異でも、彼らにとっては大きな意味を有する。…

彼らが積極的に「満族」として名乗り出る背景にはもうひとつ重要な要素がはたらいている。それは単に少数民族としての優遇政策を享受しようとするだけではない。宗族組織が発達している「城外」の福建漢人社会に囲まれた社会的環境において、個と個の繋がりの薄い彼らにとって、「満族」は共同体の結束力を高める重要なカテゴリーでもあるからである。その意味において、彼らのアイデンティティには強い政治性があるといえよう。

しかし、一方では、民族政策の実施に伴う厚生的利益享受のための民族籍変更が見られており、同じ満族でも決して一枚岩的ではない。
…1985年満族自治県の成立をきっかけに新賓の満族人口は1982年の33%から1985年の63%に急増した。これは少数民族人口が半数以上占めることが自治県成立の条件の一つとされたため、県政府や郷鎮政府の動員によって多くの人が満族籍に変更したことに起因する。満族として新たに登録したのは、①八旗満洲後裔(辛亥革命以降に漢族に変えた者)、②八旗漢軍の後裔(元漢族と申告した者や満族と申告したが辛亥革命以降に漢族に変えた者)、③民人の後裔などであるが、変更の原因については少数民族の優遇政策のためだと答える人がほとんどである。

現在、中国において、少数民族とは厚生の対象となる籍としての性質をもっており、少数民族になることは様々な優遇政策を享受できることを意味する。ここで、アイデンティティの実利的側面を窺うことができる。もちろん、これは自治県という特殊な行政地域においてのみ顕著に現れることであり、すべての少数民族の民族意識が実利的であるとは言っていない。事実上、利益などかまわず、満族としての強いアイデンティティを持っている人は多数存在しており、また、利益があっても「民族を裏切る行為」をしたくないため、頑なに民族籍を変えない漢族もいるわけで、アイデンティティを一枚岩的にとらえては決してならないのである。

■ 創出される民族、想像される民族
筆者は肇家村を含め新賓満族自治県の五村及び… (調査対象は満族が大半を占める)などで個別のインタビューを通して意識調査を行ったが、満族の特色を表すものはなにかという質問に対して、「漢族と大して変わりない」との回答は90%以上であった。しかし、この語りは「満族は自らの文化を持っていない」という意味ではなく、逆に「漢族はわれわれ満族と変わりない」という意味でとらえることもできる。この場合、「漢化」と「満化」の図式は同時に成立できる。
標準中国語の基礎になっている北京語は、清代の旗人語に由来するといわれるように、現代中国語に対する満族の影響は無視できない。中国の伝統服といわれるチャイナドレスも実は旗人の服装「旗袍」の改訂版であり、食生活においても、東北、北京地方では満族の伝統的メニューといわれるものがまだ生きている。だが、これらは満族の独立した文化体系としてではなく、むしろ支配王朝における満漢文化の相互受容によって新たに生み出された旗人文化あるいは地域文化として存続してきたのかもしれない。...

東北の地域文化として表象されてきたこれらの文化的諸要素は、満族の伝統文化として新たに意味付けられ、アイデンティティ構築のための文化的距離は明確な形で確立された。これらの「選び取られた」文化要素がエスニック・マーカーとして再びクローズアップされたとき、それは、文化要素の原初性から用具性への転換を意味し、ある種の政治性を帯びるようになる。

八旗満洲、八旗漢軍、八旗蒙古を網羅する「旗人」は、初期においては様々な異質の文化を抱え込み、後期ではそれらの異質な文化要素が渾然たる一体をなし、新たに再構成された旗人文化を所有する「上位集団」となった。
この上位集団の中でも上は為政者から下は八旗兵士や庄園の農奴までの階級区分があった。しかし、辛亥革命とともに清王朝の統治に終止符が打たれ、中国が王朝政権から国民国家に移行したとき、「旗人」は、今度はそれを陵駕する政治的権力国家の中に内包される下位集団少数民族としての満族へと反転していった。このとき、かつての階級的区分は消し去られ、かつて存在した満洲・漢軍・蒙古などの区分もなくなり、「旗人」はそのまま想像された均質的な文化や共通の起源に基づく「満族」として生まれ変わる。

現在「中国人」と呼ばれる人々が国民国家の成立と共に形成された一つの「多元一体」的な民族範疇(中華民族)であるとすれば、かつての「旗族」という語に示されるとおり、「旗人」もまた当時においては「民人」を排除した、狭い範囲とはいえ一つの「多元一体」(満、漢、蒙、朝ほか)的なカテゴリーであったといえよう。

支配的な「漢化」という言説の中で、80年代の半ばから満族は今日を待っていたかのように人々の前に現れ、自らの存在を強く主張し始めた。共通言語の不在や文化的特徴の欠如のために、「帰属意識」のみが強調されてきた満族は、近年様々な歴史的記憶を想起し、「歴史文化の再構成」活動が政府主導の観光の場で行われ、かつて曖昧であったイメージの明確化を図っている。ヘトアラ城(注6)に代表されるように、そこに動員されるファクターはヌルハチにまつわる清前史、ヌルハチ家の生活様式など一連の王朝系譜的なものであり、「満族文化」=「清朝文化」という図式が成り立っている。ここで、歴史と文化は経済利益を獲得する商品として開発され、歴史や文化の真正性を問う研究者らとの思惑の違いも見られている。しかし、本物であろうと、まがいものであろうと、すでにそれらは確実に満族文化の一部になっている。...

民族は流動的で多変的な現象であり、民族という概念は常に変化のプロセスの中で捉えなければならないということは今日人類学においては常識である。しかし、多くの場合、民族は自明の概念のごとく語られているため、あたかも実体として存在するかのような錯覚を人々に与える。言語、文化、宗教、慣習などの定義要素は他者規定による客観的基準であることが多い。しかし、自らの言語を持たず、宗教・生活慣習などを共有しない場合でも、自分たちは「○○族」だと認識することはよくあることである。
このような共属意識が行政という制度に対応する必要が生じた場合、上記の他者規定による客観的定義要素は自己規定による主観的定義要素に転じ、主観的認識を裏付ける「証拠」として逆利用される場合がある。これは例えば、言語の再習得や「伝統文化の回復」など客観的に定義し得る方向へ向かう姿勢によく表れている。したがって、客観的定義要素と主観的定義要素は決して無関係のものではなく、むしろ互いに補完し合うものであり、定義される主体側が自らの状況に応じて巧みに操作していくものである。ここで主導的役割を果たすのは主体内部の権力者やエリートなどの「活動家(エージェント)」である。

中国の民族を論じる際のもう一つの重要な側面は、戸籍制度民族政策の関係である。1949年以降、中国では民族政策を戸籍制度に反映させるために、戸籍に「民族成分」という欄が設けられた。個々人にとって、「民族成分」は簡単に変更できず、民族籍は避けられない問題である。両親の民族籍が異なる場合、子供はそのどちらかを選択することができる。50年代から行われた国家主導の民族識別作業は、多くの人の民族籍を行政的に確定した。こうした制度的な他者による定義は個々人のアイデンティティを一層複雑なものにした。人々は生まれたその瞬間から、制度的にあるレッテルを貼られてしまい、その後、自分の意識がどうであれ、通常一生○○族として生きていかなければならない。

一方、戸籍上の民族籍の欄は逆に彼らのアイデンティティを規定する要因になったのも事実である。つまり、「○○族」というレッテルは漢族と少数民族を差異化する。その結果、少数民族側に差別される意識を与える一方、彼らの民族意識の高揚をもたらし、少数民族優遇政策に対応した利益獲得のための実利的帰属意識をもたらすことにもなった。つまり、中国において、「民族」は学術用語であるというよりはむしろ国民や住民を分類して統治するための行政的な装置の中で生まれた行政的範疇であり、国家によって作られた行政的範疇はそれに属される人々の「共属意識」を醸成し、それは「作為的・政治的」と「自生的・文化的」という二つの力の拮抗と相互作用によって維持されている。

佐々木[史郎]は民族帰属意識の形成過程について二つのケースを提示している。一つはカリスマ性を持った少数の指導者が政治力と軍事力を持って人々を結集して、それを民族に類する集団に仕立て、国家建設の原動力とするケースで、もう一つは国家の中枢を担う有力な人々によって区分され、枠組を与えられた行政的な「民族」が時とともにそれに属する人々の意識の中に定着して、帰属意識が共有されるようになり、人類学的に民族と見なせる集団になってしまうケースである。そして、満洲(満族)は前者の典型的な例だとしている。しかし、今日の満族はむしろ両方の性質を帯びているといえるかもしれない。つまり、清朝時代の「旗人」はヌルハチがその政治力と軍事力を持って結集した人々の集団であり、中華人民共和国成立後の「満族」は国家主導による行政的な「民族」である。しかしながら、「満族」は与えられた枠組の中で「満族」としての帰属意識を持つようになったのは確かだが、同時に「満族」という枠組を乗り越えて自らを清王朝に結びつけ、「旗人」としての社会的・歴史的記憶を依然保持し続けており、「満族」としてのアイデンティティを裏付けるものとして、その「輝かしき征服の歴史」を文化として打ち出している。

上述の通り、満族が今日、「満族」と呼ばれるようになったのは、様々な歴史的、政治的経緯があった。「旗人」という歴史的、政治的カテゴリーが「原初的体験」として満族の定義における客観的、主観的根拠になっているとすれば、中国における「民族成分」という制度は、制度への帰属意識を醸成する装置であり、「均質的で固定的な帰属意識を持たせ」るアイデンティティの新たな根拠として機能しているといえよう。

1949年まで、満族は自称、他称とも「旗人」「満人」「満洲人」などと呼ばれていたが、1949年以降、「満族」という呼称が正式に行政的名称として使用されたとき、満族は実体のあるものとして、あたかも最初から存在していたかのように語られ、自明の実体のある概念として人々の脳裏に植え付けられた。そしていまも満族自身を含め誰も「満族」という実体を疑うものはいない。
民族は「上から作られ」てきたというのは、ある程度の妥当性を持つかもしれないが、作られる側の主体性を剥奪してしまう危険性も常にあることを忘れてはいけない。その主体性を確立させるためには、もう一つの側面を視野に入れなければならない。つまり、それは「作られる」ことへの少数民族側の積極的な呼応の側面であり、国家によって「創出」された「民族」への少数民族側の「想像」の側面である。それらの一方だけを強調せず、二つあるいはそれ以上の力学を視野に入れてはじめて、中国における少数民族の本質を理解することができるのである。

この視点を受け入れたとき、われわれは、民族は近代に創られたものなのだから、民族そのものが存在するのではなく、民族は幻想でありウソなのだとする理論に疑問を投げかけるであろう。渡邊欣雄は沖縄文化を論じる際に、「仮構」という概念を利用し、絶えず生成し、創造される「沖縄文化」を積極的に肯定しようとした。「仮構」とはもともとなかったものが、あるものとして構築されることであり、真正なものかまがい物かを問わず、あるがままの現実を積極的に肯定しようとする姿勢を反映している。それに対して、「虚構」という概念はあるがままの現実を主観的に否定し、その現実を生きている人々の主体性を奪う危険性を常に孕んでいる。
「仮構」という概念は「民族」にも適用できるものである。民族は現に創られており、それに向かって振舞おうとする人びとにとって、「イメージ」や「目標」、「……らしさ」の民族は明らかにいま存在している。かれらのイメージや目標は、もはや民族を創った政策から離れ、民族の担い手のものになっている。かれらにとって民族は虚構、つまりはウソなのではなく、仮構、つまりは仮=前提として構築すべき対象になっている。民族の担い手たちにとって、民族はいかなる意味でもウソ=虚構ではない。

「ある特定の集合的アイデンティティの形態を無条件に普遍化し実体化する」本質主義を、支配や不平等を隠蔽する政治的役割を担ってきたとして批判した構築主義の功績は評価される一面がある。しかし、本質主義を絶対視するあまり、現実社会における人々の日々の実践を見逃すと、現実離れの空論になってしまうという懸念も残される。

筆者からすれば、「構築」と「本質」は表裏一体のものである。前者は固定したものへの相対化を図ることによって、流動的で、未来に開かれた可能性を切り開き、後者は揺れ動く意味要素を認知可能なものとして固定する作用をもっている。この両者のいずれをも絶対視せず、それらを、相互作用のスペクトルで捉えることが、いま必要となっている。つまり、人類学やほかの社会科学において重要なのは、意味の解体だけでなく、解体された後、新たな意味が生成されるプロセスを視野に入れることであり、そのためには共時的かつ通時的な研究である歴史人類学的手法が有効となってくるだろう。

(注1) 著者 劉正愛:1965年中国遼寧省生まれの朝鮮族、東京都立大学博士課程終了(社会人類学博士)、2006年現在北京大学社会学人類学研究所ポストドクター。本書は彼女の博士論文をベースにしたもの。

(注2) 満洲:1635年にヌルハチの位を継いだホンタイジが、自らの集団を指す言葉として、ジュセン(諸申、女真、女直)をマンジュ(満洲)に改名したということについては、歴史学会の定説になっているようである。

(注3) 満族:清朝の根幹的存在であった「旗人」が「満族」として認定されたのは1950年のことであるとされるが、「満族」が少数民族であるかどうかという議論はその後も続いた。

(注4) 肇家村:肇家(ちょうけ)村は遼寧省新賓満族自治県に属し、県庁所在地の新賓鎮から61キロ、撫順市から60キロ離れた山地に位置する。2000年現在の総人口は1612人である。満族と登録しているものは約93%で、満族集居村、そして愛新覚羅の後裔の居住村として内外にその名を知られている(「肇家」の「肇」は愛新覚羅の漢字姓)。

(注5) 琴江村:琴江村は福建省東部を流れる閔江(びんこう)南岸の烏龍江、馬江、琴江の合流するところに位置する省内唯一の満族村である。総人口は2002年現在157世帯の395人、うち満族222人、漢族171人、苗族2人。1979年まで、琴江村は洋嶼村に所属する一つの自然村(当時は「生産大隊」と呼ばれた)であったが、満族村として独立した。
琴江村の前身である常磐里は雍正7年(1729)に作られた。朝廷が福州に駐屯していた漢軍八旗から513名の官兵とその家族を派遣し、三江口水師旗営を創建したのが、その始まりである。

(注6) へトアラ城の「復元」:新賓は、農業以外に特に目立った産業はなく、交通不便などの原因で経済発展が遅れているが、観光開発が経済発展の柱産業となった。「ヌルハチの生まれ故郷、清王朝の発祥の地」と称される新賓では、美しい自然景色と清前史を観光資源として打ち出した。2000年に新賓で行われた記者会見で、ある政府関係者は次のように述べている。
「わが県中部の永陵地区に位置する清王朝の祖陵-永陵と後金政権の第一都城-ヘトアラ城などの歴史名勝は、民族英雄ヌルハチが残してくれた世紀を跨る作品であり、新賓観光産業の最大のカードである。清前史跡という文章を完成し、満族というブランドを打ち出すために新賓は1.5億元を投資し、全国唯一の「中華満族風情園』を建設し、清永陵、覚爾察城、皇寺などの人文景観を修繕・開発した」。

# by satotak | 2009-01-23 20:59 | 女真・満州・内蒙古