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2008年 03月 30日

シボ族の西遷 -瀋陽からイリへ-

「NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

旅の終わりに
シボ(錫伯)族(注1)という少数民族が、新疆のカザフスタン国境近くのチャプチャル・シボ族自治県に住んでいます。
草原の道の旅の終わりに、私たちはこのシボ族を訪ねることにしました。彼らは遊牧民ではなく、元々は遊牧民であった古代拓跋鮮卑(たくばつせんぴ)族の末裔ではありますが、数百年前から遊牧は行わず、半農半猟の生活を送っています。なぜ、最後に遊牧民でないシボ族を訪ねるのか? それは、彼らの存在が、遊牧民の近代国家の中での遇され方を象徴しているように思えたからです。

8月28日、チャプチャル・シボ族自治県では、西遷節というお祭りが行われていました。
西遷節とはその名の通り、シボ族が西へ向かって移動した時のことを記念するお祭りで、シボ族とは18世紀、清朝皇帝の命により故郷である中国・東北地方の瀋陽(しんよう)から苦難に満ちた5000キロの道のりを1年9か月の月日をかけて大移動し、この地に住み着いた人々なのです。

シボ族を大移動させた清朝の目的は、少数民族であるシボ族を用い、騎馬遊牧民ジュンガルの残党による反乱を制圧し、対ロシアの国境線を守ることにありました。シボ族はこの命令に従い、大移動の末チャプチャルに住み着き、戦争の時は銃をとって前線で戦い、平時にも軍備を怠ることなく、辺境の荒れ地を開墾して生きてきました。彼らの存在で、ほぼ現在あるような国境線が確定することになりました。

清朝皇帝の苛酷な命令に従ったシボ族ですが、その「草原の道」を西へたどる1年9か月の旅路の記憶は、シボ族受難の歴史として、今でも歌や絵画など様々な形で次世代に伝えられています。文字を読み書きできない人にも伝わる、文字によらない歴史の継承。私たちは、シボ族の西遷の旅路を、史実に基づき40年にわたって絵に描き続けている画家、何興謙(かこうけん)さんを訪ねました。

何さんは元々学校の絵の先生で、ある時、自分たちの歴史を後世に伝えるため絵を描くことを決意し、現在まで50枚もの西遷の絵を描き続けています。ある時は極寒の洞窟でひと冬を過ごし、またある時は十分な食料もなく乾燥した砂礫の原を強行する長く苦しい旅路でした。そのため逃亡者が続出したのですが、その逃亡者は捕らえられ、皇帝の命に背いたとして処刑されました。自分たちの仲間を自分たちの手で処刑するという、筆舌に尽くしがたい体験を描いた絵を目にすると、ある感慨が私たちをつつみます。

[拡大図]

その感慨とは、次のようなものです。
これまで私たちは、騎馬遊牧民のかすかな歴史をたどってきました。国境にも民族にも囚われることなく、ユーラシアの大地を風のように走り抜けていった遊牧民を、国境線の中に押し込める役割を担ったのがシボ族ですが、彼らもまた時の権力によって暴力的に強制移住させられた民でした。少数民族を制するのに、少数民族の手をもってするという、近代国家の非情さ。そして、その苛酷な運命に従順に処して、それを誇りとしている人々が、今も中国の片隅で生きています。
ごく平凡な日々を生きているシボ族の人々、そのひとりひとりが、こうした近代の歴史を背負っているのだなあ、と思うのです。


(注1) シボ族シベ[人] | sibe[満洲語]
中国東北の嫩江(のんこう)流域を原住地とし,ツングース系言語を話す民族. シボ人とも. 漢語では錫伯と表記する。2000年の中国の人口調査によると, 人口は約18万9000人, そのうち約13万3000人が遼寧省に, 約3万5000人が新疆ウイグル自治区に居住する.

1692年にモンゴル族ホルチン部の支配下から, 清朝の直接支配下に移り, チチハル, ベドゥネ(吉林省松源市), 吉林の駐防兵となり, 99年から1701年にかけて, チチハル, ベドゥネのシベ族は盛京(遼寧省瀋陽市)に, 吉林のシベ族は北京に移駐した. さらに清朝によるジュンガル平定後の1764年に盛京のシベ族の一部が現新疆ウイグル自治区のイリに移されて駐防兵となった.

この集団は1954年にイリ川南岸に成立したチャプチャル・シベ自治県の礎となり, 現在約1万9000人のシベ族が8集落に分かれて居住し. 農耕生活をしている. シベ族はこの集落のことを, 現在も清朝時代の軍事組織, 八旗の基層単位であるニルと呼ぶ.

絶対的多数派民族がいないイリにおいては, 満洲語の一方言であるシベ語口語をはじめ, 自民族の客観的属性の多くを保持しているのに対し, その他の地域では民族の客観的属性のほとんどを失い, 漢化が進んでいる.
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:楠木賢道) )

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# by satotak | 2008-03-30 19:59 | 東トルキスタン
2008年 03月 21日

イリ帰還後のトルグート

モンゴル国立中央図書館蔵『トルグート王統記』について」(宮脇淳子 2007)より:

ハズルンドが見たトルグート
…20世紀初めに新疆トルグート部を訪ねた、デンマークの有名な探険家ヘンニング・ハズルンド・クリステンセン... 彼は、1927-30年、スウェーデンの大探検家スヴェン・ヘディンが統率した中央アジア科学探検隊の一員になった。1928年から29年にかけて、ハズルンドは、新疆ウルムチの探検隊本隊から分かれて一人で天山山脈中のトルグートの牧地を訪れ、そこで一冊の古文書史料に遭遇したのである。…

…ハズルンド著『蒙古の旅』(内藤岩雄訳)の記述を利用しながら見てみよう。

1928年9月、ハズルンドはモンゴル語のできる二人の支那人従者とともに、支那官憲に気取られないよう、新疆ウルムチを出発した。トルファン盆地から山中に入った三日目、毛皮の帽子とコザックの軍服を着た二人のトルグート人が彼を出迎えた。彼らはウルムチから付いてきていたのである。一行はカラシャール(焉耆)に通ずる大道路を避けて、天山山脈の裾野にわけ入った。山肌を進み、やがてホシュート部の族長の野営地に到着した。おそらく小ユルドゥズ渓谷であると思われるこの一帯で遊牧していたホシュート部は、1771年にヴォルガ河畔からトルグート部とともに帰還した部族であった。まだ若いホシュート部族長の夫人はトルグート部族長の王女で、彼女の弟が、将来トルグート部を継承するはずであった。

この地でホシュート部の従者も加わって騎馬行列のようになった一行は、高い山の窪地で野営し、さらに峠を西に進み、渓谷を降り、渓流が大河となる低地の草原に出た。大ユルドゥズ渓谷と思われる。突然、トルグート部の指導者、テイン・ラマの冬の館邸である純白の町が出現した。これが、エレゲトのトルグート城であった。頂上に銃眼を設けた高い城壁に囲まれ、衛門だけが支那式で、あとはチベット(西蔵)様式の建物であった。…

…ハズルンドは1929年の新年、摂政(テイン・ラマ)の冬の館邸エレゲトから北へ一日行程のシャラ・スム(黄色い寺)廟を訪ねた。シャラ・スムは、広々とした谷間の南斜面に建てられた、九つの寺堂から成る、大建築物であった。一万五千いたラマ僧を、セン・チェン(テイン・ラマ)は摂政になったあと、三分の二以上減らした。仏教の教義に精通したものか美術工芸に堪能な者以外は、遊牧民生活に戻すために送り還したのである。

寺院には立派な図書館が付属していた。書籍の数は莫大であり、ハズルンドの時間は限られていたので、書籍の書名と内容に知悉しているラマたちに質問するだけにとどめなければならなかった。文庫はラマ教の寺院にありふれている西蔵の経書のみから成っているように思われたが、ついに住職との話で、トルグートの歴史家によって幾代にもわたって編纂せられた「トルゴト・ラレルロ(トルグートの起源)」と題される古文書の存在することがわかった。この著述は他の多くのトルグートの写本と同様に、この種族によって殆ど宗教的畏敬を以って見られていて、ただ選ばれた少数の者ばかりがこれを保管した楼閣に出入りすることが出来た。…

テイン・ラマの運命
テイン・ラマは…トイン・ラマ・ルーザン・チェレン・チュムベルと言い、中国側では「多活仏」と記される。彼は1890年、トルグート第五代ハーン、ブヤン・チョクトの第四子として生まれた。ヴォルガ河から帰還した旧トルグート部長ウバシ・ハーンから数えて七代目の直系の子孫であっが、チベットのセン・チェン活仏の化身と認定され、1897年、七歳でチベットに行き、戒を受けて修行し「トイン(沙弥)・ラマ」となった。

一方、トルグート部族長の方は、1891年ブヤン・チョクトが病気で亡くなると、多活仏の兄である長男ブヤン・モンケが第六代ハーンに即位した。辛亥革命後の1917年、ブヤン・モンケが突然死に、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。当時の新疆の実力者、楊増新(新疆都督)は、未亡人のセルジブジドにトルグート事務の処理を命じたが、実権は多活仏の手中にあった。1922年セルジブジドが亡くなると、北洋政府国務院は、多活仏が摂政となってハーンの事務を行うように命じた。…

1932年、新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起こったとき、省主席(金樹仁)は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェン(トイン・ラマ)をウルムチに招いた。セン・チェンは彼の有力な首領たちに取巻かれて到着したが、なんらの相談もなされなかった。というのは、第一日の饗宴の後、トルグートたちが省主席の衛門で座って茶を飲んでいたとき、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。…

イリ帰還後のトルグート部
乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部が、ロシアを離れて自発的に清朝に帰属した(1771年)ことを、ことのほか喜び、自ら、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。…

乾隆帝は詔を発し、トルグート部を新旧二部に分け、それぞれジャサク(旗長)を設けた。1630年ヴォルガ河畔に移住し、今回イリの故郷に戻ったトルグート部は、「ウネンスジュクト(真の信仰を持つ)旧トルグート」と名づけ、十部に分け、ウバシに管轄させた。ウバシはハンとなり、以下の王公は、モンゴル各部と同様、それぞれ、親王、郡王、ベイレ(貝勒)、ベイセ(貝子)、公、一等タイジ(台吉)に封じられた

一方、ジューンガル帝国の構成員であって、1755年に清軍がイリを攻めた時にヴォルガ河畔に逃げ、今回再びイリに帰ってきたトルグートを、乾隆帝は「チンセトキルト(誠の心を持つ)新トルグート」と名付け、首長のシェレンを郡王に、他の一人をベイセに封じた。シェレン率いる新トルグート部は、おそらくジューンガル帝国崩壊後、ロシアに逃げてヴォルガ・トルグート部に合流したとき、そこで「新トルグート」と呼ばれたのであろう。…

さらに乾隆帝は、翌1772年に彼らに牧地を賜った。…彼らに与えられた牧地は、…すべてイリ将軍の統括下にあった。

1783年になって、乾隆帝の詔により、旧トルグートは東西南北の四路に分けられることになり、四人の盟長と三人の副盟長が置かれた。新トルグートは左右二翼に分けられ、正副各一人の盟長が置かれた。…

旧トルグート南路・ハーン旗ジャサク、ジョリクト・ハーンであったマハバザルは、1852年に亡くなり、息子ラトナバザルが後を継いで、1857年にブヤン・オルジェイトと改名した。同年、ブヤン・オルジェイトは、ヤンギサールその他の地方における盗賊を掃討するのに功があったことを清から賞せられ、ウネンスジュクト盟の副盟長の地位を与えられた。しかし、1864年に勃発したムスリムの大反乱(同治の回乱)により、彼はイリの牧地をことごとく失ってウルムチに逃げてきた。京師(北京)に行って皇帝に謁見したいという願いが聞き入れられ、1868年、ブヤン・オルジェイトは北京に赴き、清の同治帝に拝謁することができた。翌年、ウネンスジュクト盟長に賞せられ、さらに1872年には御前走行を命ぜられた。ブヤン・オルジェイトは1876年に病没し、息子のブヤン・チョクトが後を継ぎ、父のハーン号と盟長を引き継いだ。…

ブヤン・チョクト・ハーンは1891年に病没し、長子ブヤン・モンケが跡を継いだが、盟長の事務はその祖母が取った。1896年に今度は、盟長とジャサクの事務をブヤン・モンケの母が取ることになった。1902年、ブヤン・モンケが18歳になったので、ようやく自ら印務を取るようになったとある。夫人が摂政になる伝統があったらしい。

ブヤン・モンケの死後(辛亥革命後の1917年)、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。マンチュクジャブの息子、ハーン・ゴンボ・デジドは、ゴンボ・ダンジンという名前であるが、現代中国の研究書の系図にも名前が掲載されているから、少なくとも戦後まで生きていたことは間違いない。…

現モンゴル国西部のホブド一帯にはかなりの数のトルグート人が住んでおり、もともとアルタイ山中のブルガンにいたという。彼らの言うところでは、毛沢東とスターリンの間で、新疆とモンゴル人民共和国の国境線が一夜にして引かれることになった。このとき、あわててアルタイ山脈を越えてこちら側に来たのが自分たちで、山の向こうに留まった同族が新疆トルグート・モンゴルであるという。…
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# by satotak | 2008-03-21 13:12 | 東トルキスタン
2008年 03月 16日

民族を追って 次は何処へ?何を?

「民族は…?」をテーマに、主にテュルクとモンゴルについて見てきたが、早2年が経ってしまった。そして何が分かったのか? 残念ながら「民族」の輪郭が益々ボヤケてくるばかり。
敢えて言うとすれば、仏の教えに擬えて、「民族即是空:民族には実体がない」と言ったところか。

明確な領土と国境そして国民の存在を前提とした近代国家(国民国家)の中で民族はどんな意味を持つのか。「民族自決」とは言うけれど、この「民族」は日本独自の用語とか。本来は「民族自決」ではなく、「人民(people)自決」ではなかったのか。

しかし、こんな言い草を、故郷を捨て家族を悲しませてまで、東トルキスタンの独立を夢見て運動しているウイグル人が聞いたら、何と思うことだろうか。


「民族」の輪郭は益々ボヤケてくるばかりなのだが、では次は何に焦点を当ててみようか?また今年の旅行はどこにしようか?
インド…シベリア…沿海州…西モンゴル…新疆北部?

インド:大分前に載せたことがあるが、インドにムガル朝を建てたバーブルはチムール朝出身のテュルク=モンゴル系の人物であった。これは16世紀のことであるが、それ以前にインドにあった奴隷王朝と言われる国もテュルク系の人々が興したものであったらしい。これは面白いと思ったが、しかし適当に詳しくて手ごろな文献が見つからず、私の手には負えそうもない。

シベリア:中国、モンゴル、カザフスタンの北に連なるシベリア南部は当然古くからのテュルク=モンゴル系民族の活躍の場。現在でも、トゥヴァ共和国など、テュルク=モンゴル系民族の名称を付したロシア連邦内の共和国が存在する。しかしこちらも手ごろな文献は見つからず、関心のある地域を訪ねるパックツアーもないようだ。

沿海州:テュルク、モンゴルとはちょっと離れるが、「デルス・ウザーラ」を追ってみるのも面白そうだ。大分前にテレビの深夜放送で見て、気になっていた黒澤明の映画、題名も分からぬままでいたのだが…調べてみると、「デルス・ウザーラ」。ツングース系の猟師デルス・ウザーラを主人公としたこの物語(ノンフィクション)はもちろんのこと、作者のロシア人アルセニエフとその家族の人生も興味深い。時代は20世紀初頭、舞台はハバロフスク、ウラジボストク東方、日本海に面した山岳地帯。こちらは資料もいろいろとある…映画のDVD、アルセニエフの著作の翻訳本、岡本氏のマニアックな著作。しかし…またの機会に後回し。

ジュンガリア(新疆北部):1755年、最後の遊牧帝国と言われるジュンガルが清に滅ぼされた後、ジュンガルが支配していた人々や土地はどうなったのだろうか。
現在の中国新疆ウイグル自治区は東トルキスタンとも呼ばれ、そこに住む民族と言えばテュルク系民族であるウイグル族がまず頭に浮かぶ。しかし実際はどうだったのか。天山山脈の南と北では事情が異なると思うが、天山山脈の北、ジュンガリアはもともとモンゴル系やカザフ系の人々が遊牧していた土地ではなかったか。
カシュガル方面には何度か行ったことがあるので、今年はジュンガリアに行ってみようか。できれば西モンゴルからアルタイ山脈を越えてジュンガリアに抜けるコースがあれば…と思ったが、見つからない。
そんな訳で、今年の旅行は、西安~トルファン~ハミ~バリコン~ジムサル~アルタイ~カナス湖~ウルホ~精河~イーニン~ウルムチ~西安というコースに申込もうと思っている。6月19日出発の予定だが、参加者が集まるかどうか。
ジュンガリアの北端にあるカナス湖も、最近は観光開発が進み、中国人観光客が多いとか。あまりゾットしないが、これもジュンガリアの現実と諦め、現実を直視してくることにしよう。

現代のウイグル族と言えば、カシュガルのエイティガル寺院を持ち出すまでもなく、イスラム教徒として知られるが、18世紀のカシュガルやヤルカンドも同じこと。これら諸都市の実権を握っていたのはホージャと呼ばれるイスラム教の宗教貴族だった。しかしイリに本拠を置くジュンガルは違った。チベットから青海、モンゴル、ジュンガル、そして遥かボルガ川沿いのトルグートまでがチベット仏教の勢力圏だった。現代のジュンガリアに仏教はあるのか。

「チベットのラサで暴動 僧侶がデモ」と昨日から報じられている。北京オリンピック開催の今年、中国で何が起こるのか。
中国における「民族」も分かり難い。「民族識別」による56民族とか、「民族区域自治」に基づくという複雑な行政区の構成…そして、そもそも「漢族」とは何なのか?

こんなことも含めて、これから数ヶ月は、ジュンガリアにフォーカスしてみたい。
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# by satotak | 2008-03-16 12:47 | 民族・国家
2008年 03月 13日

トルグート部の帰還 -ジュンガル滅亡後のジュンガリア-

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国」(講談社 1995)より:

トルグート部とロシアとの同盟関係
1755年のジューンガル征伐の際、清軍は最初は無血でイリに到達したが、ホイト部長アムルサナーの叛逆とハルハのチングンザブの蜂起のあと、各地でジューンガルの残党が清軍を襲撃する事件が起こった。清軍がこれらの残党を掃討し続けている間に、天然痘が大流行し、オイラトの人口は激減した。なかでもジューンガルの人びとはほぼ全滅したという。イリ地方は、ほとんど無人地帯になった。

これを知ったヴォルガ河畔トルグート部長ウバシは、1771(乾隆36)年初め、配下の3万3千家族を引き連れてヴォルガ河畔を出発し、カザフ草原を過ぎてバルハシ湖沙漠を遠回りし、7ヵ月後にイリの故郷に到って、清の乾隆帝の保護を求めた。その年は暖かく、ヴォルガ河が凍結しなかったので、ヴォルガ右岸(西方)のカルムィク(トルグート部とドルベト部とホシュート部など) 1万数千家族は、渡河できずに取り残された。その子孫が、いまのロシア連邦内のカルムィク共和国の人びとである。

ここで、1630年にヴォルガ河畔に移住(注1)したあと1771年にそこを去るまでの、140年にわたるトルグート部とロシアの関係について、簡単に説明しよう。
アジアの奥地からやってきて、ヴォルガ河畔の草原を支配した新しい遊牧民カルムィク(トルグート部を中心とするオイラト)は、モスクワ政府にとって最初歓迎されざる客であった。モスクワ政府がようやく懐柔したヴォルガ左岸(東方)のノガイ・タタルは、カルムィクに駆逐されて、ヴォルガ河を渡ってクリム・タタルに合流したからである。しかし、1654年クリムとオスマン・トルコが同盟すると、モスクワ政府の政策は、カルムィクの軍事力を利用する方向に転換した。

モスクワは、カルムィクにロシアの町での交易の許可を与え、クリムを攻撃する見返りに贈物や報酬を約束したが、カルムィクがクリムの配下に入ったノガイを襲撃するのは、かれら自身の領民や牧地拡大のためだった。カルムィクたちはその後ずっと、報酬を受け取っても、モスクワの希望通りに行動したりはしなかった。

ヴォルガに移住したホー・オルロクの曾孫アユーキは、父プンツクの死後1669年にトルグート部長になった。かれは、1673年にモスクワ政府と同盟を結んだ。ウクライナ領有をめぐる紛争が激化していたので、ロシアはカルムィク騎馬隊の従軍を必要としたのである。モスクワ側から見れば、この同盟でアユーキは臣民として忠誠を誓ったことになったが、アユーキにすれば、ライバルの諸首長に勝って、多数の領民支配をロシアに公認されたことになった。

1677~83年に及ぶロシア・オスマン会戦の間、カルムィクはロシア側に立ったが、オスマンとクリムが多くの贈物を携えた使節をアユーキに派遣し続けたので、1683~96年アユーキは中立を守った。この間、アユーキ自身はモスクワとの独占的関係によって莫大な富を蓄え、他のカルムィク首長とは比較にならない強力な権力を手中にした。1697年、アユーキとロシアのゴリツィン公爵は、対等な権力者間の新たな同盟条約にサインした。…

トルグート部とジューンガルとのライバル関係
…1641年頃生まれたトルグート部長アユーキは、ジューンガル部長バートル・ホンタイジの孫であった。つまり、センゲとガルダンの甥であり、ツェワンラブタンの従兄弟であった。ダライラマ五世の摂政サンギェ・ギャツォは、1694年にジューンガル部長ツェワンラブタンにホンタイジ号を授けたあと、1697年ガルダンがアルタイ山中で死ぬ直前、ダライラマ六世の名のもと、なんとトルグート部長アユーキに、ダイチン・アヨシ・ハーンの称号を授けたのである。

ジューンガルのガルダンは、母方ではあるが、それでもチンギス・ハーンの弟の子孫と見なされたグーシ・ハーンの孫である。トルグート部長アユーキのハーン号には、チンギス統原理からすれば、もはやなんの根拠もない。ジューンガルのガルダン・ボショクト・ハーンの甥というだけだった(注2)。チベットのダライラマ政権すなわち摂政サンギェ・ギャツォは、ヴォルガ河畔で異教徒たちに君臨し、大勢力を築いていたアユーキを、遊牧民の間で信仰されていたチンギス統原理を無視して、全オイラトのハーンと承認した。ゲルク派にとって、ヴォルガ河畔のオイラト人は、最も遠隔地にいる、自派の有力な施主であったからだろう。

一方のアユーキにとって、このダライラマ政権によるハーン号授与は、周りのチンギス・ハーンの子孫のイスラム教徒たちに対して、実に有効な切り札となった。…

ホンタイジ号を有するジューンガル部長と、ハーン号を有するトルグート部長は、その後さらにいっそう、オイラト部族連合の盟主の地位を争うライバルになった。…

1698年、アユーキは、自分の従兄弟のアラブジュルを団長とする大使節団をチベットに派遣した。チベットからハーン号を授かったアユーキは、全オイラト統合の意図を持ったのである。ところが、父と対立していたアユーキの息子の一人サンジブが、自分の領民1万5千家族を連れて、ジューンガルのツェワンラブタンのもとへ走った。…およそ6万人の遊牧民がトルグート部からジューンガル部へ移ったせいで、軍事的にも政治的にもツェワンラブタンの勢力が優勢になり、アユーキは、ジューンガル制圧と全オイラト統合をあきらめざるを得なくなった。

一方、チベットに派遣されたアラブジュルは、ダライラマを訪問して帰国しようとしたところ、ツェワンラブタンとアユーキの間が不和になり、ジューンガルを通過できなくなった。アラブジュル一行は、やむなく清朝皇帝を頼って行き、嘉硲関(かよくかん)外に牧地を与えられた。かれらトルグート部は、1731(雍正9)年にエジネ河畔に牧地を移されて、エジネ・トルグートとよばれるようになった。…

ロシアと清朝のトルグート部への対応
アユーキ・ハーンが1724年に死んだ後、…継承争いのあと、アユーキの長男チャタドルジャブの息子ドンドクダシがトルグート部長となった。

ロシアの干渉のせいで長びいた内乱と、ロシア人の入植による遊牧地の減少の結果、カルムィクのなかでは、家畜を失って貧窮化し、漁師になる者やロシア正教に改宗する者や、子供や自分をロシア人に売る者が出てきた。しかも漁業権と塩はロシア人が握り、カルムィク人をロシアの法律で裁いた。ロシアは、カルムィクの経済力と軍事力が衰退したので、新たな遊牧民カザフとの関係を強化していた。このような中ですでに1747(乾隆12)年、トルグート部長ドンドクダシはロシアを去ろうとしていた。…

1761年、ドンドクダシの息子ウバシが17歳で父の後を継いだ頃、ヴォルガ河沿いにウクライナ人、ロシア人、ドイツ人の入植が進み、カルムィクは水のない荒れ地に追いやられた。現地の事情を知らないイェカテリナ二世は、カルムィクの抗議に耳をかさず、モスクワで地図を見ながら、カルムィクが遊牧する土地はたくさん残っていると断定した。その上、オスマン・トルコとの戦争に、応じるのが無理な数のカルムィク騎馬兵の参加を命じた。

すでに、ジューンガル部滅亡の情報が、ヴォルガ河畔にも届いていた。イリのオイラト人口が激減したことを知ったトルグート部は、今度こそ絶望的な状況のヴォルガ草原を脱出して、父祖の土地イリに向かった。ロシア配下のコサックやバシキル人や、カザフやキルギズなどの追跡と攻撃を受け、7ヵ月に及ぶ困難な逃避行で10万人を失った末、ウバシ率いる7万人のトルグートは、1771(乾隆36)年にイリ地方に帰還したのである。

乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部がロシアを離れて自発的に清朝に帰属したことを、ことのほか喜んだ。乾隆帝はみずから、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。そのなかの、頭韻を踏んだ四行詩を、満洲語原文から翻訳して紹介しよう。

〈このトルグート部というもの、
これらの先のハンはアユキであった、
ここに至ってウバシはオロス(ロシア)に背いて、
エジル(ヴォルガ)の地から降って来た。

懐柔したのでもないのに皇帝の徳化を慕ってきたのである、
手厚く恩を及ぼしあまねく慈しむべきである、…〉

清朝は、1636年、満洲人、モンゴル人、漢人の三種族から推戴された共通の皇帝が、チンギス・ハーンの孫のフビライ.ハーンが建てた元朝から統治の正統を受け継いで誕生した国家であった。ジューンガル征伐ののち、思いもかけずロシアからトルグート部が帰ってきたことは、清の徳を天下に知らしめる慶事であった。乾隆帝は、尊敬する祖父康煕帝も果たせなかった、全モンゴルの帰順という偉業を成し遂げたことに、心から満足したのである。

一方、カルムィクに脱走されたロシアの方だが、当時イェカテリナ二世が進めていた拡張主義政策に、カルムィクだけでなくロシア南方のさまざまな集団が不安を感じていた。ヴォルガ・カルムィクの大集団が、ロシア人に妨害されずに逃亡したことで、ロシアの辺境守備隊の無能ぶりと人力の不足が暴露された。カルムィクの背反に勇気づけられたクバン人やカバルダ人は、もはやカルムィクの援助のない草原の小規模のロシア守備隊を盛んに襲撃し、ロシアの町に対するカザフの掠奪も増加した。バシキル人は反抗的になり、伝統的な自由が脅かされていると感じたけれどもカルムィクと違って行く先のないヤイク・コサックは、ロシア政府に対して武装蜂起した。カルムィクが脱走した2年後、南ロシアすべてが、プガチョフの乱(プーシキンの小説「大尉の娘』の題材となった)として有名な大暴動の炎の中にあった。

(注1) トルグート部のヴォルガ河畔への移住
後世ヴォルガ河畔で書かれた年代記『カルムィク・ハーン略史』は、1630年のトルグート部の移住の背景をこのように伝える。

四オイラトで乱となった時、トルグートのタイシであったホー・オルロクという者が、「そのように互いに殺し合ってアルバト(属民)たちが尽きるよりは、遠い土地に行って異姓のウルスの近くに住んで、かれらと戦い、戦利品を取って暮らす方がましになろうぞ」と考えて、1618年にカスピ海の方に心利いた人を遣わして、その土地は主がないと確かに知って、1628年に自分のアルバト(属民)のトルグート、及びホシュートとドルベト5万家族を連れて、6人の息子を従えて、もとの牧地を捨てて、日の沈む方向に出発した。ジャイ(ウラル)河に到らないうちにエンバ河の傍らに牧地を持つ一群のタタルを打ち負かし、ジャイ(ウラル河)を渡ってノガイ、キタイ、キプチャク、ジテシェンというタタル人たちを征服して、1630年にイジル(ヴォルガ河)に到った。

(注2) オイラト部族連合系図
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# by satotak | 2008-03-13 12:00 | 東トルキスタン
2008年 02月 05日

草原の道 風の民 -「歴史」の痕跡-

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著「 NHKスペシャル 新シルクロード2」(NHK出版 2005)より(筆者:矢部裕一):

…東はモンゴル草原から西は黒海北岸の南ロシア草原まで、7500キロにおよんでユーラシア大陸に横たわる草原地帯があり…、それらの草原を「草原の道(ステップ・ロード)」と総称します。
これは、東西交易路であるシルクロードのひとつで、砂漠のオアシスをつなげるオアシス・ロードより歴史的に古くから確認されていて、紀元前5世紀に記されたギリシャのヘロドトスの歴史書に、すでにその存在が記述されています。しかも水や草があるため馬の移動に適していて、ラクダに乗るよりはるかに速く旅することが可能でした。

この「草原の道」の存在が、あまたの騎馬遊牧国家――スキタイ、匈奴、突厥、モンゴル、ジュンガル――がユーラシアの広い地域を支配することを可能にし、時に広大な世界帝国を出現させる要因となって、ユーラシアの歴史そのものを動かしてきました。特に、ユーラシア大陸に横たわる「草原の道」の中でも、中国の天山山脈はそのほぼ中央に位置し、ヨーロッパ世界と中華世界を結ぶ上で重要な場所でした。
この天山山脈北麓の草原地帯(天山北路)をたどりながら、その土地土地に残っている騎馬遊牧民の歴史の痕跡を撮影していこうというのが、私たちの取材の眼目なのです。…

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遊牧民~近代国家
ユーラシア内陸部が清朝とロシア帝国に割拠されていった時代は、また国というものが近代国家としての条件を整えていく時代でもあったようです。
国民からすべからく徴収する税金と兵役を近代国家システムの大きな要素と考えるなら、それは、国民があるひとつの住所に定住し、国が国民をひとりひとり把握しうることを暗黙の前提としています。ところが遊牧民というのは、決まった住所というものを持たず、その年その年によって、またその季節によって、気温や天候に左右されながら草を求めて移動していきます。

その移動は全く自由に行われているわけではなく、ある季節にある部族が使える牧草地は代々決まっているそうなのですが、それでも例えば大規模な雪害などがあると、遊牧民は国境すら越えた大移動を行ったりもしてきました。こうした遊牧民の流動性というものは、国民全員から徴税と徴兵を行うことを基礎とする近代国家の成り立ちにそぐわないともいえます。特に清朝の時代は、ロシア帝国と清朝の間で国境線を巡って緊張が続いていたのですから、そんな時期に遊牧民に自分の都合で国境線を行ったり来たりされては、国としても困るのです。

この遊牧民の「まつろわぬ民」としての側面が、近代国家のシステムから遊牧民を阻害する要因となったとしても不思議ではありません。清朝以降、遊牧民というものが政治・社会の表舞台から次第に追いやられてしまったかのような印象を受けるのは、この近代国家と遊牧民の本質的矛盾によると考えられるのではないでしょうか。

現在、世界の中で、昔ながらの生活様式を残している騎馬遊牧民は限られています。モンゴル国と中国の内モンゴルとこの新疆が、世界で最後に残された騎馬遊牧民の大地です。誤解を恐れずに言うなら、往々にして彼らはその国で文化的に遅れた人々と誤解されることが少なくなく(実際に、教育と医療という面から見て、非常にハンディキャップを負うことになります)、自文化と伝統を大切にしている点は認められつつも、その存在そのものが前時代の遺物と見られがちです。

しかし、いま世界の先端では、近代国家を覆っていた堅い殻が様々な動因によって溶け始めていて、人も物も全て国境を越えて流動するのが当たり前になっていますが、そうした世界の中で遊牧民の定住しない流動性を考えてみると、これまでの見方とは全く違った、遊牧に新しい価値観を見出す視点が意味を持ち始めています。

一方、私たちが直接会う遊牧民は、そうした外部からの価値付けとは全く別の所で生きているのも事実で、彼らの中には遊牧より定住生活の物質的豊かさを望む人々も少なくないし、当然彼らも贅沢な都市生活に憧れ、お金が欲しいと切に願っていたりもするのです。そういう遊牧民たちに、あなたたちの遊牧生活は、実はとても先端的な生活スタイルなのですよといったところで、その言葉は彼らには届きそうにありません。結局、彼らがどのような生活スタイルをとるかということは、彼ら自身が決めていくことなのでしょう。その結果として、遊牧という生活スタイルが滅んでしまうなら、それはそれで仕方のないことだという気がします。…

民族~歴史
60日間、1万キロにおよぶこの撮影の旅で、私たちは一体何を探していたことになるのだろうと、自問してみたくなりました。

いくつもの遺跡を訪ね、おそらくは数百年もの間、姿を変えていないだろうと思われる広大な風景の前に立ち、時には遊牧民に先祖から代々伝わってきた歌に耳を傾け、時には民族大移動の記憶を描いた絵画を目にしてきました。
そのひとつひとつの向こう側に私たちが探していたのは、文字で記録されることなく、大文字の「歴史」の中に生きた痕跡を何ら残さずに、普通に生き、普通に死んでいった無数の遊牧民の、確かにそこに生きていたという、かすかな痕跡だったのではないでしょうか。
そして、その無数の人々の生きた痕跡をたどりながら、私たちは二つの問いを常に反芻していたように思います。
民族とは何か?
そして、そうした民族が背負っている「歴史とは何か?

私たちが取材で現地の人を紹介される時、この遊牧民はカザフ族です、この遊牧民はモンゴル族です、この人々はウイグル族です、といったように、全てが中国56民族(漢民族と55少数民族)にカテゴライズされ、目の前に現れることになります。しかしよくよく調べてみると、民族とはそれほど単純なものではなく、特にユーラシア内陸部では民族が複雑に交錯し、融合し、重なり合っているため、今の民族の区分は、中華人民共和国成立を契機に分類された、とても新しい概念であることがわかります。

民族の意識が隆起してくると、決まって民族の記憶としての「歴史」が声高に語られ始め、その「歴史」が語られることで民族意識はさらに高揚するという事態が、90年代以降、世界各地で見られるのはご存知の通りです。でも、民族紛争を生起させるほど、民族の違いというのは、決定的なものなのでしょうか? そして、そんな民族意識を高揚させるために語られる「歴史」に何の意味があるのでしょうか? そういう問いが、取材している間、何度となく私たちにやってきました。

私たちが、撮影の合間によく立ち寄った拌面(ばんめん、ウイグル語で「ラグメン」)屋がありました。新疆の西の端、カザフスタン国境に近い街道沿いの店です。
そこに17歳の少女が働いていて、何のことはない、その女の子がかわいいのでどうしても私たちの足がその店にむいてしまうだけなのですが、彼女は回族でした。店は父、母、姉とその少女の4人でやっている小さな拌面屋です。
その店のある村は、とても小さな何もない村で、少女は生まれてからその故郷の村を離れたことがほとんどなく、遠いウルムチや北京といった都会に憧れながら、それでも毎日母を手伝って拌面を作っています。

最近、中国でもインターネット・カフェが流行っていて、田舎の町にもあったりするのですが、17歳の少女は一時間かけて歩いて隣町に行き、インターネット・カフェでチャットをしたりする楽しみを見つけ、でも親に知れるととても怒られるのだと話していました。
そういう話を聞くと、この21世紀初頭に生きる17歳の少女のリアルが、日本に住む私たちとも地続きのように思えて、そういうことと彼女が回族であることにはあまり関係がないと思えてきます。

ウルムチに滞在中の私たちに何度となくウイグル族の踊りを披露してくれた19歳の女の子は、パートタイムのダンサーで、私たちも取材で訪れたチャプチャル出身の、ウイグル族シボ族のハーフでした。
彼女は、大学でドイツ語を勉強したいと希望しながら、家に大学に行くだけのお金がないので、幼稚園の子供たちにダンスを教えて進学資金を貯めています。北京オリンピックの応援団の一員として、チームダンスを今から練習しているといい、昼間は朝9時から幼稚園で働き、夜も毎日ダンスの練習に明け暮れています。
彼女は、普段いつも微笑んでいるのですが、時々その笑顔が少し哀しく見えることがあって、それはおそらく彼女の家が経済的にとても困っていることに起因していると思われるのですが、でも、そういうことを彼女が私たちに向かって口にすることはないのでした。
ただ、彼女が日本のMr.Childrenの歌がとても好きだと言っていたのを思い出します。そういう、今の中国に生きている19歳の女の子のリアルと、彼女がウイグル族とシボ族の血を受け継いでいることに、何の関係もないように思うのです。

もしかしたら、回族であったり、ウイグル族とシボ族のハーフであったりすることが、つまり少数民族であるということが、経済的に不利な境遇を作る原因になっているのかもしれません。でも、彼女たちの今の生活は、そういう民族にカテゴライズされるような巾には収まりきっていないように思えるのです。…
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# by satotak | 2008-02-05 12:49 | 東トルキスタン
2008年 01月 12日

西暦1700年前後のタリム盆地とジューンガル、チベット

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ガルダン、タリム盆地を支配する
ジューンガル部長ガルダン・ホンタイジがホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜とし、オイラトの指導権を握ってまもない1678年冬、ダライラマの使者がやってきて、ガルダン・ホンタイジに、持教受命王(じきょうじゅめいおう、テンジン・ボショクト・ハーン)の称号を授けた。…「持教」は…オイラト最初のハーン、ホシュート部のグーシ・ハーンの称号と同じである。ダライラマ五世は、ガルダンを、グーシ・ハーンと同様、[チベット仏教]ゲルク派の擁護者としての全オイラトのハーンと認定したのである。…

ホシュート部のオチルト・ハーンを捕虜としたガルダンは、本家の青海ホシュート部を併合しようと、1678年青海に進軍したが、途中で軍を還して、甘州近辺のサリ・ウイグル(シラ・ヨグル)部族から貢納を徴収するだけにした。ダライラマからハーン号を授かったのはその冬であるから、青海侵入をダライラマ五世に止められたのかもしれない。

ガルダンは、1679年にハミとトルファンを征服し、翌1680年にはアルティ・シャフル(六城(ろくじょう)地方、タリム盆地西部の六都市のこと)に遠征して、カシュガル、ヤルカンド、ホタンなどの都市を服属させた。この地方は、チンギス・ハーンの第二子チャガタイの子孫である東チャガタイ・ハーン家(モグリスタン・ハーン家)の領土であったが、この頃、オアシス都市に住むイスラム教徒の指導権を握っていたのは、マホメットの子孫と自称するホージャ家の一族で、これが白山党(はくざんとう)と黒山党(こくざんとう)の二派にわかれて激しい闘争をくりかえしていた。

当時この地方に君臨していたチャガタイ家のイスマイル・ハーンは、熱心な黒山党の支持者で、白山党の首領アパク・ホージャをアルティ・シャフルから追放した。アパク・ホージャはカシミールを経てチベットに逃げこみ、ダライラマ五世に援助を求めた。ダライラマ五世は、アパク・ホージャに手紙を持たせてガルダンのもとに送り、白山党を援助するようにガルダンに要請したのである。

この要請にこたえて、1680年、ガルダンはアルティ・シャフルを征服し、チャガタイ・ハーン家の一族と黒山党のホージャをイリに幽閉した。ガルダンは、白山党のアパク・ホージャを代官としてヤルカンドにすえて、アルティ・シャフルを支配させる代償に、莫大な貢納(アルバン)を取り立てた。こうして、タリム盆地のトルコ系イスラム教徒は、異教徒の、ジューンガル部率いるオイラト民族の属民となった。ジューンガル部は、このあと1755年に滅ぶまで、天山山脈を越えた北のジュンガル盆地を本拠地としながら、南のタリム盆地のオアシス諸都市を支配した。
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# by satotak | 2008-01-12 13:27 | 東トルキスタン
2007年 12月 10日

最後の遊牧帝国 ジューンガル

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡」(講談社 1995)より:

ジューンガルの時代
ジューンガル部族は、17世紀末に突然歴史の表舞台に登場し、中央アジアに一大遊牧帝国を築いた(注1)。しかし18世紀中葉には、古くからの遊牧帝国と同様、相続争いによる内部崩壊を起こし、この機を利用した清朝に討伐されて滅んだ。ジューンガルの人びとは、清軍のもたらした天然痘の大流行と虐殺によって、ほとんど絶えたといわれる。しかし、ジューンガル部族と同盟関係にあって、これとともにオイラトと総称されたドルベト部族やトルグート部族やホシュート部族の人びとは、いまもモンゴル国西部、中国の新疆ウイグル自治区北部、ロシアなどに分かれて暮らしている。

かれらの活躍した地域は、いまのモンゴル国から、ロシア連邦のシベリア地方、ブリヤート共和国、トゥワ共和国、ゴルノ・アルタイ共和国、カルムィク共和国、CIS中央アジア諸国のカザフスタン共和国、キルギズスタン共和国、ウズベキスタン共和国、中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、青海省、チベット自治区、内モンゴル自治区にまたがっている。その時代は、これらの地域がまだ、清朝にもロシアにも支配されていなかった時代で、しかし、すでに清朝とロシアの影響が及び始めていた頃である。
いまのモンゴル国民の中心であるハルハ部の人びとは、17世紀末にジューンガル部族長ガルダン・ハーンの侵攻を受けて、同族のモンゴル人のいる南に逃げ、その結果として清朝の支配下に入った。

これより前の17世紀中ごろ、ジューンガルと同じオイラト民族で、ジューンガルとライバル関係にあったホシュート部族が、故郷の中央アジアから青海チベットに侵攻し、この地を制覇してそのまま住みついていた。18世紀初めになって、ジューンガル軍は、ホシュート部族の支配下にあったチベットのラサに侵攻した。ホシュート部族長に助けを求められた清朝は、軍隊をチベットに派遣し、この結果、チベットが清朝の保護下に置かれることになった。
また、いまの中国新疆ウイグル自治区も、17世紀後半にジューンガルの支配下に入り、1755年にジューンガルが滅びた後、清朝がその支配を引き継いだのである。

カザフスタンの人びとは、18世紀にジューンガルの圧迫を受け、これから逃れるためにロシアの臣民になった。ブリヤートの人びとは、もともとオイラト部族連合つまりオイラト民族の一部であり、トゥワやゴルノ・アルタイの人びとも、一度はジューンガルの支配下にあった人びとである。キルギズスタンの人びとが、シベリアの故郷からいまの地に移り住んだのも、ジューンガルの時代であった。ジューンガルは、最盛期には、ウズベキスタンのオアシス諸都市のほとんどすべてを支配した。いま中央ユーラシア草原の最西端に住むモンゴル系の、ヴォルガ西岸のカルムィク共和国の人びとも、ジューンガルと同じオイラト民族である。(ソ連の建国者レーニンには、実はこのカルムィク人の血が流れていた。)

これらの地域が、現在中国とロシアの支配下にある遠因を創ったのが、ジューンガルであったと言っても過言ではない。…

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オイラト遊牧部族連合
17、18世紀に中央ユーラシア草原を席巻した最後の遊牧帝国ジューンガルの実体は、ジューンガル部長を盟主とするオイラト遊牧部族連合であった。古くは 匈奴以来、鮮卑や柔然や突厥やウイグルやモンゴルなど、北アジアや中央アジアで消長を繰り返したいわゆる遊牧帝国も、ジューンガルと同じような遊牧部族連合だったに違いない。広い草原に家畜を放牧するため、人口が少なく分散して生活する遊牧民を構成員とする国家は、このような仕組みを取る以外に存立し得なかったのである。

…遊牧国家の指導者は、一族の成員である遊牧民を養うことを要求された。遊牧君主は、略奪戦争の指揮がうまく、遠隔地交易など手段は問わないが、一族に分配できる富をつねに蓄える必要があった。遊牧君主は、一般に考えられているほど野蛮残虐な専制君主ではなかったのである。だから、ジューンガルの君主のように、豊かな中央アジアのオアシス都市から毎年定まった貢納を徴収できるとか、トメト・モンゴルのアルタン・ハーンやヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーンのように、明やロシアから毎年贈物や報酬を得、交易を独占できた君主は、他の遊牧領主とは比較にならないほどの強大な権力を持った。遊牧帝国すなわち遊牧部族連合は、有能な盟主でなければ維持できない運命だったのである。

17世紀のオイラト部族連合の盟主は、1671年にガルダンがジューンガル部長になるまでは、ドルベト部長やホシュート部長だった。ガルダンのあとのジューンガル部長はハーン号を持っていないので、ジューンガル・ハーン国と呼べるような国家は存在しなかった。しかし、ジューンガルを盟主とするオイラト部族連合の勢力は、かれらの周りのさまざまな民族を震撼させ、その君主は、清朝やロシアなど超大国の君主とも対等な政治力を持ったから、国際関係上、ジューンガルを十分に帝国とよべると思う。ゆるやかな部族連合という仕組みであったおかげで、かえってチベットからヴォルガ河畔にいたるような広大な地域を、同族で支配することができたともいえる。

ジューンガルの崩壊の原因も、また古来の遊牧帝国と全く同じだった。たとえ前君主の嫡男でも、能力のない君主にはだれも従わない。兄弟間の相続争いが、遊牧民の宿命である。オイラト部族連合のもう一つの弱点は、どの部族長もチンギス・ハーンの男系子孫でない点であった。部族長同士のライバル関係が、その政治に最後までひびいたのは、見たとおりである。しかし、かれらのなかにもしチンギス・ハーンの男系子孫がいたとしても、チャガタイ家の末路やモンゴル民族の歴史を見てわかるように、結果は同じだったともいえる。チンギス統原理は、遊牧民社会にも、かれらなりの論理があるという説明には有効だが、同時に、遊牧社会は血筋だけでは生き延びることができない世界だったからである。

1755年にジューンガルが滅亡したあと、中央ユーラシア草原に、かつてのような遊牧帝国は二度と誕生しなかった。それは、清朝とロシアという二大国家が領土の観念をこの地域に持ち込み、遊牧民の自由な移動を制限したことと、すでに騎馬の軍事力よりも火器の力が上回るようになっていたこと、さらに…コストの安い海洋貿易に圧されて、遊牧君主の経済の基盤であった内陸貿易が衰退したこと、人口が増加した農耕地帯から農民が草原に進出してきたことなどの理由による。

この直前17世紀後半は、世界史上の大転換期であった。この頃にわれわれ人類の生活様式は大きな変化を遂げ、これ以前のことが想像できなくなっていったと思われる。ジューンガル帝国は、古い英雄時代の最後の華であったといえる。そのジューンガル帝国を創ったガルダンは、遊牧民に生まれてチベット仏教の修業をした、文武兼ね備えた新しいタイプの英雄だった。そして、かれと同時代に生きた、清の康煕帝、チベットのダライラマ五世、ハルハのジェブツンダンバ・ホトクト一世、ヴォルガ・トルグートのアユーキ・ハーン、ロシアのピョートル大帝もまた、自分の育った世界に新しい文化を持ち込んだ英雄だった。

(注1) 部族か、民族か、国家か、帝国か
これから遊牧王権の歴史を叙述していくのに際して、まず、部族や民族や国家や帝国ということばを、ここで私なりに定義をしておぎたいと思う。
中国史料では、たとえば唐代のカルルクのある集団について、族とも部とも姓とも記す。また、漢文では、部族も部落も意味に大差はない。
遊牧集団を表す各時代のさまざまな名称の、どちらが総称で、どちらが下位の集団かなど、これまで東洋史学界ではよく問題にされてきた。しかし、遊牧集団は固定したものではなくつねに変化するので、実体が明らかでないのは当然のことである。私はつぎのように考えている。

一人の族長に率いられた、ある名称を持つ遊牧集団は、次の代には族長の子供たちによって分割相続され、あるいはかれらの妻が婚資として持参した他集団と結合するので、集団の構成員は各代ごとに変化する。そのため、名称は残っても規模や内容は変わる。前代の部族名が、新しい集団内で他集団と区別するために姓や氏族名として扱われたり、新しい集団名が生まれたりするのがつねである。
しかし同時に、遊牧民にとって父系の系譜は非常に重要で、誰が誰の後裔であるかについては、必ず伝承がある。そこで、規模や構成員は変化しても、遊牧集団の間になんらかの系統関係が存在する場合には、後身(こうしん)という表現を使うことにする。

氏族は、同じ祖先を持つ人びとの集団と考えられるわけだが、構成員すべてが血縁関係にあるかどうかは、史料がないために保証の限りではない。本書では、部族の下位集団という意味で使う。種族は、中国史料に登場した用語をそのまま引用しただけで、人種の意味は含まない。
特定の首長に率いられて、他の遊牧集団とはっきり区別できる集団を、本書では部族とする。規模や内部事情は考慮しない。

本書で使用する民族は、遊牧部族の連合である。20世紀の現代に生きる日本人のわれわれが考える民族の概念とは異なる。日本人がよく使う民族ということばは、われわれ日本民族を反映して、ふつう英語のネイションnationとレイスraceの両方あわせた意味に用いられる。しかし、ネイションは国民または国家であり、レイスは人種である。われわれが考える民族の意味にぴったりする外国語は、実は存在しない。本書では、モンゴル民族やオイラト民族ということばを使うが、これには人種の意味はなく、どちらかというと、英語のネイションに近い。ただし、本書で使用する民族ということばに、領土の観念を持つ20世紀的な国家を当てはめて想像しないように、注意が必要である。

最後の帝国の定義であるが、エンパイアempireはもともと最高の統治権または統治のことである。
部族連合からなる遊牧民族と、かれらが征服した定住農耕地帯の諸民族で構成された多民族国家を、ここでは遊牧帝国とよぶことにする。遊牧民には、最初から領土支配の観念はない。したがって、遊牧国家も遊牧帝国も、支配したのは領民、国民であって、20世紀のわれわれが考えるような領域国家ではなかった。
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# by satotak | 2007-12-10 13:12 | モンゴル
2007年 10月 26日

ブハラを去る人々 -ウズベキスタンのユダヤ人-


NHK編著「新シルクロード 激動の大地をゆく<上>」(NHK出版 2007)より(筆者:矢部裕一):

◆中世シルクロードの都
…ウズベキスタン西部に位置し、世界遺産にも登録されているブハラは、中世シルクロードの面影を今も色濃く残している街です。…
しかし、そうしたイスラム建築の遺跡以上に中世の雰囲気を濃厚に感じさせてくれるのが、ブハラの旧市街です。
普通の人々が今も暮らしている旧市街は、迷路のように入り組んだ細い路地の両側に白い壁がどこまでも続いていて、その中に入り込むと、急に静寂があたりを覆い、時間がゆっくりと流れていくように感じられます。
この旧市街にある人々の住む家は、およそ100年から150年前に建てられたものが多いと聞きました。
中を見せてもらうと、壁や天井にはおそらくイスラムに由来していると思われる色鮮やかな模様が描かれています。
こうしたこの地方の伝統的な建物は、私たちから見ればそのまま遺跡といってもよいようなものですが、その古い家でブハラの人々は当たり前のように毎日の暮らしを送っています。

◆ブハラのユダヤ人
ブハラの強い日差しに照らされて反射する白い壁に沿って、ひと気のない路地をしばらく歩いているうちに、意外なものを見つけました。
ユダヤ教の礼拝所、シナゴーグです。
ブハラには昔から、そして今も、ユダヤ人が暮らし、コミュニティーを作ってきました。今でも、ブハラに住むユダヤ人が毎朝そのシナゴーグに集まり、礼拝を行っているといいます。
シナゴーグを見て意外と感じたのは、きっと私たちが、ブハラを中世におけるイスラム文化の中心地であったとする観光ガイド的な認識にとらわれていたからでしょう。…
しかしブハラの人々にとってみれば、旧市街の片隅にシナゴーグがあることは何も意外なことではないはずです。何故なら、ブハラは何世紀も昔から、様々な土地から様々な民族がやってきては住み着いてきた、まさにシルクロード的な街だったからです。

ブハラは、パミール高原に源を発するザラフシャン川によって形作られる豊かなオアシスでした。東は中国、北はロシア、西はヨーロッパ、南はインドというように、長い歴史にわたってユーラシアの東西南北を結び、大陸を行き交うキャラバン隊の重要な拠点になってきました。
その結果、ユーラシアの各地から交易を通じて様々な民族がやってくることになったのです。

…そして、今もこの街に暮らす様々な民族こそ、ブハラがシルクロードの要衝だった何よりの痕跡といえるかもしれません。
イラン人、アラブ人、ロシア人、そしてユダヤ人。
ユダヤ人は、おもに13世紀頃、イランやアフガニスタン経由し、シルクロードをたどって中央アジアにやってきた交易商人の末裔といわれています。

◆民族が共存する街
その昔、旧市街の中でユダヤ人は自分たちの居住区を作り、ウズベク人やタジク人などのイスラム教徒とは混住せずに暮らしていたといいます。
しかし、同じ旧市街の中でわずかに細い路地を隔てて共に暮らしていくうちに、いつからかお互いの文化や習慣が混じり合っていったようです。
ウズベク人やタジク人の女性は、伝統的に眉がつながってみえるような化粧をすることで知られています。ブハラでは、高齢のユダヤ人女性も、ウズベク人やタジク人と同じように眉をつなげる化粧をしています。若いユダヤ人女性でも、結婚式には同じように眉をつなげるのだと聞きました。

…もちろん宗教的なことはそれぞれお互いに大事に守っているし、イスラム教徒とユダヤ人が結婚することはないといいます。
それでも、ソ連時代の70年を経たせいか、今ではユダヤ人が住むエリアとウズベク人、タジク人などのイスラム教徒が住むエリアが、線引きできないほど混じり合うようになっています。
そして、お互いに隣人として普通の近所づきあいを続けています。…

◆ブハラを去るユダヤ人
しかし、ブハラで垣間見たユダヤとイスラムの共存の姿も、実はだいぶ前から状況は大きく変わってきていました。
ブハラのユダヤ人の多くが、街を去っているのです。
ブハラを去ったユダヤ人は、そのほとんどがイスラエルとアメリカに移住して行ったといいます。

かつて、ブハラにどのくらいのユダヤ人が住んでいたのか、その正確な数字を求めるのは難しいのですが、少なくとも2万人のユダヤ人がこの旧市街を中心に暮らしていたといわれています。そして、私たちがブハラを訪れた2006年時点で、ブハラに住むユダヤ人はおよそ150人ほどに激減していました。…
いつ頃、ブハラからユダヤ人が去っていったのでしょう。
ユダヤ人の移住の大きな波は、1980年代以降、ふたつあったといいます。

ひとつ目は、ペレストロイカの時代である1980年代末です。
この時期、ペレストロイカによって、ユダヤ人がソ連からイスラエルやアメソカに移住することが、それまでより容易に認められるようになりました。そのため、ソ連に留まるより豊かな西側での暮らしを求めて、大勢のユダヤ人が移住していきました。

◆ウズベキスタン建国とマイノリティー
ふたつ目の移住の波は、ウズベキスタンが建国した1991年以降の数年間に起こりました。なぜ、この時期に再び大勢のユダヤ人が移住していったのかについては、いくつか理由が指摘されています。

ひとつには、経済的な理由があります。
独立後、ウズベキスタンもまた経済混乱に襲われていたため、もっと豊かで安定した生活が送れるところを求めて、ユダヤ人が移住していったといわれています。
もうひとつの理由として指摘されているのは、ウズベク人の民族意識の高揚がユダヤ人の移住の背景にあったということです。
ソ連が崩壊しウズベキスタンが誕生したことで、ウズベキスタンはウズベク人の国であるという認識が人々の間にゆっくりと浸透していきました。ウズベキスタン政府もまた、そうしたウズベク人の民族意識を高めるため、教育の現場などでウズベク人の民族の誇りを形成させるような歴史教育を行ってきました。

建国以降のこうした動きの中で、ウズベク人以外の民族は、自分たちがこの国ではマイノリティーになってしまったと感じはじめたといいます。
この感覚はとても微妙なもので、国がウズベキスタンになったからといって、あからさまな差別が急に行われるといったことは、少なくともブハラでは、ほとんどなかったといいますし、それまで隣人として親しく付き合ってきたウズベク人、タジク人とユダヤ人との人間関係も、ほとんど変わることなく続いていたといいます。
それでも、それまで同じソ連の国民として、まったく同じポジションにいた人々の間に、少しずつ段差のようなものが生まれ始めていったようです。
そして、この民族共存の長い歴史を持つブハラでさえ、ユダヤ人が住みづらいと感じるような空気が、かすかに少しずつひろがっていったといいます。

◆ユダヤコミュニティーの崩壊
…B&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)と呼ばれる小型のホテルが、旧市街の至るところにできていました。
中を見せてもらうと、100年前の伝統的な家の装飾をそのまま残した、雰囲気のある造りになっています。泊るのはブハラを訪れる観光客で、そうした歴史を感じさせる部屋が観光客の人気を集めているといいます。こうしたホテルのほとんどが、元はブハラを去っていったユダヤ人の家なのだそうです。
本来、普通の人々の普通の生活の場だったブハラの旧市街も、こうやって櫛の歯が欠けていくように、少しずつ観光地とされていくのかもしれません。

何人ものユダヤ人の話を聞いて歩くうちに、分かってきたことがありました。
今、ブハラに残っているユダヤの人々も、そのほとんどがいずれブハラを去ろうと考えているのです。まだブハラに留まっているのは、意識的に故郷を離れないようにしているのではなく、主に経済的な理由で仕方なく残っているのであって、家が売れ次第、あるいはお金が用意でき次第、すぐにでもイスラエルやアメリカに移住したいと考えている人がほとんどです。
彼らに、どうして移住したいと思っているのか、その理由を尋ねると、ここまでユダヤ人の数が減ってしまうと、ブハラはもうユダヤ人の暮らす場所ではなくなってしまったから、という答えが返ってきました。
長い歴史の中で綿々と続いてきたブハラのユダヤ人のコミュニティーは、すでに崩壊しつつありました。そして、その流れが逆戻りすることはおそらくありえないだろうと、ユダヤの人々の話を聞いていると、思えてきました。…

◆失われる共存
そう遠くない将来、ブハラのユダヤ人はおそらく一人もいなくなるでしょう。
それが、ブハラに残るユダヤの人々の話を聞いて歩いた私たちの率直な感想です。
数世紀にわたって、イスラムとの共存を当たり前のように実現してきたブハラのユダヤ人が、今ゆっくりと、静かに、人知れず消えようとしています.
シルクードによってもたらされた豊かな世界が、ここでは失われようとしているのでした。

それまでソ連の一部だったウズベキスタンがひとつの国として独立したことで、新たに国境が生まれ、ウズベキスタンという国家の独自の歴史が語られ始め、その民族の誇りが強調されていきました。そうやって国の輪郭がせり上がっていったことによって、シルクロード的世界が逆に寸断されてしまったようです。
ユダヤの人々が見えない境界線によって隔てられ、移住を余儀なくされているよう思えてきました。
かつての豊かなシルクロード的世界を象徴していたブハラのユダヤ人が、今、終焉を迎えようとしています。
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# by satotak | 2007-10-26 11:41 | 民族・国家
2007年 10月 18日

シベリアの民族 -サハ共和国(ヤクーチア)-

黒田 卓・他編「中央ユーラシアの民族文化と歴史像」(東北大学東北アジア研究センター 2003)より(筆者:イグナティエヴァ・ヴァンダ):

■ サハ共和国の地理的特徴
アジア大陸の東北部分に位置するロシア連邦サハ共和国(ヤクーチア)の面積(北極海に位置するノボシビルスク諸島も含む)は310万3200平方キロメートルであり、全ロシアの18%以上に及ぶ。その領域の40%以上は北極圏に含まれている。
共和国の南北間の距離は2000㎞、東西間の距離は2500kmである。…ヤクーチアの領域には3つの時間帯があり、モスクワとの時差は+6~+8時間である。


[拡大図]

■ 諸民族の歴史と文化
ロシアの植民地化が開始されるはるか以前から、ロシアのレナ地方(ユーラシア大陸東北部に対する旧称)にはさまざまな原住諸種族および諸民族が暮らしてきた。彼らは何千年にもわたってこの地域に適した生業適応を行い、ほぼすべての領域に進出してきた。ある専門家によれば、さまざまなかたちで分布している先住民族の経済・文化類型は、ホモサピエンスとしての人類の極北環境への適応メカニズムとしてだけではなく、「自然地理および社会経済的過程における社会と自然の相互作用と動態的な均衡の結晶」として理解すべきものである。

・ユカギール
種族としてのユカギール(自称はヴァドゥル、オドゥル)は、レナ川下流からアナディール川にかけての広大な領域に暮らしてきた。…
ユカギールの民族起源は、紀元前2~1千年紀の考古学上のウスチ・ミール文化と関係する独自の種族が関わったといわれている。
ユカギールの主要な生業は、半遊動ないし遊動的な狩猟である。ツンドラにすむグループは主として野生トナカイが、タイガにすむグループは野生トナカイの他にヘラジカ、シベリアビックホーンが主な狩猟対象だった。季節に応じてさまざまな生業に従事していた。夏には鳥の卵の捕獲、秋には漁労、冬には毛皮獣狩猟という具合である。彼らはトナカイを飼育していたが、それは主として交通用であり副次的な位置にあった。それ以外に橇牽引及び狩猟用にもちいる犬も持っていた。17世紀の前半のユカギール種族の人口は、いくつかの説があるが、おおよそ5~9千人だったといわれている。

・チュクチ
チュクチは自称をリグオラベトルアンといい、チュコト自治管区と北レドヴィト海沿岸に住んでいる。
チュクチもその中に含まれる北東パレオアジア種族形成に関与した古い基層文化は、新石器時代後期のヤクーチアに現れるウミィヤフタフ文化と関係しており、その担い手が後になってユカギールの祖先をなす集団を同化したといわれている。
チュクチの生業の特徴は大きく二つある。一つは「チャウチュ」と自称する人々によるツンドラのトナカイ遊牧であり、もう一つは「アンカリン」による定住的な狩猟と海獣狩猟である。前者はトナカイ・チュクチとも呼ばれ、家畜トナカイの群れとともに一年を通して、アラゼイや川、コリマ川、シェラグスキ岬、ベーリング海峡に至る領域を遊動する生活を送っていた。その遊動パターンはツンドラ地帯から、東シベリア海・チュコト海・ベーリング海の沿岸に移動し、戻ってくるというものであった。これに対し沿岸に定住し、海獣狩猟に従事するいわゆる海岸チュクチが暮らしていた場所は、デジュネフ岬からクレスト湾さらにアナディール川とカンチャラン川下流域にかけてであった。彼らは春及び冬にはアザラシを、夏から秋にかけてはセイウチや鯨を捕獲した。17世紀末のチュクチの人口は8~9千人だったと考えられている。

・エヴェンキ
すでに5~7世紀に中国の記録に「奇」として知られ、かつてツングースとよばれたこの民族が暮らしていた地域は巨大な領域に及ぶ。西はオビ川、エニセイ川から東はオホーツク海にいたり、南は中国東北部から北はエニセイ川とレナ川に挟まれたツンドラ地帯までだからである。エヴェンキには数多くの自称をもった地域集団があり、…
エヴェンキは東シベリアに原住したさまざま種族つまり、ユカギールやプリバイカル及びザバイカル地方のツングース・満州系の種族が混じり合って10世紀頃に民族が形成された。
エヴェンキは地域によってそれぞれさまざまであるが、主として三つの生業文化に分けることが可能で、徒歩エヴェンキ・トナカイエヴェンキ・馬エヴェンキと呼ばれる。徒歩エヴェンキの多くはタイガの狩猟民であり、トナカイ・ヘラジカ・ノロ・ジャコウジカ・シベリアビックホーン・オオヤマネコ・クズリ・オオカミ・クマなどの獲物を求めて常に移動する生活であった。生活のために重要な狩猟を行うため、その移動手段として騎乗及び駄載トナカイも用いていた。後には毛皮獣であるクロテン・キツネ・リス・オコジョ・北極キツネもその対象となった。トナカイエヴェンキは、家畜トナカイの新しい放牧地を求めて移動を繰り返す遊動生活を送っていた。家畜トナカイの群れは通常25~30頭ほどで、彼らは夏には分水嶺に赴き、冬には川沿いに移るという移動パターンだった。馬エヴェンキは、ザバイカル地方南部そして中国(大興安嶺の支脈)やモンゴル(イロ川上流及びブイルーヌル湖付近)と接する地域にくらしていた。彼らは定住的生活を行い、さまざまな家畜を飼っていた。上記の分類とは別に、プリバイカル地域及びザバイカル地域南部、ヴィルイ川上流、さらにオホーツク海沿岸には漁労を中心とする集団もあった。

・エヴェン
かつてラムート諸種族と呼ばれた人々(自称はウヴン)は、エヴェンキの分布域から北東に広がる領域、つまりベルホヤンスク山脈の支脈、コリマ川・インジギルカ川・オモロン川の各流域、オホーツク海沿岸で暮らしてきた。エヴェンはその内部に複数の集団があり、それぞれ名前をもっており、…
エヴェンの民族起源は、ツングース・満州系の諸種族と関係しており、紀元1世紀頃アンガラ川及びアムール川の中流から下流域から現れた人々が、ヤクーチア北東部地域に住んでいたユカギール系の文化を持っていた人々と混合して成立したといわれる。
エヴェンの生業複合の特徴は、漁労や毛皮獣狩猟をともなう遊動的トナカイ飼育あるいはタイガでの半遊動的狩猟である。彼らの中には定住的あるいは半定住的生活を送っていた集団もおり、そこでは海獣狩猟や河口での漁労が中心だった。専門家によれば、18世紀初頭エヴェンとエヴェンキをあわせた人口は8~9万人だったといわれている。

・サハ (注1)
レナ地方の主要な住民はサハ(自称はサハ、ロシア語による名称はヤクート)であった。彼らは中世初期の時代に南シベリアのモンゴル・テュルク系種族が中心とし、主としてツングース系諸種族を同化して形成された民族である。なおサハの民族構成要素としてサモディ一系の要素をも含まれているという仮説もある。
伝統的にサハの多くはアムガ川とレナ川の間の領域、及びヴィルイ川流域に暮らしてきた。またそれほど多くはないがオレクマ川河口付近やヤナ川上流域にも住んでいた。サハは35~40の外婚制集団(種族)に分けられ、それぞれ地域ごとに独自の自称を持っている。…
サハの伝統的生業は、馬群による馬飼育と牛飼育それに集団漁労、マツやカラマツの伐採、さまざまな根や植物(ベリー類も含む)の採集である。北方に住むサハの中にはトナカイ飼育を行っていた集団もいた。さらにタイガに住む動物――クマ・ヘラジカ・トナカイ・ウサギ・鳥類などを対象にする狩猟も副業的な意味として広く行われていた。さらに、リス・キツネ・クロテン・北極キツネなどの毛皮獣猟もあった・特徴的なのは手工業が発達していたことである。鍛造・木材細工・貴金属細工・陶器制作などがこれにあたる。

・ドルガン
ドルガンは民族自称を、ティアキヒあるいはサカといい、19世紀後半に主として4つのツングース系種族であるドルガン、ドンゴト、エジャン、カラントから形成された民族である。さらに北方サハ・エネツ・ネネツ・「ツンドラ後方の農民」と呼ばれたタイムィール地方の先住ロシア人といったさまざまな民族の一部もドルガンの形成に加わった。彼らの多くはタイムィール半島に暮らし、さらにアナバール川沿岸にも数は少ないが住んでいた。
彼らの生業複合は、トナカイ飼育、狩猟、漁労から成り立っている。そのなかで最も重要なのはツンドラ型トナカイ飼育である。ドルガンのトナカイ飼育では、他の先住民と比べてそれほど長い距離にわたる季節移動は行わなかった。夏季はツンドラに赴き、冬には森林ツンドラに移動したからである。狩猟の主な対象は野生のトナカイであり、これ以外に春には水鳥やライチョウが、秋にはカモ類が狩られた。毛皮獣狩猟についていえば、キツネ・オコジョ・赤キツネが捕獲された。ハタンガ川流域やツンドラに数多く点在する湖では漁労も行われた。

17世紀初頭には、レナ地方に住んでいたさまざまな種族や民族は上記のようなかたちでそのほぼ全域にわたって分布していた。古い時代から、このレナ地方においてさまざまな民族の移入・混合があった。その結果、現在にいたるような民族起源と民族文化の特徴をもつエスニック集団が形成されたのであった。

■ ロシアの植民地化と社会主義、そして現在
17世紀の最初の四半世紀に、レナ地方は「経済的領域」として征服されロシアの一部となった。この時代から現在のヤクーチアの領域は明確になり、ロシア人を主とする東スラブ系住民の人口が増え始めたのである。彼らは当初、行政府・軍隊・宗教組織で働く人々あるいは商人であったが、後には農民も入植するようになった。ロシア人は定住のための入植拠点つまり要塞や柵そしてヤサク(毛皮税)取り立てのための冬営地といったものの建設を急速に進めた。それらは先住民にとってみると、ヤサクを規則的かつ組織的に取り立てるための場所でしがなかった。
公式文書資料によれば、17世紀の後半にロシア人初期植民者が建設した入植拠点は20を越えていた。レナ要塞、オレクマ柵、チェチュイ柵、さらに21にも及ぶヤサク冬営地、… 入植拠点は時代によって場所を変える場合もあり、その総数はしばしば変わったが、そうした状況は入植が至るところで頻繁に行われていたことを示している。
17世紀から19世紀にかけてのヤクーチア領域における経済植民地化の結果、東スラブ系住民がまとまって暮らす状況を生み出した。後に、彼らは比較的均質的な民俗的特徴をもつ先住ロシア人となった。中央ロシアとヤクーチアは地理的に離れており、また彼らは当初少数であったこと、さらに厳しい自然-気候条件下で新たな生活を送るための適応が必要だったこと、それらの理由によって、これらロシア人の伝統的民俗文化は変容し、彼らが移り住んだ地方的・北方的変種が形成されたのである。入植者達の民俗文化適応の過程は一方的なものではなかった。文化複合の変容は先住ロシア人だけでなく、同時にヤクーチアの先住民にもおよんだ。後者もまた顕著な文化伝播の影響を受けたのだった。
ヤクーチアがロシアに組み込まれてから常に入植者及び先住民の人口は変動してきた。植民地化がすすむなかで次第に進んだことは、もともと存在した歴史・文化的領域の範囲が狭まったことである。疫病・家畜伝染病・大規模な飢餓が頻繁に起きたため、住民の人口は大規模に減少した。19世紀の間にかつて数千の人口がいた諸種族は次のような状況になった。19世紀末においてユカギールは948人、チュクチは1558人、エヴェンとエヴェンキは11647人であり、ヤクーチアにおける彼らの比率は全部あわせて5.3%だったのである。この地域で人口の点で優勢であったサハ(19世紀末には22万1500人おり、ヤクーチアの人口の82・1%)の影響のもとで(他の民族を取り込む)同化が進行したことも、ヤクーチア人口の展開に大きな影響を及ぼした。
1897年ロシアにおける最初の国勢調査が行われたが、ここからわかるのは、当時行政区分として存在したヤクート州における民族構成の多様化が進行し、ロシア帝国の他の県から移民が流入していたことである。国勢調査の分析からは、ヤクーチアでは新たに現れた42の言語及び方言が分類され、それに対応して42の種族・民族が存在していたのである。国勢調査後ロシア帝国の民族構成は、言語によって確定されるようになった。帝国において最も人口の多いロシア人(この場合、3つの東スラブ系民族つまり、大ロシア人・小ロシア人・白ロシア人が統合された総称)は、ヤクート州においては3万600人で、彼らの割合は11.3%だった。他の諸民族の人口および割合はいずれもきわめて小さいものであった。
ヤクーチアの新たな住民達の多くが住み着いたのは、当時金鉱山があったオレクマ管区で、ここには最も多い81.6%が集中していた。二番目に多かったのは14.8パーセントが暮らしていたヤクーツク管区で、ここにイルクーツク-ヤクーツク間に多数あった郵便・交通のための宿駅――これらを経営していた初期のレナ地方への入植者の子孫達、農業を行うために入植した農民が暮らしていた。
1920~30年代には大規模な移民が押し寄せていた。これは、当時のヤクート自治共和国での産業開発が原因である。こうした傾向は1960~80年代にかけて雪崩のように強まり、この地域の民族構成の動態に著しい影響をもたらした。1989年に行われたソ連最後の国勢調査によると、自治共和国には116の民族が登録された。とはいえ、この数字にはソ連の公式民族リストに含まれない12の民族が除外されている。
過去40年の間に、ヤクーチアの有力な民族はロシア人となった。文字通り人口の点で50.3%を占めていること、またソ連全体の民族階層のなかでの位置付けという二つの意味において「有力」なのである。ヤクーチア先住民及びロシア人を除いた他の民族は合計で14.1%であり、このうち8.0%はウクライナ人とベラルーシ人であった。つまりヤクーチア先住民を除いて、ヤクーチアに暮らす民族の大半(90.5%)は東スラブ系の住民となったのである。…
1959年から1989年にかけてのソ連国勢調査が示しているのは、20世紀の中葉はヤクーチア先住民にしてみると危機的な人口発展の始まりだったということである。つまり移民が入ってくることは、自治共和国におけるヤクーチア先住民の人口比を著しく下げたからである。1989年の国勢調査では、ヤクーチア先住民の人口比は35.6%でしかなかった。その内訳は、サハ人が33.4%、エヴェンキ人が1.3%、エヴェン人が0.8%、チュクチが0.1%となる。ヤクーチア先住民の人口減少が進んでいることに対し、「シベリア少数民族」の代表者達は、100年前と同様に深刻な懸念を表明している。

■ 住民の人口構成
2000年1月1日現在で、サハ共和国(ヤクーチア)の人口は988,600人である。膨大な面積であるにもかかわらず、ヤクーチア領域はここ100年間において人口密度は低い。20世紀の初頭および末いずれにおいても、平均人口密度はロシアのヨーロッパ部と比べて10分の1程度である。ヤクーチアを構成する行政区ごとに人口密度の分布をみてみると、居住のパターンは一様ではないことがわかる。居住に影響するのは、自然・気候的および経済的な要素である。農業生産において比較的好条件のメギノ・カンガル郡、…そのほか工業生産と交通網の整備が進んだヤクーツクやニュールングリの都市管轄区においては人口密度は高く、1平方キロメートルあたり1.2~2.8人である。人口分布は不均等であり、最も人口密度が低いのは、極地気候帯にあり生活および生産活動に好条件とはいえない地域つまり、オレニョク郡、…ここでは1平方キロメートルあたり0.01~0.08人である。上記以外の共和国郡における人口密度は1平方キロメートルあたり0.1~0.9人という具合である。

ソ連崩壊とその後の政治社会的不安定によってもたらされたのは、労働移民が大量に発生し、彼らがサハ共和国へとやってきたことである。また広範囲にわたる大規模な経済改革等が行われる際に十分な熟慮がなさなれなかったため、極北地区にすむ住民に対してはその恩恵がわずかな形でしか及ばなかった。それゆえ最近では移民流入型から移民流出型へとヤクーチアはかわってきた。
いうまでもなく、移民の存在はサハ共和国の民族構成動態に大きな影響を与えている(表参照)。第一にここ40年間をみてみると、サハ人の比率が大きく伸びている。サハ人は他の民族と比べて、常に相対的に高い出生率をともなう自然増加という特徴がある。それに対応するようにロシア人の比率は減っている。減少した部分の大半はヤクーチアから出て行った人々である。その結果、サハ人とロシア人の間の人口比率差は1989年において16.9パーセントだったのが、1996年には8.1パーセントとほぼ二分の一になった。
第二点としていえるのは、これまでにはそれほどみられなかったことであるが、北方・シベリア・極東地方の少数民族さらにカフカス・ダゲスタン、中央アジアおよびカザフスタンの諸民族の人口が恒常的に増加していることである。…
第三にロシア連邦外に民族的故地をもつ民族の人口が増加していることである。…外国からの移民でヤクーチアの民族構成に大きな比率を占めるのが中国と北朝鮮からの人々である。こうした外国移民の流入やロシア人やヤクーチア先住少数民族の流出といった状況を背景として、中国及び北朝鮮からの移民数の増加は…むしろ近い将来において新しい民族政治の実態を生み出すことになろう。
今後その状況がどのように展開するか、さまざまなバリエーションを分析しておく必要がある。

(注1) サハ:ヤクート[人] Yakut
東シベリアのサハ共和国(ソ連時代はヤクート自治共和国)に暮らす民族。自称はサハSakha。総人口40万8000(1996)。ヤクート(サハ)語は、チュルク諸語に属するが、長期にわたるツングース語、モンゴル語との接触の結果、音韻・語彙・部分的には文法にいたるまで、他のチュルク語とはちがう特色をもっている。これはヤクート人の民族的形成の過程を反映している。考古学者A.P.オクラドニコフは、ヤクート人の中核がバイカル湖付近に住んで牧畜に従事した骨利幹(クリカン)であって、14~15世紀にモンゴル人に圧迫されてレナ川中流部に移ったと主張している。
1620-30年ごろからこの地域に対するロシア人の植民地化が始まり、ヤクート人にヤサク(毛皮による現物税)を課した。彼らの伝統的生業は馬を中心とする牧畜であり、半遊動的生活を送っていた。19世紀以降、牛飼育の比重が高まり、さらに農耕も行われるようになった。シャマニズムが伝統的信仰であるが、18世紀後半以後、多くがロシア正教へ改宗した。1917年の十月革命と30年代の農業集団化によって、ヤクート人の生活様式は大きく変わった。農村部における定住生活が確立されると同時に、都市部において労働者・技術者・知識人が出現したからである。ソ連崩壊前後から、伝統文化および民俗信仰の復興、歴史の見直しが社会現象となり、ナショナリズムが顕在化するようになった。共和国名に、ソ連時代の〈ヤクート〉に代えて民族自称である〈サハ〉を掲げるようになったことはその現れである。
(川端香男里・他監修「[新版]ロシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:加藤九祚+高倉浩樹))
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# by satotak | 2007-10-18 15:41 | シベリア
2007年 09月 20日

ロシア連邦のアイデンティティ –National Identity Crisis-

兵頭慎治著「多民族連邦国家ロシアの行方」(東洋書店 2003)より:

ロシア連邦の概要
…現在のロシア連邦は、1991年12月に約70年存続したソビエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連邦)が消滅して誕生した。ソ連邦は15の共和国から構成されていたが、その中の一つであるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(以下、ロシア共和国)の領土を継承して、新しいロシア連邦が生まれた。

ソ連邦の面積は地球の陸地面積の6分の1にあたる2,240万平方キロメートルであったが、現在のロシア連邦はソ連邦の約4分の3にあたる1,707万平方キロメートルに縮小した。それでも、国家面積は依然として世界一(日本の約45倍、米国の2倍近く)であり、東西約9,000キロメートル、南北最大約4,000キロメートルにわたり、北は北極海、南は中国、モンゴルに接し、ウラル山脈を境にして欧州とアジアにまたがるユーラシア国家である。…

現ロシア連邦の人口は約1億4,400万人(2002年現在)と日本より若干多い程度であり、ソ連邦消滅直前の人口2億8,860万人(1990年現在)から半減したものの、それでも世界で六番目に人口が多い。しかしながら、ロシア連邦の人口は、高い死亡率と低い出生率により、92年をピークとして毎年75万人ずつ減少しており、2050年には1億の大台を割り込むことが予想されている。

ロシアは、100以上(少数民族を厳密に数えると140以上)の民族からなる多民族国家であり、総人口の81.5%をロシア人が占め、トルコ系のタタール人(3.8%)、ウクライナ人(2.9%)、チュヴァシ人(1.2%)、ダゲスタン人(1.2%)と続いている。しかも、国外に母国を持つドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人、モンゴル人、朝鮮人、中国人も存在する。

ロシア人が多数を占めるといっても、「自称ロシア人」や「混血ロシア人」もかなり多い。ソ連時代には民族の属性を政府に登録する制度があり、国内の身分証明書にも民族名が記載されていた。異なる民族の父母から生まれた子供は、父母のいずれかの民族を選べたため、差別的な扱いを避けるためにロシア人を選ぶ者が多かった。93年に制定された「ロシア連邦憲法」でも、自分が何民族であるのかは各個人が決定できると規定しており、2002年10月に、ソ連邦消滅後はじめて実施された国勢調査…においては、民族属性は自己申告方式であった。

多民族国家を反映して、宗教も多様である。ロシア国民の多くはロシア正教の信者であるが、それ以外にも、キリスト教諸宗派、イスラム教、仏教、ユダヤ教等が存在する。2002年末に実施された世論調査によると、「ロシア正教」を信仰する割合は69%、「キリスト教諸宗派」が3%、「イスラム教」が2.5%、「仏教」が0.4%、「その他の宗教」が1%だった。また、無神論は22%であった。…

決定的な国家統合の要素が欠如
91年12月にソ連邦が消滅し、ロシア共和国も新たな主権国家となったが、ソ連時代のような、国家統治の手段としての一党独裁体制も、[共産主義という]人工的なイデオロギーも失ってしまったため、新生ロシアは、新しい国家統合の要素を見いださなければならないという「ナショナル・アイデンティティ・クライシス」に陥った。

ナショナル・アイデンティティ」とは、自らの領土範囲や憲法観といった国家の基本構造、国家の民族的、宗教的、歴史的、文化的なアイデンティティを導くものである。かつてのロシア共和国の領土に依拠するロシア連邦は、「セルフ・アイデンティティ」、すなわち自国の存在論拠と自己同定の確立に真正面から取り組む必要に迫られた。そもそも歴史的にロシアとは何か、誰がロシア人で、どこまでがロシアなのか。しかも、なぜロシアがソ連時代の一構成共和国であるロシア共和国の領土に限定されるのか。なぜロシアは一国でなければならないのか。異民族とロシア人との関係はどうなるのか。こうした解決困難な問題に、ロシア連邦は直面した。

しかも、旧ソ連から独立したCIS(独立国家共同体)諸国には、ウクライナの1,200万人を筆頭に、約2,500万人のロシア人がとり残されたため、「在外ロシア人」と呼ばれて問題となった。現在では、約800万人の「在外ロシア人」がロシア連邦への帰還を果たしたといわれているが、依然として多くのロシア人が諸外国にとり残されている。このような「在外ロシア人」の存在は、ソ連時代に、ロシア共和国以外の非ロシア系の共和国に多くのロシア人を送り込むことで、ソ連邦の求心力を高めて、多民族国家を統治しようとしたことに起因している。

ロシア連邦の現行の国境線内に限定される、国家統合の要素を見いだすことは容易ではない。確かに、現ロシア連邦におけるロシア人の比率は、ソ連時代の52.4%(1979年現在)から81.5%(2002年現在)へと高まったが、それでもソ連邦と同じ多民族国家という点に変わりはなく、「ロシア人」というアイデンティティだけをもって、ロシア連邦の求心力とするには無理がある。

このように、現在のロシア連邦には絶対的な「ナショナル・アイデンティティ」が欠如しており、それゆえに国家のレジティマシー(正当性)に対する疑念が生じている。このことがチェチェン(ロシア語読みではチェチニャ)をはじめとする民族の分離主義の動きを誘発している。例えば、面積も小さく、人口約150万人のエストニアがソ連邦から独立したにもかかわらず、面積はエストニアよりも広く、人口も370万人を超えるタタルスタンは、なぜ自前の国家を築くことができないのかという疑問である。

連邦制度の特徴
…ロシア連邦は、89の地方単位から成り立っている。ロシア連邦を構成するこうした地方単位のことを、総称して「連邦構成主体」と呼ぶ。「連邦構成主体」の数も89と多いが、種類も六つあり、かなり複雑である…。(注1)
まず、民族自決を理念とした民族的原理に基づく21の「共和国」、一つの「自治州」(ユダヤ自治州)、10の「自治管区」がある。

共和国」の約半数には大統領が存在し、自らの共和国憲法を有している。これらの「共和国」は、非ロシア系民族の伝統が強いものの、共和国内の民族比は必ずしも自民族が多いとは限らず、ロシア人が多数を占めているところもある。例えば、フィンランドに接する「カレリア共和国」では、共和国人口の約7割をロシア人が占め、カレリア人は約1割しかいない。

さらに極端な例を示せば、極東地域には「ユダヤ自治州」が存在するが、約20万人の人口の約8割はロシア人であり、ユダヤ人の比率は5%にも満たない。…
ソ連時代下のロシア共和国に内在した五つの自治州のうち、現在では、この「ユダヤ自治州」を除いたすべてが「共和国」に格上げされている。

自治管区」は、「共和国」や「自治州」より、さらに小さな少数民族による自治単位であり、例えば、東シベリアの極北に位置する「タイムイル(ドルガン・ネネツ)自治管区」および「エヴェンク自治管区」は、クラスノヤルスク辺区に属し、民族比はいずれもロシア人が約7割を占め、人口密度も小さい。

次に、地域的原理に基づく連邦構成主体が、六つの「辺区(クライ)」と49の「州(オブラスチ)」である。これらの主体は、ロシア人の居住地を地理的に区分した単位である。「辺区(クライ)」は「地方」と訳されることもあるが、一般名詞の「地方」と混同するため、本書では「辺区」と訳す。

辺区」は、ソ連時代においても、ロシア共和国のみに存在する行政単位として存在し、「州」よりも面積が若干大きい。日本の「県」に対する北海「道」のようなものである。代表例としては、89の連邦構成主体のなかで、「サハ(ヤクーチア)共和国」に次いで面積が広く、…東シベリアの「クラスノヤルスク辺区」である。…

州」の代表例としては、最西端に位置するロシア連邦の飛び地「カリーニングラード州」や北方領土を抱える「サハリン州」、…。

「辺区」や「州」の多くには、行政長官にあたる「知事」が存在し、自らの最高法規にあたる「憲章」を有している。

さらに、首都「モスクワ市」(人口約830万人)とロシア第二の都市「サンクトペテルブルグ市」(人口472万人)の二つが、「連邦的意義を有する都市」として、独立した連邦構成主体として数えられており、行政長官は「市長」である。

また、これらの連邦構成主体の下部単位として、都市部では「」、農村部では「」や「(セロ)」、モスクワとサンクトペテルブルグ市には「行政地区」などがあり、これらを「地方自治体」と称している。すなわち、ロシアの連邦制には、「連邦政府(中央)レベル」、「連邦構成主体レベル」、「地方自治体レベル」の三つの権力レベルが存在する。

ソ連時代の行政単位を継承
これら六種類の連邦構成主体は、基本的に、ソ連時代に作られたロシア共和国内の行政単位をほぼそのまま継承している。人口約830万人を有する首都「モスクワ市」から人口約2万人の「エヴェンク自治管区」まで、各々の連邦構成主体が有する民族的特徴や経済的ポテンシャル、人口や面積は千差万別であるにもかかわらず、ロシア連邦を構成する主体として、非合理ではあるが、憲法上、互いに同権であると位置付けられている。

ソ連時代には、民族的原理からなる行政単位として、①15の「ソ連邦構成共和国」、②構成共和国に内在する「自治共和国」、③「自治州」、④「自治管区」の4つのレベルが存在した。ソ連邦が形成される過程において、①の「ソ連邦構成共和国」の成立要件としては、一定地域に居住する民族の人口が100万人以上であり、その民族が当該地域の人口の過半数を占め、さらにその地域が外国に接しているという条件があった。しかしながら、この条件が適当であるかどうかは別としても、②の「自治共和国」以下の成立要件に関しては明確な原理原則はなく、1918年のロシア共和国憲法制定過程において、一方的な布告により形成された側面が強い。これは、当時のソ連が、ロシア帝国とそれによって征服された諸民族の集まりという歴史的性格を有していることと関係している。

ソ連時代には、共和国の形成が認められた「民族(ナーツィヤ)」と「準民族(ナロードナスチ)」の区別があったが、その基準は恣意的であった。なぜなら、マルクス主義思想により、民族的な差異はいずれ解消されていくと考えられていたためである。現タタルスタン共和国は、たまたま外国に接していなかったために、ソ連時代に②の「自治共和国」のステイタスしか付与されなかった。そのため、ソ連邦が消滅した際にはロシア連邦内にとり残され、独立を果たすことはできなかった。他方、タタルスタンの人口の半分以下であるエストニアは、①の「ソ連邦構成共和国」のステイタスを獲得していたため、ソ連邦が消滅するプロセスにおいて、主権国家として独立を果たすことが可能となった。

このように、現ロシア連邦は、ソ連時代の行政区間をそのまま継承しているため、ロシア連邦の89の「連邦構成主体」は、非合理かつ非対称な存在である。

「主権宣言」のバレード
ソ連邦消滅からロシア連邦誕生までの道のりは、必ずしも平坦ではなかった。

85年にはじまったゴルバチョフによるペレストロイカ(建て直し)により、ソ連時代に抑えられていた民族主義が一気に噴出し、88年から89年にかけて、バルト3国やアゼルバイジャン、グルジア共和国をはじめとして、ソ連邦を構成していた共和国があいついで「独立宣言」をおこなった。さらに、90年6月12日にはロシア共和国、7月16日にはウクライナ共和国が主権を宣言し、90年末までにほとんどの旧ソ連邦構成共和国が「主権宣言」をおこなった。一般的に、「主権宣言」とは独立宣言を意味するが、建前上、ソ連邦を構成する15の共和国は、もともと主権国家であると憲法規定されていたため法的には、これらの動きは自らの「主権性」の確認をおこなったにすぎない。

こうした動きを受けて、チェチェン・イングーシ自治共和国(後にチェチェン共和国とイングーシ共和国の二つに分離)をはじめとして、ロシア共和国に内在する「自治共和国」の多くも「主権宣言」をおこなう。ただし、「ソ連邦構成共和国」とは異なり、これら「自治共和国」は形式的にも主権国家の位置付けではなかったため、まさしく当時のソ連邦を否定する動きであった。

当時、ロシア共和国最高会議議長であったエリツィンは、「望むだけの主権をとりたまえ」と豪語して、ロシア共和国に内在する「自治共和国」に対して、ソ連邦からの権限剥奪を奨励した。当時のエリツィンは、ソ連時代の中央集権体制を打破しようと考えていたため、ソ連邦が手放す権限は多ければ多いほどよいと考えていた。そこで、90年6月12日に布告されたロシア共和国の「主権宣言」…
さらに、ロシア共和国は、90年12月に、この「主権宣言」の内容を盛り込んだ形で憲法を改正して、翌年の5月に大統領制を導入する。そして、ロシア共和国が「主権宣言」をおこなったちょうど一年後にあたる翌91年6月12日に実施された自由選挙において、エリツィンが初代ロシア大統領に選出された。ロシア共和国が主権を宣言し、ロシア・ソ連史上はじめて国家元首が国民から直接選ばれた「6月12日」という日付は、現在では「独立記念日」と称され、ロシア連邦の祝日となっている。

こうして、ロシア共和国内の自治共和国にも広がった「主権宣言のパレード」は、91年末までに25の「自治共和国(現共和国)」、「自治州」、「自治管区」に及んだ。「自治共和国」の多くは、「ソ連邦構成共和国」への格上げを主張して、共和国の名称から「自治」を削除した。こうした「主権宣言」の動きは、当初はソ連邦に対して向けられていたが、ソ連邦消滅後はロシア連邦に向けられることとなり、91年六月にロシア大統領となったエリツィンは、権限を奪う側から奪われる側に立場が逆転し、今度はロシア領内の権限剥奪の動きへの対処を迫られた。

こうしたあいつぐ「主権宣言」による分離主義的な動きに対応するため、91年末のソ連邦消滅の直前、当時のゴルバチョフ・ソ連大統領は、従来のソ連邦よりも緩やかな体制である新しい連邦条約の締結を目指し、ソ連邦の構成共和国のみならず、構成共和国に内在するすべての「自治共和国」に対して、新しい連邦の構成主体となる権利を認める法律を採択した。そして、八つの「ソ連邦構成共和国」およびトルコ系のタタルスタンをはじめとするロシア共和国内の16の「自治共和国」が仮調印までおこなったが、その後の8月クーデター、ソ連邦解体、独立国家共同体(CIS)の誕生により、ソビエト連邦の再編は実現しなかった。もし、ゴルバチョフの目指すソ連邦の再編が実現していれば、ロシア共和国内の「自治共和国」はロシア共和国から分離する可能性があったことは理解しておく必要がある。…

(注1) ロシア連邦の地方区分
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# by satotak | 2007-09-20 12:12 | 民族・国家