テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2008年 08月 29日

中国新疆ウイグル自治区の行政区分 -民族区域自治のカタチ-


[拡大図]

■ 新疆ウイグル自治区
 □ アルタイ地区
 □ カラマイ市
 □ ボルタラ・モンゴル自治州
 □ 昌吉回族自治州
 □ イリ・カザフ自治州(直轄区域)
 □ ハミ/クムル地区
 □ バインゴリン・モンゴル自治州
[PR]

# by satotak | 2008-08-29 22:06 | 東トルキスタン
2008年 08月 02日

オイラト民族 -新モンゴル民族に対峙する部族連合体-

護雅夫・岡田英弘編「民族の世界史4 中央ユーラシアの世界」(山川出版社 1990)より(筆者:宮脇淳子):

モンゴルとオイラトの抗争
…この時代の前半はオイラトの勢力が元朝の後裔であるモンゴルにまさった。オイラトトゴンは1430年代に実権を握り、モンゴル人をも支配下にいれて北アジアの事実上の独裁者になった。トゴンの後をついだその子エセン太師(たいし)は、1452年にモンゴルのハーン、トクトア・ブハを殺し、翌年自ら大元天聖大ハーンの位に登った。この時代オイラトは東方では中国東北地方の女真人を服従させ、西方では東チャガタイ・ハーン国を制圧し、西トルキスタンにまで出兵した。また明の北境にも進攻し、1449年には明軍を土木堡で破って皇帝を捕虜にした。

このようにめざましい活躍をしたエセンであったがその治世は短く、即位の翌年1454年に部下の反乱で殺された。オイラト帝国はたちまち崩壊したが、この時期はモンゴル史のうえでは一大変革期であった。エセンはモンゴルのハーンを殺したあと元朝の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母とする者のみが助命されたという。真偽のほどは明らかではないが、エセンの時代にモンゴル社会は大混乱におちいり、文書や系譜の類も多く失われたことはまちがいない。なぜなら、モンゴル年代記にはこれ以前の時代について記すことが非常に少なく、現存の系譜はどの部族でもすべてエセンの同時代人が実際上の始祖になっているからである。

エセン・ハーンが殺された後、オイラトはモンゴルに対する影響力を失って、本拠地である漠北のモンゴル高原中部から西北方に後退した。混乱のなかにあったモンゴル各部を統一したのは、チンギス・ハーンの子孫で、かつエセン・ハーンの娘が生んだボルフ・ジノンの子バト・モンケ・ダヤン・ハーンであった。ダヤンというのは「大元」のモンゴル訛りで、これはつまり大元皇帝という意味の称号である。後世内外モンゴルにおいてチンギス・ハーンの後裔と称した人びとは、その全員がこのダヤン・ハーンの子孫である。ダヤン・ハーンが混乱の時代を生き延びた唯一人のチンギス・ハーンの子孫であったわけだが、彼が何家の出身なのかは明らかではない。それどころかその生没年にかんしても史料の異同が激しく.わが国において1960年代から東京と京都に別れてダヤン・ハーン論争がおこったくらいである。

それほど明らかでない人物であるが、ダヤン・ハーンこそ今日のモンゴル民族の中興の祖である。ダヤン・ハーンは15世紀末に即位し、その後38年にわたる治世中にモンゴル各部を再統一してこれを左右翼3万戸(トメン)ずつに再編成した。このときに編成されたモンゴル各部はそれぞれダヤン・ハーンの子孫を首長に戴き、相続による細分化やハーン位継承をめぐる同族争いはあったが、モンゴル民族としてのまとまりは17世紀清朝に服属するまで続いた。清朝治下においても、牧地の境界は厳しく設置されたが、ダヤン・ハーンの数多くの末裔はこれまでどおり支配階級としての地位を安堵され、清朝官僚としての特権を享受した。

ダヤン・ハーンの孫で右翼万戸の一つトメト部の長であったアルタンは、嫡流ではなかったが実力でハーン位を獲得し、明に侵攻する一方で旧敵のオイラトをおおいに攻撃した。これが16世紀中葉のことで、これ以後モンゴルは何度もオイラトを討ち、16世紀末にはモンゴル高原からオイラト各部を追いだしてしまった。現在のモンゴル人民共和国中央部に新たなモンゴル民族が住むようになったのは、この時代からである。…

オイラト民族
以上のモンゴル民族に対して、彼らから異族(ハリ)と呼ばれ、また各種のモンゴル年代記において「四十(ドチン)モンゴルと四(ドルベン)オイラト」と対比されるオイラト民族は、モンゴルとどこが違うのか、その起源は何かをつぎにみてみたい。

オイラトという名の部族が歴史に登場するのは、…13世紀初めのことである。ラシード『集史』によると、当時オイラトはイェニセイ川上流のケム川を構成する八河地方に住み、数部族に分かれていたという。オイラト王クトカ・ベキは1208年チンギス・ハーンに降り、そのナイマンとメルキト征討を助けたので所領を安堵されて、四千戸の将としてチンギス・ハーンに臣事した。オイラト王家はその後チンギス・ハーンの子孫のジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家すべてと婚姻関係を結んだ。これはその住地が、それぞれの領土の接点に位置するという戦略上の要衝だったからである。モンゴル帝国分裂の機縁となった1260-64年のフビライとアリク・ブガの抗争のさいに、オイラトはアリク・ブガの側に立ってフビライ軍と戦った。戦争の運命を決した1261年のシムルタイ湖の戦で、フビライ軍に粉砕されたアリク・ブガ軍は多数のオイラト兵から成っていたという。オイラトのその後の動向は明らかではなく、『元史』にわずかに残された記録では、ハイドの乱の最中にオイラト兵がやはり元軍と戦ったことが知られるだけである。彼らの住地は元の都から遙かに遠く、その威光はおよばなかったと想像されるのである。

元朝が滅びると、オイラトはモンゴル高原に退却したフビライ家のハーンを殺し、アリク・ブガ家のイェスデルをハーンに擁立した。しかし、モンゴル年代記によるとその後まもなくモンゴルとオイラトの対立が起こり、モンゴルのハーンはオイラトに暗殺されたという。このころの1403年の明の記録によると、オイラトには馬哈木(マハムード)、太平(タイピン)、把禿孛羅(バト・ボロト)の三人の首領がいた。その後マハムードの子トゴンがオイラトを統一する。つまり、元朝が滅びた後新たに登場したオイラトは、かつてのオイラト部族に他部族をくわえた連合体に変わっていたのである。

この新たなオイラト連合体を構成した諸集団にかんしては、彼ら自身の手になるオイラト年代記やその他の史料によっておおよその出自が解明できる。オイラトにおける年代記の成立は、…モンゴル年代記にくらべて一世紀近く新しくなるが、これはオイラト社会が異民族の圧迫を受け、その支配下で変貌をとげる時期がモンゴルにくらべて一世紀遅れたからに他ならない。オイラト民族の最後の独立政権ジューン・ガルが清朝に滅されたのは1757年のことで、オイラト諸部のなかで最も西方に住地をひろげたトルグート部を中心とするヴォルガ・カルムィクがロシア政府の統制下に組みこまれていったのも18世紀中葉であった。

カルムィクの語源はトルコ語のカルマックで、15世紀に彼らの侵略を受けた中央アジアの人びとがオイラトをさしてこう呼んだのがはじまりである。意味は明らかではない。その後ロシア人がこの名称を使用してひろまったが、彼らの自称はオイラトである。

オイラト民族の一部であるヴォルガ・カルムィクは、18世紀中葉から急速に進みはじめたロシア人農民の遊牧地への入植によって圧迫を受け、その過半数は、清朝のジューン・ガル遠征によってほとんど無人の地と化した故郷のイリ河畔に帰還した。1771年のことである。このとぎヴォルガ河畔に残ったオイラト民族の子孫が、今のソ連邦カルムィク自治共和国に住む人びとであるが、現在われわれが利用できるオイラト年代記はここに伝えられたものである。

代表的なオイラトの年代記は二つあり、両方とも『四オイラト史』という題である。一つはトルグート部のエムチ・ガワンシャラブが1737年に書いたもので、もう一つはホシュート部のバートル・ウバシ・トメンが1819年に書いたものである。これらと、その他1776年出版のパラス『モンゴル民族史料集』や『蒙古源流』などのモンゴル年代記によって、四オイラト連合体の起源をつぎのように明らかにすることができた。…

16-7世紀に、同時代史料であるモンゴル年代記やロシア古文書に登場するオイラト民族は、少なくとも8集団によって構成されていたのであるが、彼らは自身を四(ドルベン)オイラトと称した。この四という数字には実は根拠があり、それはモンゴル帝国時代にさかのぼるのである。オイラト諸集団はつぎのように分類できる。


[拡大図]

(1) 旧オイラト系ホイトバートト
モンゴル年代記に「ホイトの首領たちはイナルチ・トロルチの後裔である」とある。これはオイラト王クトカ・ベキの二人の息子の名である。また、バートトはその勇猛を中国人が称えてホイトにあたえた尊称であるとパラスがいう。

(2) バルグト系バルグブリヤート
…バルグトはバイカル湖の東西にいた部族の総称で、バルグはその一部でもあった。この地方が現在ブリヤートと呼ばれるところである。

(3) ナイマン系ドルベトジューン・ガル
オイラト年代記に「ドルベトとジューン・ガルの一族は天から出た。管(チョルゴ)状の樹の下に幼児がおり、その樹液を吸って育ったのでその子孫をチョロースという」とある。この始祖説話は天山ウイグル王国のものと酷似している。ウイグル帝国の分支はいくつかあるが、住地から考慮してアルタイ山脈の東西にひろがっていたナイマンがドルベトとジューン・ガルの前身であろう。ドルベトとジューン・ガルの首長たちは、系譜によるとトゴン、エセン父子の後裔である。

(4) ケレイト系トルグート
オイラト、モンゴル年代記ともに、トルグートはケレイトのオン・ハーンの後裔であると記す。

以上の、モンゴル高原西北部を住地とした四大部族、オイラト、バルグト、ナイマン、ケレイトが、元朝崩壊後その遺民であるモンゴルに対抗して連合したのが新たなオイラト民族の起源で、このゆえに四オイラトと称したのである。

実はオイラト民族にはこの他にホシュート部がふくまれる。オイラト年代記の系譜によると、その首領の家系はチンギス・ハーンの同母弟ハサルを始祖とする。ただし、本家である当のモンゴルのホルチン部の系譜には、これについて何の記述もない。ホシュート部の王族の姓はオジエトであるから、彼らは実際は前述のモンゴル民族の構成集団…で述べた三衛系の分かれであろう。つまりホシュートはモンゴルの出身なのであるが、トゴンとエセンがモンゴル高原を支配した時代にオイラトの傘下に入り、その後もオイラトに残留したのである。
[PR]

# by satotak | 2008-08-02 12:55 | モンゴル
2008年 08月 01日

オイラトとモンゴル

「オイラト族はオイラト族である。みなさんモンゴルの一部と誤解しないようにご注意して頂きたいです。」
(「最後の遊牧帝国 ジューンガル」(200.12.10)へのコメントより)

「オイラト族は自分の文化、習慣などをもっている一つ民族です。
モンゴルの一部ではないしモンゴル系でもないです、ということを伝えたいです。正確なことを日本のみなさんに。
…オイラトについての誤解される情報が結構流れているからです。」

(「オイラト人の留学生」氏からのメール(2007.7.31)より)


「オイラト」に対するアイデンティティあるいはこだわりが、現在もこのようにあるとは知らなかった。
私自身は、「ジュンガル」、「トルグート」あるいは「ホシュート」といった部(民)族には直接的な関心を持っていたが、「オイラト」はそれらの歴史的総称ぐらいの認識しかなく、現在に生きている名称とは思っていなかった。。


中央ユーラシアを知る事典」(2005 平凡社)を見ても、「オイラト」という独立した項目はなく、「カルマク」、「ジュンガル」、「モンゴル」などの項目の中で言及されているだけである。
これらの中で、オイラトはどのように述べられているか…

モンゴル
…元朝が崩壊し、モンゴル高原に戻った集団、いわゆる北元を明朝が〈蒙古〉と呼ばず〈韃靼(だったん)〉(タタル)と呼んだのは、元朝の後継として了解されるような〈蒙古〉を用いるわけにはいかなかったからである。…統一以後のモンゴル族が自身の民族名としてタタルを用いることはなく、他称である。
一方、アルタイ西部に割拠したモンゴル系諸集団は〈オイラト(オイロト)〉と総称された。元朝の後裔であるモンゴル(=韃靼)と、そうでないオイラトとの間の対立は強く、その後のモンゴル史を決定づけ、今日でも民族内対立は潜在している。…

ジュンガル
17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族の部族連合。オイラト遊牧民は14世紀の半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれたが、…

カルマク
中央アジアのテュルク諸語において、モンゴル系のオイラトをさす言葉。オイラトは、中央ユーラシアにおいて大きな勢力を持った遊牧集団の一つで、15~18世紀にかけて中央アジア各地を幾度にもわたって攻撃し、その住民に甚大な被害を与えたり、部族の構成や分布に大きな変化をもたらしたりした。…


ウィキペディアによれば

オイラト
オイラト(Oirad, Oyirad)は、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。
オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。しかし、本来はオイラト族である。ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
[PR]

# by satotak | 2008-08-01 21:11 | モンゴル
2008年 07月 30日

清朝治下ジュンガリアのカザフ -アブライ以後-

Linda Benson、Ingvar Svanberg著「China's Last Nomads: The History and Culture of China's Kazaks(中国の最後の遊牧民:中国カザフの歴史と文化)」(M.E. Sharpe 1998)より:

…アブライが1781年に70歳で死んだ時、カザフの独立の時代は終わろうとしていた。彼の後継者達は彼と同じ権力や威信を享受できず、中国とロシアの両国はカザフからそれぞれの支持者を引き抜き続けた結果、カザフは分裂し、中央アジアの領域で両国の支配力が強化された。例えばナイマンは彼ら自身のハーン、アブル・ガジーを選出したが、彼は中国の支持のもとに統治した。中ジュズの部族のより重要な分裂が、アブライの後継者であるワリーが自分の息子を1794年から95年に中国に派遣した時に起った。これはステップに対するロシアの影響に対抗するために、中国にカザフの臣従を示すものであった。不幸にもこの動きに対し、一族の一部はロシアに保護を求めた。これによって彼の勢力は弱められ、ワリーは最終的には中国の領域に保護を求め、1806年に清の領域に移動した。ロシアは彼の後継者にブケイ・ハーンを任命した。1817年ワリーが死に、続いて1818年にブケイ・ハーンも死んだ。

このような変化も、ロシアとアブライの後継者との関係を改善することはなかった。彼の息子サルジャンはステップに対するロシア勢力の拡張に積極的に対抗した。サルジャンが1836年に死ぬと、彼の兄弟ケネサル・カスムが武力による敵対を引継いだ。1838年にケネサルはハーン位の復活を要求した。彼は約20,000人を率いて攻め、ロシアの交易を8百万ルーブル程度にまで崩壊させた。ケネサルは多くの面でアブライの立派な後継者であった。彼はカザフの法律を整備し、裁判官を任命し、彼の領土を旅する隊商に課税した。しかし彼が大きな犠牲を払ってもたらしたロシアの交易の崩壊は、大規模なロシアの反撃を招き、その結果としてケネサルは1844年に恩赦を受入れざるを得なかった。彼と彼の追随者はその後キルギズに加わり、コーカンド・ハーン国から独立しようとする彼らの企てを援助した。彼は1847年戦闘の中で死んだ。

中国の領域内では、18-19世紀の短い期間カザフのハーンや王公が個々に清の臣下になり、当局に要求されるままに貢物を納めた。カザフはまたジュンガリアと西部ステップの間を行き来し、イリや東トルキスタン-清のいわゆる西域の他の中心地で清と交易をした。中国とロシア帝国間の正確な国境は不明確なままであったが、両国はついに1864年10月7日にタルバガタイ協定に同意した。この協定に基づき、国境が確定し、イリ総督の管轄下にある清の領域内に居住するカザフは今や清の臣下となった。

清の西部領域は北京の支配者からははるか遠くに離れており、しかもこの領域を維持するために清は膨大な出費を余儀なくされていたにもかかわらず、反逆によってこの領域が清支配から離脱されそうになると、清朝は北西部における自らの地位を保つために必要ならばいくらでも資金-そして人命をつぎ込むことを決意した。かくして「異教徒」である中国の手からカシュガルを解放し、イスラム教徒にイスラムの支配をもたらすべく、1864年にカシュガルに到着したコーカンドのヤクブ・ベグの反乱に対して、清は長征を開始し、1877年にヤクブ・ベクが死に、清の支配が再建された。そして清朝はこの全領域を帝国の一行政単位にすることを決意し、1884年にそこが新疆省であると宣言した。

ヤクブ・ベグの反乱の間に、以前からこの地域での機会を窺っていたロシアが、そこで働いている自国民の保護を表向きの理由にして、イリ川渓谷全体を占領した。清の当時の外交は全般に拙劣なものであったが、清はイリ渓谷からロシアを撤退させ、この土地に対する彼らの権利を再び主張することに成功した。

19世紀の終りになる頃、中国とロシアの両国が非常に長くなったお互いの国境の安定を維持する事に関心を持ったことは明らかである。しかしこの時期を通して、ロシア側のカザフ人は東トルキスタンに侵入し続けた。例えば1878年に9,000人を下回らないカザフ人がロシアの領域を去り中国に向かった。彼らの多くははるか奇台(チータイ)の町まで行こうと試みた。ロシアの探検家プルジェヴァリスキーが、カザフ人の群衆がジュンガル沙漠を移動する間に渇きに屈服して残した多くの腐敗した死骸を見ている。

カザフ人をこのような危険な企てに駆り立てたのには様々な理由がある。1861年にロシアで農奴制度が廃止された後で、ロシアの農民は東方に移動し、中央ユーラシアに定住し、耕作を始めた。500の村が19世紀の末までにステップに設けられたが、これは、それまで主にカザフ人の遊牧地であった土地に新しく永住した者に資金を与えるという1895年の帝国政府指令に後押しされたものだった。カザフ平原におけるロシア人とウクライナ人の増加が東トルキスタンへのカザフ人の絶え間ない移住の重要な要因であった。

しかしロシア人の入植と定住がカザフ人の中国領域への移動の唯一の原因ではなかった。政治的な動揺と中国の領土に対するロシアの要求もまたカザフ人を国境に直に接している地域から押し出した。ロシアと中国間の第二次タルバガタイ条約が調印された1883年に、カザフ人が東ジュンガリアのバルコル地域に移動し始めた。最初のグループである90家族ほどが、中露間の国境にあるアルタイとタルバガタイ山脈の牧地の先行き不安に見切りを付け、バルコルの比較的安全な土地に向かった。彼らに続いて、1895年に別の200のカザフ人家族がアルタイを離れた。

20世紀の初めに、中国内のカザフは主に新設された新疆省の北西端地域に集中していた。彼らは満州政府が定めた階級体系に基づいて統治されたが、この階級の一つがロシアに隣接する各地域に責任を持つアンバンであった。このような官吏が清の権威の下に支配したが、カザフの領域の統制はなお伝統的なカザフ人エリートの手中にあった。しかし彼らの称号は北京にいる満州人支配者によって承認されるようになった。満州人は重要な指導者に対して、ハーンという称号ではなく、ワン(王子)という称号を与えた。また彼らは一般的なものとしてタイジ(族長)という称号を授与した。タイジの下にはミンバシ(千戸長)、その下にジュズバシ(百戸長)があった。このような称号や10家族単位の考え方は、中国で村落レベルの支配のために補助的な行政組織として長い間用いられていた保甲制(Bao-jia)のシステムと同様のものである。その目的とするところは、遊牧民の集団を管理可能な単位に分割し、政治的な力を別々の同族グループに分散させることであった。それ故にタイジは部族の指導者と清の官吏という二重の役割を持っていた。この結果は、様々な同族グループに広範囲な自治を与える比較的安定した行政システムとなり、しかもそれは清にとっても好都合なものだった。

他の伝統的な称号も使われ続けた。例えば、バツール:戦場でのみ得られる世襲されない称号、トレ:高貴の生まれであり、アブライのようなカザフの偉大なハーンの家系に属す者、またハーキム(裁判官)、ホージャ(教師)、イマーム(宗教上の教師)、ムッラ-(宗教上の指導者)のようなイスラムの称号も使われた。清朝から授与された称号はそれを受け者たちに大いなる権威を与えた。1911年の革命によって満州人によってもたらされた称号と褒賞のシステムは突然に消滅したが、1949年までこれらの称号を使い続けた一族もあった。

19世紀末に至るまで、清王朝は中国の帝政期を終らせることになる多くの挑戦に悩まされ続けた。満州人は1644年に継承した領土を二倍以上に拡大し、帝国内の人口は150万人からほぼ400万人に増加した。防衛し統治しなければならない領土の拡大と膨大な人口増加が体制崩壊の原因となった。中国社会にとって1912年の共和革命は大変重要なものであったが、しかし遠く離れた北西部の統治は過去の中国の慣行に深く依拠したままであった。…
[PR]

# by satotak | 2008-07-30 22:05 | テュルク
2008年 07月 14日

18-19世紀のカザフ草原と露清関係

宇山智彦編「講座 スラブ・ユーラシア学 第2巻 地域認識論――多民族空間の構造と表象」(講談社 2008)より(筆者:野田仁):

はじめに
モンゴル帝国の一部としてキプチャク草原を中心に展開したジョチ・ウルスは、いくつかの後継政権に分かれたが、その一つに15世紀後半に「成立」したカザフ・ハン(ハーン)国がある。チンギス・カンの後裔を戴くこの遊牧政権下の集団は、現代カザフ民族の祖となり、キプチャク草原の東半はカザフ草原と呼ばれるようになった。

カザフ・ハン国は、17世紀後半から1740年代にかけてジュンガル(オイラト)の侵略に苦しんだ。18世紀までには三つの「ジュズ」と呼ばれる部族連合体が成立し、複数のハンが並び立つようになっていた。西部の小ジュズは、ジュンガルのほか、トルグートやバシキールに囲まれており、その苦境を解決するためにロシアに使者を送って保護を求めたのは1730年のことである。のちに、ジュンガルの政権が崩壊し、東方の中国(清朝)と接するようになると、清朝に対して朝貢を行う者もいた。こうして、両国の影響を受けながらも独自の政権を保持していたカザフ人であったが、19世紀になるとロシアの影響力は強まり、最終的にカザフの多くはロシア帝国に併合された。ただし、一部は清朝領内にとどまり、いまなお中国新疆ウイグル自治区の主要民族の一つとなっている。このような分断の状況は、まさにロシア帝国と清朝という二大帝国のはざまにあって、両者との関係に翻弄された結果であるともいえる。

翻って研究史上では、カザフとロシアの関係をあつかう論著は数多くあるが、露清関係をも視野に入れながらカザフと清朝のかかわりを検討するものは稀であった。…
独立後のカザフスタンにおいては、より自立したカザフの動向を描こうとする傾向が強くなった。最新の『カザフスタン史』は、カザフと清朝との関係を、遊牧地の獲得と貿易の問題の二点に集約している。近年では、19世紀に貿易によって露清両国を結んだカザフの役割に着目する研究が目立つが、…

[拡大図]

■大清帝国の「藩属」として
清朝への帰順
1757(乾隆22)年、清朝のジュンガル追討の軍勢には抗しがたく、中ジュズのアブライら、さらに翌年には大ジュズのアビリス・ハンらが使者を送り、降伏状を差し出した。これにより、カザフと清朝との公式な関係がはじまった。トド文字オイラト語によるアブライの降伏状には、…ロシアヘの宣誓におけるようなイスラームに関連する要素を見出すことはできない。降伏状の内容を伝える上奏文(満洲語)によれば、アブライは「我が子弟、カザフのすべてとともに、あなた様の臣(albatu)となりました」と述べ、清朝が考える君臣関係に沿う文言となっていた。乾隆帝はアブライの使者を謁見し、この降伏を受け容れて爵位を与える旨を伝え、両者の関係が開始されたのである。

片岡一忠によれば、清の支配体制は、「ハーン-宗室・八旗-外藩王公」というハーン体制と「皇帝-中央-地方-朝貢国」の中華王朝体制の二層構造として理解できる。この中で外藩とは、本来、朝覲(ちょうきん、正月の皇帝への拝謁)を義務づけられ、代わりに爵位などの恩典を受けたモンゴル王公やハミ・トゥルファン王を意味していた。佐口透が整理したように、カザフのハン一族も子弟を朝貢使節として定期的に派遣し、草原の支配者として承徳に在る清朝皇帝に拝謁し、爵位を授けられた。具体的には、カザフのハン位に擬した「汗(han)」をはじめとして、王(wang)、公(gong)、台吉(taiji)の各位があった。カザフにとってのこれらの爵位の意味は、清朝による権威づけにあり、また爵位を受けたスルタンを中心にして、新疆において貿易を行う権利を得ていたのである。このことから、カザフをモンゴルや新疆の王公に次ぐ「外藩の外縁」とみなすものだったという見方もあるが、いずれにしてもカザフが、外藩の周縁に位置し、清朝の意図する国際秩序に緩やかに組み込まれた「藩属」として朝貢をゆるされ、文字通り清朝の「藩屏(はんぺい)」として緩衝的な役割を担わされたことは聞違いない。

それでも、コーカンドやクルグズなど他の勢力と同様に、カザフの清朝に対する臣従も名目的なものに過ぎなかったことも明らかであった。それゆえに、アブライとその子ワリーの時代のカザフは、露清両国への「二方面外交」を行うことができたのである。

カザフの管理
ジュンガル滅亡後、その旧領を自らの故地とみなしていたカザフは、タルバガタイ・イリ周辺の清朝領へも侵入を繰り返した。これに対して清はカルン(卡倫)と呼ばれる哨所を設け、各カルンを結んだ線はロシアのシベリア要塞線のごとく、異民族の牧地との境界となっていた。清が想定する自領の境界はカルン線の外側にあったため、「国境線」とカルン線の間の土地について、毎年秋に部隊を派遣し、「巡辺」(巡査辺界)と呼ばれる哨戒を行っていた。ただし、冬季のみはカザフにカルン線内の遊牧を許しており、その代償としてカザフからアルム税(租馬)をあつめる必要があったが、まさにこの巡辺のときに徴収を行ったのである。さらに、カザフが新疆に派遣する隊商の身元確認もカルンで行い、カルンはカザフを含む異民族との関係の窓口であった。カザフを管掌していたのは、イリ・タルバガタイ・コブドの各将軍・参賛大臣およびその指揮下にあった各カルンであり、清朝はこれらを通じてカザフを管理していたと言える。

ロシアがカザフ草原に管区制度を展開し影響力を強めるにしたがって、上述の巡辺部隊がカザフの遊牧地においてロシアの家作やロシア人の部隊を目撃することもあった。こうして露清間にカザフ草原をめぐる問題が発生し、両国の政府間交渉にまで発展する事例が見られるようになる。…

■ 露清関係におけるカザフ草原
両国政府間での交渉
カザフが清に公式に使者を派遣するよりも早く、1756年から、ジュンガルの処置をめぐって露清間で文書の往復があった。ジュンガルの長を自称したアムルサナーがカザフの牧地に身を隠したため、カザフの牧地の帰属が両国間で初めて問題となったのである。ロシアがこの中で、小ジュズのハンが宣誓を行うのみならず人質を送りさえしていることを根拠として、カザフ全体のロシアヘの帰属を主張していることは興味深い(1758年)。一方の清朝は、カザフが清の臣となったことはたしかだが、その関係は人質や徴税によるものではなく、「爵位を与え、慈悲をもって賞する」ものであることを、同じ58年にロシアに伝えていた。カザフとロシアの関係についても、「カザフには二心あり」と自覚的でありながら、積極的に阻害しようとはしなかったのである。結局、カザフは両国に帰属をもつという曖昧な状況のままであった。清朝がジュンガル旧領のアヤグズ川・バルハシ湖までを自領とみなしていたことはロシアも把握していたが、そこにはカザフの遊牧地も含まれており、事態をなお複雑にしていた。

ここまでに整理したように、西のロシア側では管区制度を展開し、東の清朝側では巡辺を通じて国境地帯の管理を行っていた。この二つが接近することで当然ながら問題が発生し、両国間で交渉が行われた。まず1820年代の…事例から見てみよう。

○カザフ遊牧地内のロシア人
1825年、バルハシ水系カラタル川流域のカザフ(大ジュズ)の牧地にロシア人が建てた家屋について、カザフのスルタンが清朝の巡辺部隊に報告した。すぐに清朝政府は討議を行い、…カラタル地方とカザフとを切り離し、カラタルは清朝領であることをロシアに対して主張する方針を定めた。この内容は清朝の外務省と言うべき理藩院からロシア元老院へ送られ、両国政府間の交渉に発展したのである。
ロシアは、翌26年5月10日付で返書を送った。露清関係の基礎であるキャフタ条約(1725年)に規定がなかったために、「カザフは独立している」との認識を示し、清の主張を否定した。さらに、あくまで「カザフの大ジュズの請願にしたがって」ロシア.軍がカザフの地に派遣されたことを述べ、自らの責任を回避することで、清との関係が悪化しないよう配慮していた。

両者の主張を比較してみると、清側が土地の帰属を問題にしていたのに対し、ロシア側ではカザフ[族]の帰属がより重要であった。…
清との関係維持をはかるロシアは自ら家屋を撤去し、この件は不問に付されたが、カザフ草原における境界についてはじめて争われたこの事例は、のちの問題発生時に規範とされたのである。…

スルタンたちの動向
1822年の規約以来、管区導入を請願するスルタンが相次いだ一方で、ロシアの統治拡大に公然と反対する者もいた。なかでもアブライ・ハンの子カスムらの管区反対文書がよく知られている。その子サルジャン、ケネサル兄弟はのちにロシア統治に対して抵抗し、とくにケネサルはカザフ草原最大の反乱の指導者となった。…

また、ロシアに従わない道を選び清朝領に移る者もいた。前述のジャンブベクについては、「アヤグズ管区開設の際にロシア皇帝への忠誠を誓わず、清朝宮廷から王の位を得て……書簡とともに自分の子をタルバガタイの大臣のもとへ派遣し、ロシアからの保護を求めた」と報告されている。さらに、その弟スパングルは、アガ=スルタンの地位をめぐってサルトに敗れ1833年に清朝領へ移動した。のちにロシアに反旗を翻すも、1839年に失敗に終わり捕えられる結果となっている。

逆に、清朝領内に牧地を持つにもかかわらずロシアの保護を求める請願も見られた。1847年のドランバイ・スルタンの請願にかんする報告によると、ドランバイが率いる「[中ジュズの]バイジギト部族のカザフは長年清の臣民であり、貢納を行い」、清のカルン線内でも遊牧をしていた。ドランバイは、皇帝の庇護によってロシアに属するカザフとの諍いを収めるためにオムスクを来訪したのである。前後して、やはり清朝領内を遊牧するクゼイ部族のブテケ・スルタンもオムスクに赴きロシアの臣民となることを願った。ただし、清朝領内にとどまりながらもロシア皇帝の恩恵にあずかろうとする彼らの請願は認められなかった。上のことからは、少なくともロシアにおいては、ロシアに帰属するカザフと、清に帰属するカザフを次第に区別するようになったことがうかがえるのである。…

最後の事例として、大ジュズのテゼク・スルタンの動向と露清の交渉を取り上げる。
この交渉は、1848(道光28)年に、清朝に属するモンゴルからカザフが馬を盗んだ事件を契機としていた。この地を担当する伊犂(イリ)将軍の薩迎阿(サインガ)は、翌49年10月の上奏文において、馬を捜索した巡辺の状況を伝えている。清の部隊はカラタル方面で、ロシアの大ジュズ監督官ヴランゲリ男爵(巴蘭)と遭遇した。ヴランゲリは、カザフが盗んだ馬を探しに来たと告げる清の官員に対して、「カザフは我々[ロシア]が税を徴収する対象である」と主張し、道を開けず再三の説得にも応じなかった。続けてこの奏文は、ロシア元老院に彼らの引き揚げを求めることを提議し、12月に元老院へ文書が送られている。…

そこで、イリの官員は、カザフの台吉(タイジ)である「鉄色克(テゼク)」を派遣して様子を探らせた。イリに戻ったテゼクは、「ロシア人は西に遠ざかり、カザフの遊牧地は平穏である」と差しさわりのない報告を行った。このときテゼクは、清の爵位を受け、アルムを納め、貿易にも携わっていたが、同時にロシアとの関係も持っていたことに注意しなければなるまい。翌50年5月、テゼクは清の官員から、ヴランゲリが返還に応じなかった家畜の捜索を命じられたが、その指示書をテゼク自らがロシア側にもたらした。家畜をイリに届けたテゼクは、その後ロシアのコパル要塞に赴き、清朝側が家畜送還を喜んだことを報告しさえしている。

その後51年2月に、ようやくロシア元老院からの回答が清に到着した。ヴランゲリが「この地のカザフはもともとロシアの所属であるので、ロシアの官員が調査を行う」と回答したことを確認し、つづけて「ロシア所属のカザフのスルタン一名を派遣し、イリに[家畜を]送り届けさせる」との報告が中央にもたらされたことを伝えるだけだった。このカザフのスルタンとは上のテゼクにほかならず、ここで清はようやく大ジュズのカザフとロシアの浅からぬ関係を知るのであった。また、コパルに要塞を建設したのは、カザフが再三ロシアに営地を設けることを求めてきたためであると、ロシアは従来と同様の釈明をしている。

これを知った清は、次の伊犂将軍奕山(イシャン)らへ、近年カザフが清にアルムを納めているのかどうか、ヴランゲリは現在どこにいるのか等を調べさせた。この結果、奕山らは、テゼクはアルム税を支払い清朝との関係が失われていないことを確認し、かつヴランゲリは清の境界からは離れた場所にいるとの情報を得たため、これ以上の問題には発展しなかったようである。

この問題と並行して、1850年になると、イリタルバガタイにおける露清貿易について本格的に交渉が行われることになった。カシュガルを含め三ヵ所での取引を望むロシアに対し、清側は二ヵ所を主張し譲らなかった。その理由の一つとして、51年4月30日の奕山の上奏文は次のように述べている。

異国ロシアはカザフ地方で、以前より租税を集め、苦役を用いている。いまカシュガル貿易を請うとすれば、かならずやイリ西南のカザフに続いてクルグズからも苦役を徴発し、かつ租税を集めるであろう。

通商条約そのものは1851年7月に締結されるが、上の奏文からも、カザフの遊牧地にロシアが影響力を強める様を、清の現地官員が目の当たりにしていたことが理解されるだろう。事実、…大ジュズをロシアの影響下におくことは、新疆との貿易、とりわけカシュガルにおける取引のためでもあった。

ここにみた交渉は、大ジュズにまでロシアの影響力が広がっていったことと連動している。47年のコパル要塞に続き、54年にはヴェールノエ要塞が建設された。1867-68年の臨時規程の制定により、コーカンド領内のカザフを残して、ロシアのカザフ草原併合はほぼ完了したと言える。

おわりに
ロシアは当初よりカザフを臣民としてみなし、たしかな支配下におくための段階を踏んでいった。一方の清朝にとって、カザフはあくまでも「駕馭(がぎょ)[=統制]」すべき異民族に他ならなかった。ロシアの進山を受けても、カザフの土地を護るというよりは、実質上の国境となりつつあったカルン線内の確保に努めていた。清朝はチュー・タラス川までを自領(界内)とみなしながらも、1813年の上諭に見えるように新疆におけるカルン線外の地には干渉しないという方針を取るようになり、1830年代には、カルン線の内外は明確に区別されるようになっていった。このため、1831年に[ロシアの]シベリア・アジア両委員会がロシアの積極的な方針を決議すると、カザフ草原における清朝の影響力は除かれていったのである。

このような露清の方針の違いに対して、カザフ自身がどれほど自覚的であったかを把握することは、史料の制約もあり困難である。それでも、より有利な状況を求めて帰属を選択しようとする動きがカザフのスルタンにあったことはたしかであり、境界を越えての移動も行われたのであった。…

1864年のタルバガタイ国境画定条約以降も、カザフ草原における露清国境地帯はなお動的であり、新疆のムスリム反乱の影響を受け、越境は日常的なものであった。たとえば、前述のブテケ・スルタンは1865年、清朝領からロシア領へ移動を求めたが、のちに再び清朝領へ移り、子孫はそこで辛亥革命を迎えている。…
[PR]

# by satotak | 2008-07-14 17:57 | テュルク
2008年 06月 24日

天山の民・トルフト族 -現代中国のトルグート-

「NHKシルクロード 絲綢之路(しちゅうのみち) 第5巻 天山南路の旅 トルファンからクチャへ」(NHK出版 1988)より:
翌日、私たちは放牧地の遊牧民を訪ねた。[南疆鉄道]ハルダハト大橋の真下に、9つのパオが張ってある。阿拉溝(あらこう)人民公社の放牧場である。パオに近づくと、馬に乗った人たちが、一列に並んで拍手で迎えてくれた。…
遊牧民はモンゴル系のトルフト族である。中央にひときわ背の高い、気品のある顔立ちの人が見える。満光強(まんこうきょう)さん、49歳。トルフト族の王様の子孫である。おだやかな笑みをたたえた満さんと、握手をかわした。

満さんの手は細くしなやかに感じられる。それもそのはず、満さんは北京芸術学院を卒業した音楽家で、現在、南疆鉄道がこの先天山を越えて最初に出会うオアシス和静(わせい)で、文工隊歌舞団のバイオリンを弾いている。日中共同取材団のために、はるばる天山を越えてきてくれたのだ。
満さんに案内されて、一番大きなパオに入った。直径5メートルほどのパオの中には、山のような御馳走が並べられている。羊の肉の大きな塊、蚊取り線香のような形のパン、そしてヨーグルト。厚いじゅうたんの上にあぐらをかくと、まず乾杯である。…

トルフト族は、もともと天山の北、ジュンガル盆地で遊牧生活を送っていた。しかし、17世紀初頭、天然痘(てんねんとう)、自然災害、部族間の抗争などが原因で、25万人の大部隊で、ロシア領のボルガ河流域まで移動していった。だが、望郷の念断ちがたく、1770年、故郷に帰ることとなった。3万3千余りのテント、その数17万人のトルフト族は東へと向かった。艱難辛苦の末、翌年ふるさとの地に帰り着いた時には、わずか7万人になっていたという。当時、西域の少数民族を支配下におくことに全力を傾けていた清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、トルフト族の帰還を喜び、彼らに5か所の放牧地と8個の立派な銀印を与えた。

 

現在、ウルムチの新疆ウイグル自治区博物館におさめられている銀印には、「忠誠なる旧トルフト部族英勇の王」と刻まれ、トルフト族の苦難に満ちた歴史を物語っている。

現在、トルフト族は鉄道沿線の放牧地で、数千頭の馬や羊を飼い、遊牧生活をおくっている。夏は牧草を求めて3千メートルの高い山々まで登り、馬や羊を育てる。冬はマイナス40度近くまで下がるこのあたりを避けて、海抜2千メートル付近まで下りていく。
「この草原を、私たちはハラゴントン草原と呼んでいます」
万年雪を頂く天山の高峰に三方を囲まれた緑の大地を指差して、満さんが言う。
「ハラゴントンというのは、このあたりに多い小さな花の名前です。あそこに細い川が見えますでしょう。あの川の近くにたくさん咲いています」

牧場の中には、天山の雪解け水が何本もの細い川となって斜面を流れている。その川沿いの石の間にハラゴントンの可憐な姿を見つけた。黄色いつりがね草のような草花だ。
幅2メートルほどの川では、女たちが洗濯していた。雪解け水の濁流がゴーゴーと音をたてて流れる。石の上に花模様の洗面器をおいて、女たちが楽しそうにおしゃべりしながら洗っている赤い小さな服は、子どもたちの民族衣裳だろうか。

緑の山すそに目を移すと、百頭を超える馬が疾走してくるのが見える。投げ縄を手にした男が馬にまたがり、そのうしろから馬の群を追っている。土ぼこりを立てて駆け抜ける馬の姿に驚いて、可愛らしい子馬がおどおどしている。首に大きな鈴がついている。
「あれは、おおかみ除けです。夜になると、おおかみが現われて子馬を襲うのです。一週間ほど前にも一頭やられてしまいました」
馬にまたがった精悍(せいかん)な顔つきの青年が教えてくれた。
「だから、日が沈むと、子どもたちを決して外には出さないようにしています」

「生まれて初めて日本人に会いました」
パオの中で、蒸した羊肉の塊から小さなナイフで上手に肉を切りとりながら、満さんがにこやかに語りかけてきた。北京で学んだ満さんでさえ初めてなのだから、他の人たちも当然初めてであろう。そもそも、この地域に外国人が足を踏み入れたのは、少なくとも解放後は初めてのことである。今世紀前半の探検家ヘディンやスタインも、この一帯には足跡を残していない。
「私たちに似た顔立ちの日本の方たちに、何となく親しみを感じますね」
「それは私たちも同じです。先ほどの歌も、なんとなく日本の民謡に似ているような気もしました」
満さんは王様の子孫ではあるが、人民公社に組織されている現在のトルフト族の社会では、
何の役職にもついていない。

人民公社の書記、毛拉(もうら)さんにたずねてみた。
「鉄道が営業を開始すると、どんな影響がありますか?」
「私たちが毎日飲むたん茶は、今、トルファンから馬やラクダで十日もかけて運んでいます。
汽車が走るようになれば、4、5時間で済むでしょう。また、ここから出荷する毛皮も簡単に運べるようになると思います」
たん茶とは、レンガのように固められたお茶の葉で、ナイフでけずってお湯に入れバターと塩を混ぜて飲む。トルフト族の暮らしには欠かせないものである。沿線の人びとが、暮らしに恵みをもたらす南疆麗鉄道を「幸福鉄道」と呼んでいると聞いたが、なるほど確かに「幸福鉄道」であろう。

話がとぎれて、ふと外を見ると、雨のようだ。朝からはっきりしない天気だったが、とうとう降り出したかと思ってパオの外に出ると、雨ではなく雹(ひょう)である。直径5ミリほどの小さな氷の粒が牧草の上に降りそそぎ、はねかえっている。パオの真上を走るハルダハト大橋は霧にかすんでいる。橋の向こうにくっきりと見えた雪山は、すっかり姿を隠してしまった。6月の天山は気象の変化が激しいという。明日は天山越えの峠をラクダで越える計画である。晴れてほしい。
タ方、かすかに日が射してきた。…
6月10日夜、何気なくNHKのBS2にチャンネルを合わせると、喜太郎の音楽と石坂浩二の語りで綴られるなつかしい番組をやっていた。
   「蔵出し劇場 NHK特集”シルクロード” 第9集:天山を貫く~南疆鉄道~」
初回放送が1980年というから、30年近く前の作品。開業前の南疆鉄道を食堂車付の特別列車でトルファンからコルラまで行くという豪華な取材旅行!

その中に出てきたモンゴル系遊牧民が「トルフト族」?
その歴史を聞くと紛れもなくそれは「トルグート族」のものではないか。
「トルグート」を「トルゴト」という例はあったが、「トルフト」ともいうのだろうか。

気になって、テレビを見た後でググってみたが、「トルグートをトルフトともいう」といった記述は見当たらない。それどころか「トルフト族」という用例はこの作品に関係したものを除いてはほとんどないようだ。これは一体どういうことか。
そんな疑問もあってこの作品をゆっくり見直したいと思い、探してみると、何という幸運! Yahoo!オークションに「新品未開封DVD、1000円から」とあったので、早速入札…無事1000円で落札。そしてその後Amazonで新書版「天山南路の旅」を80円(送料は別)で入手。

何だか不思議な気がする。全くの偶然に見たテレビで現代のトルグート族に出会い、幸運にも格安でそのDVDなどを入手。これはテインラマ(注1)の導きか?私はトルグートと何か深い縁でもあるのだろうか?

私も2001年の初夏にトルファンからカシュガルまで南疆鉄道に乗ったが、当時は南疆鉄道に乗ること自体に興味が向いていた。途中、天山山脈中の景色に見とれていたのは憶えているが、そこに暮らす人々やその人々の歴史にまでは思い至らなかったように思う。
トルグート、バインブルク(ユルドゥズ)草原そして南疆鉄道をキーワードに来年の旅行を考えてみるのも面白そうだ。

[拡大図]

30年前にトルフト族の牧地があったのは、南疆鉄道のハルダハト大橋の下、奎先(けいせん)トンネルの東側のはず。今はどうなっているのか。南疆鉄道は彼らに本当に幸福をもたらしたのだろうか。


(注1) 摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-
[PR]

# by satotak | 2008-06-24 16:55 | 東トルキスタン
2008年 06月 04日

カザフ・ハン国 -ジュンガル・清国とロシアのはざまで-

宇山智彦編著「中央アジアを知るための60章」(2003 明石書房)より(筆者:野田 仁):

ブハラ、ヒヴァ、コーカンドは中央アジアの三ハン国として知られるが、中央アジアにはそれ以外にもハン国と呼びうる政権が存在していた。現在カザフスタン共和国が占める位置に15世紀から19世紀まで続いたカザフ・ハン国も、その一つと言える。その興国のきっかけは、15世紀後半にジャニベクとギレイの二人が、ウズベクのシャイバーン朝の宗祖たるアブール・ハイルに圧迫されて東方へ移動したことにあった。彼らはチンギス・カンの長子、ジョチの後裔であり、カザフ・ハン国は、モンゴル帝国の流れをくむテュルク系遊牧政権の一つであった。


チュー川流域(バルハシ湖の南)に興ったハン国は、やがて西方のキプチャク草原へと広がっていくが、その過程でモグール遊牧民やノガイ族の一部を編入していった。彼らは現代のカザフ民族の祖となった。こうした複雑な部族編成が一因となって、後のハン国には、三つのジュズと呼ばれる部族連合体が存在することとなる。これは東から順に大(ウル)、中(オルタ)、小(キシ)ジュズと呼ばれ、18世紀になるとそれぞれのハンを戴き、独自の行動が見られるようになった。

ハン国は南方にも展開した。当初より争いの絶えなかった隣人ウズベク族に対しては、16世紀末にはブハラの王朝交代時の混乱に乗じて要都タシュケントを押さえる勢いとなった。

17-18世紀には、モンゴル系の遊牧民ジュンガル(カルマク)の来襲に苦しんだ。とくに大規模だった1723年の侵入はカザフ人にとって大いなる厄災であり、「裸足での逃走」を意味する「アクタバン・シュブルンドゥ」の言葉をもって語り継がれている。こうした外敵の侵略による動揺はカザフのハンたちを動かし、1730年には小ジュズのハンであったアブルハイルが、ロシア皇帝に対して、臣籍を受け入れその保護を求める請願を行った。この動きは他地域にも広がり、1740年には後に名君として知られる王子(スルタン)アブライが、中ジュズのハンらとともにロシアに宣誓を行っている。

一方、ジュンガルの勢力は次第に衰え、長年ジュンガルに悩まされてきた中国(当時は清朝)は、その内紛を利用し討伐を行った。その最中に清朝軍はカザフ(清朝資料上では哈薩克)の遊牧地にも侵入し、ここにカザフ・ハン国と清朝とは接触を持つようになった。形ばかりとは言え、すでにロシアの臣となっていたはずのカザフのハンたちだったが、東の大国、清朝に対しても同様にその「臣属」となることを請願するのであった(1757年)。ここで大きな役割を果たしたのがアブライであり、彼は清朝から汗(ハン)として認められ、ロシアからも中ジュズのハンとみなされるようになった(1771-1781)。このように清朝の臣となることは、カザフが皇帝のもとへ入貢する代わりに、清朝が爵位を授け、中国西北における交易を保証することにつながった。カザフはイリやタルバガタイにおいて、自らの家畜を中国内地産の絹、綿などの織物へ換えることができたのである。また一部のカザフは滅亡したジュンガルに代わって新疆北部へ移動し、領域は東へ広がった。

清朝は積極的にカザフに介入しなかったが、アブライの死後、ロシアのカザフ草原への進出はとどまる所を知らなかった。1822年にロシア政府が導入した規定(「シベリア・キルギズに関する法規』)によって、中ジュズのカザフは西シベリア総督府の管轄下に入り、ハン位は廃止され、権限を縮小されたアガ・スルタン(上席スルタン)制にとって替わられた。小ジュズについても1824年に類似の規定が設けられた。ハン一族(トレ、もしくはスルタンと呼ばれた)の権限はこの後も段階的に奪われ、ハン国の解体は進んだ。

それでも東部においては、1820年代になっても依然として清朝への使者の派遣は続いていた。これは清朝からの爵位に関して、代替わりの際に皇帝から承認を得ることで、権威を獲得しようとするものが多かった。ここに露清という東西の二大帝国のはざまにおいて、外交上のバランスを保ち自分たちの独立を維持しようとしたカザフのハン一族の姿を見ることができる。無論これは裏返せば、ハン一族が一体となって困難を乗り切ることができなかったことを示してもいるだろう。

ロシア支配の拡大、南からのコーカンド・ハン国の脅威はいっそうの混乱をもたらした。コーカンドは1809年にタシュケントを奪ったことを皮切りに、大ジュズの遊牧地であるカザフ草原南部へと侵入していたのである。30年代後半には争乱が相つぎ、アブライの孫にあたるケネサルは各地を転戦しながら対ロシア反乱を行った(1837-47)。ロシア帝国への併合がおくれた大ジュズ地域も1860年代までに併合され、以後この地はロシアの植民地統治に組み込まれることになる。

一方で、清朝領内に遊牧地を持っていたカザフについては、ハン家の一族が各部族の統率者の地位を保持していた。1871年のロシア軍によるイリ占領に代表されるような露清間の国境画定を巡る争いを経て、20世紀の中華民国期に至るまで彼らは役割を持ち続けた。このことはあまり知られていないが、これも一族のたどった多様な運命を表していると言えるだろうか。

こうして長きにわたり独自の政権として存続していたカザフ・ハン国は、現代カザフスタンのカザフ人新疆のカザフ族にとっても、自らの民族を顧みる際に欠かせない存在となっている。アブライ・ハンはカザフスタンの紙幣となって、今もなお人々の中に生き続けているのである。
[PR]

# by satotak | 2008-06-04 11:33 | テュルク
2008年 04月 24日

摂政テイン喇嘛(ラマ) セン・チェン -20世紀トルグートの悲劇-

ハズルンド著「蒙古の旅」(1942 岩波新書)より(内藤岩雄訳):

[1927年12月]
…二日の後私たちは哈密(ハミ)に到著した。そこで私たちは阿片中毒者の廃物である町の支那人司令官と、支那元帥の制服を着けた四十歳位の新疆東部正面の司令官の前に連行された。元帥が話した数語は蒙古語であり、彼の目は親しみのある好奇のまなざしを示した。…

[拡大図]

[1928年9月]
第三章 『西域の汗(ハン)』に拝謁す
…テイン喇嘛(ラマ)の冬の館邸は、荒涼たる環境に全く不意に現出した純白の町であった。
私たちの小さな騎馬行列は町の東側の外壁に沿うて廣いカーヴを描きつつ、南方の外壁の大きな中央門の前に停止した。城壁は高く、頂上に銃眼を設け、堅固な望楼があった。同行の土爾扈特(トルゴト)(注1)はその難攻不落を誇り、テイン喇嘛の築城したエレゲトの土爾扈特城は全新疆で最も崇高な建築物であると断言した。

この外壁の内に内壁が設けてあるが、この両壁間の約百碼(ヤード)の空間は四つの眞直ぐな通りをなし、方形の防衛地を構成していた。外壁の内側に接して低い兵舎があって、通りには兵や馬が群っていた。兵士は褐色のコザックの軍服、露西亜(ロシア)式の乗馬用長靴および黒や白の高い毛皮帽を着けていた。彼らの或る者は比較的現代式の銃を磨くに忙がしく、他の者は野蛮に古色を帯びてはいるが、ぴかぴかと磨いたコザックの軍刀で騎兵剣技を演じていた。

馬は黒、褐、或いは灰色であった。その日テイン喇嘛を警護していた騎兵中隊はそれらと同色の旗のものであった。どの馬もこの國で有名な喀喇沙爾(カラシャル)産の立派な体格をしていた。同地の馬は哈密(ハミ)の瓜、吐魯番(トルファン)の葡萄、庫車(クチャ)の美人と共に新疆の四つの著名な産物として知られ、嘗ては支那皇帝に献ぜられたこの國の主要な貢物であった。…

摂政と私の最初の会見は、その日の夕刻に行はれた。謁見室には露西亜から輸入した家具を備へ附けてあったが、壁には支那の刺繍と蒙古の格言を誌した赤絹の掛布が懸っていた。
土爾扈特の摂政は哈密で私たちを出迎へ、支那の元帥であると自称した人と同一人であった。

そして彼は直ぐに私の隊長や他の旅行仲間の健康や將來の計画について尋ねた。彼は支那元帥の徽章を着け、露西亜の軍服を着用し、彼の胸の勲章は支那と旧露西亜双方のものであった。露西亜勲章は彼の先祖に授与せられたものだが、相続によって承け継がれ、それらを佩用する権利を持っていると彼は言った。

彼は私の欧州名を訊ね、そして彼がそれを欧州風のノートに露西亜文字で記入するのを私は見た。彼はこの國の習慣に從って巻煙草入れの蓋をあけて私にすすめないで、巻煙草を掌に一本載せて私にすすめた。
洋服は彼に不似合であった。彼は小さく且つ目立たなくなり、そして彼の短く刈った頭は満月のやうでをかしかった。しかし、彼のまなざしは人目を惹く程賢明であった。そして彼の溌剌たるまなざしを長く見れば見るほど、彼の声望の根源には立派な才能があるといふことを益々強く感じさせた。…

第五章  土爾扈特の英傑(ストロング・マン)
…だれもが彼のことを活佛(ゲゲン)或いはテイン喇嘛と呼んだ。どちらも彼の本名ではなく、ただ『活佛』或いは『高貴の喇嘛』を指示するに過ぎない。彼の真実の氏名と血統については彼自身に聞き糺すより外はない。といふのは、蒙古人は彼の父と彼の統治者の名を口に上すことが出来ない、両者は彼には神聖だからである。

本当に彼が實際オビシュ汗の後裔であったか、或いはただ彼の印璽の保持者に過ぎなかっただらうか?
そしてもし彼が往古の土爾扈特王朝の後裔であったとしても、活佛は貧しく賎しい者の中からさへ現はれることが出來るといふ常道が定まっているのに、どうして彼は活佛となり得たであらうか?
そして彼の身体に再来したのは、如何なる亜細亜の神であったらうか?…

テイン喇嘛の兄は、1920年彼の死ぬるまで土爾扈特の汗であった。そして現摂政は活佛として婚姻を禁ぜられていたから、権力は彼の死去に際しては現在(1928年)十五歳で、土爾扈特たちがビチゲン汗(小さな汗(ハン))と呼んでいる、彼の兄の子に移るのである。…

テイン喇嘛は彼の青年時代を宗教研究に過し、壮年時代は佛教の聖地を長い間順礼して暮した。彼の兄が死んだ時、彼の甥はまだほんの幼児であった。それゆゑ主なる土爾扈特の族長たちはこの幼い汗が成長するまで、國民の統率者となるやうテイン喇嘛に懇請するため、亜細亜の大半に急使を派遣した。

テイン喇嘛は國民の懇望を容れた。そして彼が最高の権力を引受けた日から、土爾扈特に自由と幸福とを齎(もたら)すべき多くの変革に着手した。
私の土爾扈特の友人たちは近年のあらゆる進歩発達について誇らしげに述べた。

畜群はその量を増加した。馬の品種は摂政の賢明な発意によって亡命の白系露西亜人から立派な純血種の種馬を買入れたことによって、なほ一層改良せられた。彼は支那人の間に大いに需用されている緩歩馬を産出しようと試みて好結果を得、それは現在土爾扈特の最も有利なる輸出品となっている。彼は脱走のコザック兵から武器や弾薬を購入した。それがため土爾扈特の軍隊は、今では中央亜細亜で最も勇敢である計りでなく、最善の武装をしていると大びらに言ふことが出來た。

テイン喇嘛の統治権受任後起った祝福の中で最大のものは、以前は極めて僅かしか恵まれていなかった子供が、近年目立って多くテントの中で生れだしたといふ明白な事實であった。国民はこれを彼らの指導者の神徳に帰しているが、しかし私の開化せる友人たちはそれをテイン喇嘛の魔法的の力よりも、寧ろ彼の人間的知識に依存したものと思っていた。
土爾扈特領域にやって来た露西亜からの亡命者の中に医者の心得のある一人の韃靼人がいて、テイン喇嘛は彼の忠言に耳を貸した。この医者は現在十二の寝台と澤山の藥剤を備へた病院を管理していて、黴毒(ばいどく)やその他の不妊症を撲滅する猛運動を行っている。

烏魯木齊(ウルムチ)の外国商館の代理店の手を.経てテイン喇嘛は、多数の舶來品を手に入れたが、その中に写真機があった。彼は熱心な写真好きとなり、彼自身で現像や焼付をした。この西洋の発明品に対する彼の興味は、彼の若い土爾扈特の近侍者たちの非常な賛成を得た。…

或る日、私は兵舎を訪問した。
牧民兵士の西洋式の教練や装備、それから彼らの鋭敏な様子は最初から私を感動させた。
土爾扈特の士官は西洋人の優雅さを発揮し、その中の一人は私に露西亜語で話しかけた。対話中彼は自分は1771年の大逃亡の際、ヴォルガ河畔に取残された土爾扈特の後裔の一人であると語った。彼は露西亜の教育を受け聖ペテルスブルグで士官の試験に合格し、世界大戦にはオレンブルグとアストラカン地方で募集せられたカルムック師團に配属せられて露西亜側に從軍した。後に彼は『赤色教義』に抗して帝政のため戦ったが、『白軍』が西比利亜(シベリア)で潰滅した後は、逃亡者の群について南方へのがれ、つひに彼と同種族人に遭ふに至った。彼らの統治者が彼を引取ったので彼はその時から忠勤を励むことになった。
摂政の軍隊に露西亜育ちのこの土爾扈特がいることは、エレゲトに多くの西洋風の現象の存在する所以を明かにしてくれた。

土爾扈特摂政の独立自主の傾向は、外界に対する彼の態度にも亦おのづから現はれた。
彼の兄の宮廷では支那人の勢力が圧倒的であった。ところがテイン喇嘛が統治権を掌握した後は、覚醒した蒙古民族精神は支那當局者に疑惑をもつて観られ、その疑惑は間もなく恐怖となるにいたった。摂政は支那人によって『土爾扈特の英傑(ストロング マン)』と噂された。そして彼らは、彼が中心となって数年にして從順にならされていた遊牧民を挑戦的勇猛果敢な民族に変化させた運動を制圧しようと幾度も企てた。

1924年支那軍が東干(トンガヌ)反乱の首魁、馬仲英を潰滅しようとした時、総督は土爾扈特騎兵および駱駝輸送隊の動員を命じた。しかし、テイン喇嘛は支那人の援助の要求を一も二もなく拒絶した。1925年の初め、摂政は甘粛から威嚇的進軍をしつつあった『クリスチャン』將軍馮玉祥を阻止するため、烏魯木齊に彼の騎兵を派遣するやうに懇請せられた。しかし、再びテイン喇嘛は、彼の兵士は自族の利益のためにのみ血を流すべきで、他所の戦争に彼らの血は流させないと回答した。

昔から、土爾扈特は中央亜細亜における支那の最も信頼すべき援軍であった。そこで督辮楊増新は、若し遊牧民たちが最早強制に屈服しないならば、政略的術策と好意的慇懃をもつて彼らを籠絡しなければならないと考へた。
楊増新は、自分の陰謀を廻らし、互に相猜忌する將軍の一人の指揮下にある支那人の屑よりも、信頼出來る遊牧民族長の指揮下にある土爾扈特兵を親衛兵とするのを好むと申し出た。そして土爾扈特親衛兵に対する彼の阿謟的な懇望は、つひにテイン喇嘛をして彼の騎兵三個中隊を派遣せしむることになった。

後日、支那人顧問の説得に從って、楊はテイン喇嘛を烏魯木齊に招いて友好的會見を行った。この會合の秘密の目的は、摂政から彼の権力を剥奪し、未だ未成年者である小汗(ビチゲン・ハン)に土爾扈特汗職の印璽を譲渡させ、後者を支那人顧問の後見の下において土爾扈特を支配せしめることにするといふのであった。テイン喇嘛は旧の雲水生活を再び始めるやうに、強要させられることになっていた。

しかし、烏魯木齊(ウルムチ)におけるその會合へ、テイン喇嘛は素晴しい豪華と壮大とにとり囲まれ、あたかも征服者の凱旋入城式のやうにいかめしく且つ果敢なる遊牧民戦士の多数の護衛兵を引率して到着した。支那人によってたくらまれた政治的手段は商議さへせられないで、テイン喇嘛は支那元帥兼西部國境防衛総司令官に任命せられた。1927年11月、彼は東部より近づきつつある新しい危険――すなはち、スヴエン・ヘディン探検隊!――を迎へるため、哈密(ハミ)に進軍したのは、後者の資格においてであった。…

第八章  草原の法律
…土爾扈特族の総数は八万乃至十二万という非常に違った数字が挙げられている。その組織について私の知り得たところは左の通りである。
十三の土爾扈特部族の各々は札薩克(ヂャサック、世襲首領)によって統治せられている。しかし喀喇沙爾(カラシャル)部族の首領はすべての土爾扈特の汗であって、他の十二は軍事上およびその他の重要な事項について彼に隷属している。

十二人の隷属首領の中二人は親王(チンワン、第一位の王)、二人は郡王(チュンワン、第二位の王)、三人は貝勒(ベイレ、第三の位)、一人は貝子(ベイセ、第四位の王)、一人は公(クン、第一位の侯)、三人は台吉(タイジ、第一位の貴族)、の称号を帯びている。各ホシュンには、その文官行政官として首領から任命されたトサラクチ(協理)がいる。

軍事上は、各ホシュンはソモン(佐領)に分たれ、その五つがグスデの指揮の下に『旗』を構成している。ソモンの兵員は百乃至二百の天幕から募集せられ、メイレンの指揮下に属している。摂政の支配下にある土爾扈特の総兵力は百五十四ソモンに達し、その中五十四ソモンは喀喇沙爾(カラシャル)部族のみから供給せられている。
その上摂政は、名誉あるバドル(勇士)の名を帯びる千四百人の選り抜きの、完全に武装した戦士の親衛兵を持っている。

各部族は、各々割り当てられた地方で遊牧民生活を営んでいるが、これらの中九つは喀喇沙爾部族の周囲に障壁を構成するやうに配置されている。かく互に接近して住居する十の土爾扈特部族をひっくるめて、ホーチン土爾扈特(旧土爾扈特)とよんでいるが、理論上では遠く離れた額濟納河(エチンゴール)土爾扈特もこれに属している。
阿爾泰山中の二部族は新疆に定住した十種族よりも後にヴォルガから帰還したから、シネ
(新)土爾扈特と呼ばれている。この十二部族の首領と額濟納河(エチンゴール)土爾扈特とはアラベングルベン・タマグータイ・ノイェン(十三の印璽を有する王侯)を構成している。

喀喇沙爾土爾扈特の最も重要な遊牧地はツォルトゥス(注2)河畔にあってこの地域を彼らは三つの和碩特(ホショト)部族と共同に使用している。
他の大なる土爾扈特居住地はジルガラン、チンホー(精河)、ホボク・サイリ、ブルゴン、テケスおよびクンゲス諸河の邊およびエレン・ハビルガ山麓にある。…

セン・チェンはその上ボロトラ谿谷の察哈爾(チャハル)蒙古人――彼らの祖先は十八世紀の中葉に清朝皇帝の軍隊と共に彼らの現在の牧地に來た――と相互援助協定を結んでいた。又貧弱で数の少ない彼らの天幕をテケスおよびカシ両河畔並びにタルバガタイの周囲の草原のあちこちに張って、ばらばらの指導者のない額魯特(エルート)族の群とも同種の協約を結んでいた。…

第十一章  土爾扈特の天幕寺院
…数ヶ所の蒙古寺院は十七世紀後半から傳はつているが、近年建立したものはもっと多数でさへある。といふのは、新しい清朝は戦争好きな遊牧民を平和な牧畜者や敬虔な修道僧に一変させるために、草原の茫漠たる廣野に多数の寺院を建立させたからである。…

蒙古人は固定建築物に先天的に嫌悪の情を持っている。そして蒙古の多くの地方…においてはいまだに永久的の石造建築を建てることを、支那商人をはじめとしてすべての者に禁止している。自由の草原は陰欝な建築物で『固め』られてはならない。そして遊牧民は新しい牧場と新しい水飲み場所へと永久に放浪して家畜の群を追うて行く、彼らの第一義務を決して忘却してはならないのである。
しかし修道院および寺院に対してはこれらの法則は適用せられない。といふのは、それらは神と彼らの下僕たる喇嘛の住居であり、かやうな人間的な事由は問題とならないからである。

1920年までは土爾扈特の間には俗人の建築物はなかったが、最初に建てられたのはツォルトゥス(注2)山中のセン・チェンの夏の離宮であった。活佛の資格において彼は人間の掟を蹂躪することが出來た。土爾扈特たちは摂政の行爲はすべて彼の臣下の者に天恵を齎らすことを知っていたから、彼がエレゲトの町を創設して官吏や從者に冬季中それらの木と石と煉瓦の建物に住むやうに命じた時にも、少しの反封も不安も起らなかった。

土爾扈特はセン・チェンの造った、塔や城壁や宏大な建築物のあるエレゲトを誇ってはいたが、然しそれにも拘らす町の住民は長い冬のあひだ中、首領も牧畜者もすべての人が同様に天幕で暮す夏を夢みるのである。暖い季節になるとエレゲトは見捨てられて鎮された町となる。といふのは、土爾扈特は高地の草原に彼らの畜群を追って行き、城砦の守備隊だけが後に残されてツォルトゥスを夢み又遠く隔てたる雪峰に憧れの凝視をするのである。…

間もなくエレゲトを去ることになった。或る晩、私はセン・チェンについてゲゲン・ニ・オルドに入って見たが彼は別に私を拒まなかった。私たちはいつものやうに罪障世界の現實の問題について議論を今しがた終ったばかりであった。しかし、彼が洋服をぬいで長い黄色の喇嘛の法衣に着替へた時、私の目前に居る人は全く別人のやうに見えた。彼の敏捷で怜悧な眼は内観的な半眼となり、きびきびした顔つきは穏かな受容的なものに変った。

私は彼がマイダリと、彼には高遠な理想と深玄な眞理を象徴するその他の金色の佛像の前に、叩頭して祈願するのを見た。絹の掛布や寺院の幡の白、黄、赤、緑および青の神聖な色彩は、祭壇から薄暗い光の中で色々に違って見え、線香の煙は焔のやうに輝く黄色の法衣に包まれて跪伏せる人のまはりを漂うた。
活佛の東洋風に細い手は、何かを形作る様な動作をして、空中に神聖な象徴を描いた。
それから彼は全智の神の青銅の鏡、ダルバナに聖水の滴をふりかけた――私は彼をおき去りにして天幕を出た。唯ひとり神とさし向かひで、この聖者はダルバナの全智のお告げを判じなければならないからである。

第十五章  寺院天幕内の密教
…私ひとりで聖者と対座したのは、私のエレゲトでの長い滞在中これが初めてであった。彼は活佛の衣をつけていたが、その豪奢な襞襀(ひだ)と燦然たる色彩は、地味な洋風の部屋の調度の中で不釣合に見えた。
その夜セン・チェンは私に彼の心の宝庫をすっかり打ち明けて見せた。彼の夢や希望や人生観は私に活佛は、丁度あたかも春と秋とのやうに異っていて、しかも両者が自然の交替として當り前であるやうに彼のもっている二重人格の両面を明白にしたやうに思はれた。

彼の神聖な職務を深刻に意識しているセン・チェンは、人生の荘厳と彼がそのために再来した世界的使命について語った。しかも、彼は新しい経験に対する彼の憧れを若人のやうな歓喜をもって談じた。そして草原の彼方の大世界についての、彼の好奇心を満足させようとする彼の熱望の程度は、中央亜細亜のやうな孤立した場所にいる彼としては聊か悲愴に思はれた。…

セン・チェンは平然たる忍從をもつて、彼の生命の非業な最後を覚悟していた。といふのは、彼は彼の心霊上の父と同様な運命に遭ふと占僧が豫言していたからである。しかし、それより以前に彼は草原の外にある世界を見たがっていた。今度私が彼の國へ再び戻って來たときにはアフガン國王のやうに、彼の國民に力を與へられる西洋の學問を体得し得るため、廣い世界に彼を連れ出すことになった。…

その後何事が起つたのか
同年の秋、私は再び草原に向って旅立つた。しかし私は土爾扈特の國に到着出來ない運命にあった。…

それから病床での幾年かが続き、その間にも私は屡々セン・チェンや彼の部下からの消息や季節の挨拶を受けた。
1932年の始めに吉報は來なくなった。やがて、ニルギトマ王女から土爾扈特の誇った將來の夢は潰されてしまったとの知せが來た。

新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起つたとき、省主席[金樹仁]は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェンを烏魯木齊に招いた。セン・チェンは彼の有力な首領達に取巻かれて到着したが、何らの相談もなされなかった。といふのは、第一日の饗宴の後、土爾扈特たちが省主席の衙門で坐って茶を呑んでいた時、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。
無能な省政府の短見の結果、多くの有能な罪なき人がこの世から失はれ、高潔で人道的な抱負は無意義な混乱状態に変った。

土爾扈特の指導者セン・チェン、モングロルダ・ノイェン、バルダン・グスデ、ロドンおよびリルップ――今はみんな死んでしまった。かつてはよく訓練され、その勢力と強固な組織とが從來中央亜細亜の多くの異人種間の均衡を維持するに大いに與って力があった國民は、復讐に飢ゑて荒れ狂ふ遊牧民集團に変じた。苦力(クーリー)に変装してこの國から逃亡しなくてはならなくなった謀殺者たちを放逐した後、土爾扈特たちは山間に退却して、今は中央亜細亜の政治の將來には全然無頓着になってしまった。

それ以来私は、新疆に関する情報をその後に帰国した探検隊員から聞くのみとなり、しかもそれらは落胆させるばかりのものである。…

(注1) トルゴトトルグート | Torγud[モンゴル]
モンゴル族のオイラト系支派.オイラトの内紛を契機として,ホー・オルロクに率いられたトルダートは,タルバガタイ付近から西遷し,1632年にヴォルガ川下流域の草原に到達した.ロシアはこれをカルムイクと呼んだ.オルロクは44年にアストラハンで戦死したが,その後ロシアとの同盟関係により,比較的安定した時期が続いた.
70年に曾孫アユーキが政権を取ると,ロシアとの関係を保ちつつも,ダライラマとの親密な関係を背景に権力を集中していった.1724年にアユーキが死ぬと部内は混乱し,ロシアの干渉を招いた.
これを嫌ったアユーキの曾孫ウバシは71年初め,17万人近いトルグードを率いて東に移動を開始し,7ヵ月に及ぶ旅程で10万人を失いながら,清朝支配下のイリに帰還した.
乾隆帝は彼らを厚遇し,首長層に王公の位を授けた.
現在その後裔が新疆ウイグル自治区天山山脈南麓の和静県,北麓の精河県,鳥蘇県,アルタイ山脈南麓のホボクサル・モンゴル自治県などに暮らしている.中国では単独の少数民族には認められておらず,民族分類上モンゴル族の中に一括されている.
一方ヴォルガ川流域に残った者たちの子孫は,現在ロシア連邦内にカルムイク共和国を形成している.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者: 楠木賢道))

(注2) ツォルトゥスユルドゥズ草原 | Yulduz[テュルク] Yultuz[ウイグル]
新疆ウイグル自治区,天山山脈内奥に位置する広大な遊牧地.現在はモンゴル語でバインブラク(バインブルク、豊かな泉)草原と呼ばれる.

ボスタン湖に注ぐユルドゥズ(カイドウ=開都)川の水源地.標高は3000m前後,ほぼ南北50Km,東西200kmに及ぶ大盆地をなす.4000~5000m級の山岳に囲まれて,冬は南北縦断道路が閉ざされ,遊牧民は盆地周縁の山岳内部の小渓谷などに分散するが,夏は天山を東西南北に越える交通連絡網の要にもなる.こうした地勢から,歴史上、中央ユーラシア北方の遊牧勢力が南部オアシス地域を支配する重要な拠点となった.6世紀半ば,突厥(とっけつ)の西面可汗イステミ(室点蜜)は本拠地をここにおいてビザンツ使節を迎えたとされる(西突厥).突厥のあとウイグルをはじめとするテユルク系遊牧民が展開したことは間違いない.
モンゴル帝国期以後,また清朝の新疆支配を経て現在では約1万人の遊牧民の95%をモンゴル族が占め,残りはカザフ族である.1980年代から新疆の市場経済化や天山山麓オアシスの都市化が急速に進み,増大する食肉需要に応える必要から牧畜の私的経営が奨励され,外部機関の牧地も根づいた.その結果,100万頭の家畜による過放牧という危機がせまり,草地の保護が大きな課題となっている.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:梅村 坦))

[PR]

# by satotak | 2008-04-24 21:15 | 東トルキスタン
2008年 04月 13日

コソボ独立の見えざる背景 -人民自決の今日的意味-

「【正論】コソボ独立の見えざる背景」 佐瀬昌盛 (産経新聞 2008.4.11)より:

国際法の諸則は高尚だが…
 セルビア共和国のコソボ自治州の独立宣言からほぼ50日、独立承認国数が増えている。日本も承認に踏み切った。他方、セルビア擁護のロシアはコソボ独立を国際法違反と決めつけ、だからコソボの国連加盟見通しは立たない。ロシアほど激しくはないが、中国もコソボ独立に反対している。

 ところで、ではコソボ独立の国際法上の準則は何かとなると、わが国の報道は皆無に近い。いや、そんな議論は不要だ、国連憲章第1条2の「人民の自決の原則」(俗に言う民族自決権)がそれに決まっているじゃないか、との声があろう。それは謬論(びゅうろん)ではない。が、ことはしかし簡単ではない。この問題の議論は、将来の国際秩序の根幹にかかわるものだからだ。

 憲章第1条を念頭に国連総会は1966年、2種の国際人権規約を採択した。その第1条はともにこうだ。「すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し、並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」

 1990年代のセルビアによる「民族浄化」の煉獄(れんごく)、それを排除した99年春のNATO(北大西洋条約機構)によるセルビア空爆、同年6月の国連安保理決議1244下での9年間という曲折に照らせば、「人民の自決の権利」こそがコソボ独立の根拠たることは自明である。だが、2月17日発出の長文の独立宣言にはこの原則への言及が全くない。これはなぜだ。

「人民自決」は強調できず
 他面、独立宣言には、コソボ問題で国連事務総長特使を務め、ほぼ1年前に苦心の報告をまとめたアハティサーリの名が8回も登場する。つまり、独立宣言はコソボを将来的にはセルビアともどもEU(欧州連合)の翼で抱擁するとのアハティサーリ構想に導かれたのだ。

 ところで、委曲を尽くしたアハティサーリ案にも、輝かしい「人民の自決の原則」への言及は皆無である。だから、独立宣言はアハティサーリ案ともどもに崇高な「人民の自決の権利」への裏切りだと叫ぶ急進的原理主義組織が、コソボにある。ただ、その報道はわが国にはない。

 独立宣言派やアハティサーリは「人民の自決の原則」を否定したのか。無論、そうではない。彼らは同原則の強調ではなく、非強調の道を選んだまでだ。では、なぜ非強調なのか。国連憲章中のいくつかの理念は、個々にはいかに高尚なものだろうと、脉絡(みゃくらく)なくそれぞれを強調すれば、今日では結果として深刻な相互矛盾を生む。好例が、憲章第1条1の「国際の平和及び安全」の維持と同条2の「人民自決」原則の関係だ。後者の絶叫は前者を危うくする。

 15年前、ブトロス・ガリ国連事務総長は国際社会がボスニア紛争処理を間違うと、アフリカだけでも200の国家が出現しかねず、国連は機能しなくなるとの懸念を語った。同じころ、クリストファー米国務長官は、異なるエスニック集団が一国内で同居する方法を見いださないと、世界は「5000ほどの国家を抱えてしまう」と嘆いた。

 このおぞましいシナリオはまだ退役していない。その回避のため、「人民自決原則」の非強調という知恵が、現代世界にとり必要なのだ。

個別に「最適解」を探す努力
 ロシアのコソボ独立反対の論拠は結局、前述の安保理決議1244がセルビアの「領土保全」を謳っているではないかというにある。確かに「領土保全」は国連憲章やCSCE(欧州安保協力会議=当時)のヘルシンキ宣言などの国際法規範で重視される原則だ。が、絶対的な「領土保全」思想は、そもそも領土関係の変更を理論的に排除しない「人民自決原則」と微妙な緊張関係に立つ。ならば、ここでも純粋原則それぞれの強調ではなく、むしろ非強調に難題処理の実際的方策を求めるほかあるまい。

 六十数年前の国連憲章成立時はおろか、1966年の国際人権規約採択時においても、今日の世界に見るような既存国家からの分離独立志向の蔓延(まんえん)といった事態は予見されていなかった。憲章第1条1「国際の平和及び安全の維持」と同2「人民の自決の原則」とは調和関係にあるはずだった。しかし、そういう牧歌的な時代はとうに終わった。さりとて、それ自体は高尚な後者の原則の廃止は、いまさら不可能である。では、どういう方策があり得るか。

 国際政治の場が無原則であってはならない。が、そこでの現実問題は同じものが2つとはなく、すべて個別的だ。ならば、原則を忘却せず、しかし原則を絶叫するのではなく、個別主義的に最適解を探すこと。世界各地域の分離独立志向を扱うにはこれしかない。
[PR]

# by satotak | 2008-04-13 12:21 | 民族・国家
2008年 04月 10日

東トルキスタン共和国時代のジュンガリア

王 柯著「東トルキスタン共和国研究」(1995 東大出版会)より:


東トルキスタン共和国支配地域 (1945年9月現在)
[拡大図]

共和国政府の大ウイグル主義的傾向
新疆では、五つのトルコ系イスラム民族があり、それはウイグル人・カザフ人・キルギス人・ウズベク人とタタール人である。東トルキスタン共和国政権には、各トルコ系イスラム民族はみな自分の代表をもっていた。たとえば、政府王席のイリハン・トレはウズベク人であり、副王席アキムベグ・ホジャはウイグル人であり、教育省長官アビッブ・ヨンチはタタール人であり、民族軍の副指揮官イスハクベグはキルギス人であり、遊牧業省長官オブリハイリ・トレはカザフ人であった。たしかにモンゴル人の政府委員もいたが、それはいかなる実際の職にも就かず、結局「民族平等」の飾り物にすぎなかった。このような政府委員会メンバーの民族構成は、東トルキスタン共和国がトルコ系イスラム諸民族を主体とする民族国家であることを示している。

東トルキスタン共和国の指導者たち
[拡大図]

しかし、同じトルコ系イスラム民族同士であるにもかかわらず、ウイグル人、ウズベク人、タタール人らオアシス農耕業・商業など同じ生産様式を有するトルコ系イスラム住民は、草原遊牧業を営むカザフ人に対して、政治的な民族差別が設けられていた。

[拡大図]

東トルキスタン共和国領内の総人口は、70万5148人である。そのうちカザフ人は約52.1%、ウイグル人は約25.3%を占めている(表9-1)。ところが、東トルキスタン共和国指導部の構成は、必ずしもこの民族構成を反映していなかった。1944年11月12日に設立された東トルキスタン共和国の臨時政府委員会の17人の委員のうち、ウイグル人が10人、ロシア人が二人、タタール人が二人、ウズベク人が一人、カザフ人が一人、モンゴル人が一人であった(表5-1を参照)。たんなる人数と職務の面からみても、東トルキスタン共和国政府は、主にウイグル人によって構成されていることがわかる。

[拡大図]

新疆のウズベク人とタタール人の人数は非常に少ない。1944年の新疆民政局の調査によれば、当時の新疆省総人口のうち、ウズベク人はわずか0.62%、タタール人はわずか0.14%を占めているにすぎない。にもかかわらず、東トルキスタン共和国主席はウズベク人であり、また政府の要職についているタタール人の政府委員も二人いた。それに比べ、現地人口の過半数を占めているカザフ人の政府委員は、わずか遊牧業省長官に任命された一人であった。ここから、カザフ人が東トルキスタン共和国の政策決定にほとんど影響力をもたないことが、想像できるであろう。

1944年11月12日以降、九人の新しい政府委員が任命された(表9-2)。監察委員会副委員長に任命されたタタール人のワカシ・ハジ、ソ連から軍を率いてきたロシア人のパリノフとキルギス人のイスハクベグ、和平交渉の代表に任命されたウイグル人のエホメッドジャン・カスミを除き、タルバハタイ区・アルタイ区が相次いで東トルキスタン共和国の勢力範囲に入ってから、五人のカザフ人政府委員が任命された。しかし五人のうち、一人は着任が不可能で、三人は地方の責任者であり、残った一人は東トルキスタン共和国の首都クルジャにいたが、いかなる実際の職務にも任命されなかった。つまりいずれも東トルキスタン共和国の政策決定集団に入れられなかった。東トルキスタン共和国において、ウイグル人・ウズベク人・タタール人の政治的優位性に対し、カザフ人がむしろ被支配民族の立場に立たされた理由は、二つ挙げられる。

まず指摘すべきなのは、カザフ人自身の東トルキスタン民族独立運動に対する情熱が、ウイグル人・ウズベク人・タタール人のそれほど強くなかったことである。歴史的にも、アルタイ区とイリ区とは別々の行政単位であり、ウイグル人が多く住むクルジャは、いかなる時代においてもアルタイ・カザフ人の行政的中心とならなかった。本来、東トルキスタン民族独立運動はウイグル人が主体である運動であり、カザフ人には東トルキスタンという意識はなかった。アルタイ区あるいは新疆北部のカザフ人地域は、むしろ「東トルキ.スタン共和国」の時代にはじめて「東トルキスタン」の領域に含まれるようになった。そのため、東トルキスタン共和国に合流してからも、アルタイ区はイリ区にある共和国政府とは、あまり関係しなかった。

しかし、もっとも重要な理由は、ウイグル人、ウズベク人、タタール人のカザフ人に対する民族差別思想にあった。同じトルコ系イスラム住民といっても、実際はカザフ人とウイグル人・ウズベク人・タタール人とのあいだには、大きな文化的隔たりが存在している。ウイグル人・ウズベク人・タタール人のあいだには、オアシス農耕業・商業など同じ生産様式を共有することによって、民族的文化的違和感が非常に希薄であった。しかし一方でウイグル人・ウズベク人・タタール人は、草原遊牧業を営み、彼らとまったくちがう文化構造と社会構造をもっているカザフ人に対し、むしろ文化・経済の側面で差別をつけている。このような差別主義思想は、共和国の行政にも反映されていた。

1946年4月14日の第262号政府決議は、厳しい口調で次の事項を決定した。「一、財政省計画局によるアルタイ区の32万1360元の予算を批准する、二、その使い道について、アルタイ区官庁としては、厳格に審査し、使用状況を機関の首長と会計人員によって共和国銀行に報告しなければならない、…」。決議の日付から、…1946年度の予算であったとわかる。これをアルタイ区で5000万元の「勝利国債」発行を命じた1945年8月22日の第85号政府決議と考え合わせると、予算の金額はあまりにも小さかったと実感せざるをえない。

アルタイ区財政局長ラティプ・ムスタファが当時クルジャにいたため、この金は後に彼によってアルタイ区に運ばれたかもしれない。しかしここで注目すべきは、ラティプ・ムスタファの「クルジャの旅」がアルタイ・カザフ人分裂の大きな引き金となったことである。ラティプは5月にアルタイに帰ってきてからまもなくオスマン・イスラムのもとへ走り、そこから、オスマン・イスラムがチンギリ県、コクトカイ県、ブルルトカイ県において、本来共和国政府によるはずの徴税を独自に開始し、アルタイの町にあるアルタイ区政府、そしてクルジャにある東トルキスタン共和国政府との対決姿勢をみせはじめた。…

オスマン・イスラムの離反は、たんに民族的な要素によるものとは考えられない。そのもっとも重要な理由はオスマン・イスラムの反ソ感情である。…しかし、ラティプ・ムスタファがクルジャから帰った後ただちにオスマン・イスラム自らが徴税しはじめたことを考えると、ラティプ・ムスタファがクルジャで体験したカザフ人に対する経済的な差別が、オスマン・イスラムを離反に走らせた一つの要因ではなかと言わざるを得ない。

カザフ人 オスマン・イスラム
…ソ連が領内のトルコ系イスラム住民とイスラム教に対して弾圧策を取っていたため、東トルキスタン共和国のトルコ系イスラム住民のあいだには、ソ連に反感をもつ人びとが少なくなかった。旧政権と戦った当初はソ連の支援を受けていた一部の民族指導者にも、民族の解放を達成した後、東トルキスタン共和国におけるソ連の横暴に対して不満が噴き出した。アルタイ・カザフ人指導者オスマン・イスラムの場合はその一例であった。

オスマンは最初からアルタイ・カザフ人の反政府運動を指導してきた人物であり、カザフ人にオスマン・バトル(オスマン英雄)と呼ばれていた。しかし1945年9月にアルタイ区の東トルキスタン共和国政権が樹立された際、アルタイ騎兵連隊長・警察局長・各県長など重職に就いたのは、オスマンの側近ではなく、ソ連からきた人物と親ソのカザフ人であった。10月に中国国民政府との和平交渉がはじまってから、内政干渉という口実を与えないため、ソ連はかつてカザフ人ゲリラ・グループに支援したソ連製武器を強引に回収した。この二つのことはオスマンの強い不満を引き起こし、彼はアルタイ区の知事に任命されてからも、しばらく就任しなかった。

オスマンの反ソ感情は、彼の強い宗教信仰心につながる。30年代にソ連から新疆に亡命してきた一人のカザフ人ウラマーが、オスマンに「ソ連が宗教を滅ぼす」と教えたことが、オスマンに大きな影響を与えたとも言われる。オスマンの反ソ感情は、またカザフ人の反ソ志向にもつながる。オスマン自らの話によれば、ソ連がかつてカザフスタン共和国のカザフ人に対して残酷な鎮圧を行ったため、新疆のカザフ人は本来反ソ的であったという。そのため、アルタイ区が東トルキスタン共和国の一部になると、オスマンの複数の部下は、早くも国民政府に降伏した。

やがて和平交渉がはじまり、政府部門とアルタイ騎兵連隊にいたソ連人は撤退した。その後、1945年11月4日にオスマンはアルタイの町に行き、アルタイ区知事に就任した。そこで、彼はシャリーア法の遵守を要求し、「礼拝しない者に50の鞭打ち、断食を行わない者に100の鞭打ち、酒を飲む者に30の鞭打ちの刑を処するべき」との命令を下した。それまでとはまったく異なる統治策をとったため、オスマンは親ソ的カザフ人と衝突し、1946年3月19日にアルタイの町を去り、コクトカイ県で自ら軍を組織し、さらに5月からアルタイ区東部のチンギリ、コクトカイ、ブルルトカイの数県において独自に徴税を開始した。

1946年5月には、ソ連のタングステン採掘隊が、盛世才と1940年に結んだ協定に基づいてオスマンの根拠地コクトカイ県に入り、採掘しはじめた。オスマンは、「私は我が領土、我が宗教を侵略するあらゆるものに、いかなる道をも開かない」と、それを武力で駆逐するよう強く主張し、親ソ的アルタイ区副知事・アルタイ騎兵連隊長デレリカンはこれに反対した。アルタイ・カザフ人の有力者たちは、オスマンが住むク・ウェ地方に集まって対応を討議したが、結局共通の認識がみつからず、アルタイ・カザフ人はついに親中国国民政府と親ソ連の二つのグループに分裂した。


(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
オスマン | Osman, Ospan[カザフ] | 1899ころ~1951
1940年代に新疆で活動したカザフ人の首領.
盛世才政権は,アルタイのカザフ人に対し遊牧社会の改変を強制し,有力者を圧迫した.1940-41年の反乱は鎮圧されたが,43年のオスマンとダリルカンを指導者とする反乱は44年にかけて勢力を拡大した.
一方,44年8月にイリ地区で勃発したテュルク系ムスリムの反乱は,11月には東トルキスタン共和国の樹立へと進んだ.この反乱で組織きれた〈民族軍〉はアルタイにも進出し,ダリルカンと協力して承化(現アルタイ市)を攻略した.45年,アルタイ地区は反乱勢力の手に帰し,オスマンは地区専員に任ぜられた.46年,イリの反乱者と国民党政府との和平協定により新疆省連合政府が成立した後,オスマンはしだいに国民党に接近した.それにより国民党側はイリ反乱勢力の分断を図った.
49年,国共内戦の最終段階で中国西北部に進攻した人民解放軍は,省政府主席ブルハンの要請に伴い新彊に進駐した.アルプテキンら国民党系のウイグル人活動家がトルコに亡命したのに対し,オスマンは中国領内で抵抗を続け/が,人民解放軍に捕らえられ,処刑された.
政治的傾向は必ずしも明確でないが,アルタイ地域のカザフ人としての領域意識が濃厚であったとする評価もある.   (筆者:新免康)
[PR]

# by satotak | 2008-04-10 21:39 | 東トルキスタン