2007年 09月 07日

民族自決と人民自決 –自決権の主体-

中野 進著「国際法上の自決権(普及版) [法律学講義シリーズ19]」(信山出版 1997)より:

自決権の主体は、「民族」又は「人民」なのであろうか。「人民」の定義、特に「人民」と「個人」との関係は、いかなるものなのであろうか。即ち、自決権は集団的権利なのであろうか又は個人的権利なのであろうか。仮に、集団的権利であるとするならば、その集団は、例えば特定の民族又は特定の言語集団などである必要があるのであろうか。

自決の原則を規定し、自決権成立過程の基礎ともいえる国連憲章においては、第1条第2項及び第55条で、「諸人民(peoples)」という文言が使用され、前文においては「すべての人民(all peoples)」という文言が使用されているが、…

…以上、自決権に関する条約及び宣言などをみてきたが、この他にも、国連がその実践過程において、ナミビア人民のような植民地人民のみならず、南アフリカ共和国国民のような1国家内の国民も自決権を有していることを認めているということも考慮すれば、現在、国連及びその加盟国などがいうところの自決権の主体は、「すべての人民」、即ち『植民地人民及び1国家内の国民』.であると考えるのが妥当ではなかろうか (なお、自決権の主体に関する学者の見解は、…自決権承認の時期の問題とも関連して、必ずしも明確なものとはなっていないが、植民地人民のみならず国民も自決権の主体として考えられる傾向にあるといってもよいのではなかろうか)。

そうして、法理論的には、国民が1人という国家もあり得るのかもしれないが、実際には複数の国民・人民によって国家が構成されているということからすれば、「すべての人民」の自決権は、一般的には、集団的権利として考えられているといえよう。しかし、確かに、自決権行使の形態としては集団的権利として行使されるが、自決権を行使するのか否か又どのような形態で行使するのかということに関する最終的な個々の決定 (例えば住民投票又は議会の構成員を選出する投票) は個々人が行なうのであるから、自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民ではなかろうか。このことは、『自決権行使の法理論上の単位は個人』であるということを意味する。

「植民地支配下の人民にとっては、歴史的伝統的な個々人の人権は、そもそも彼ら人民にこのような自決権が認められなくては真実なものとならない。その意味で、植民地人民にとって、人民自決の権利は、すべての人権を真に人権たらしめる前提となる基本的な権利、いわば基本的人権中の基本権である。」とする高野教授の見解は、植民地人民に関してのものであるが、同様のことは、国民に関してもいえるのではなかろうか。国際人権規約共通前文は、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等の且つ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め」ているが、「自決権が基本的人権中の基本権」であるならば、なおさら、自決権は「人間の固有の尊厳に由来」し且つ自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民であるということが認められてこそ、初めて「歴史的な個々人の人権は真実なもの」となるのではなかろうか。特に、,,東チモール問題及び西イリアン問題…のような問題の再発防止のためにも、住民の“代表”とされる者達による自決ではなく、個々人による自決を重視すべきであろう。即ち、確かに自決権の行使形態は集団的なものであるかもしれないが、前述の再発防止のためにも、少なくとも法理論上は、個人としての人民が自決権の主体であるという、いわば“歯止め”が必要とされるのではなかろうか。

従って、自決権を行使する際の単位は、特定の民族、部族、言語集団、宗教集団等であることは必ずしも必要ではなく、個々人の自決権に基づいて集団として一定の形態で自決権を行使すると決定した集団であればよいのではなかろうか。

特定の集団である必要はないということに関しては、宮崎教授も、国際人権規約共通第1条に規定されている自決権を行使できる「人民」の範囲に関する解釈として、「言語、習慣、種族などを共通にする『民族』『人種』などに限定されず、政治的に帰属を決定し、経済的・社会的・文化的発展を自由に共同に追求しようとする一定地域の人民であれば、自決権が認められると解される。このような解釈については、国内の分離運動を鼓吹し、国家的結束を弱めるものとして反対も予想されるが、真に自由な意思に基づくものであるかぎり、自決権は広く、どの人民にも認められるべきであろう。」と述べている。
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# by satotak | 2007-09-07 20:02 | 民族・国家
2007年 08月 30日

中央アジアにおける民族領域の変遷 (1918-1936)

岩崎一郎・他編著「現代中央アジア論」(日本評論社 2004)より(筆者:地田徹朗)):

1922年のソ連邦の形成は「民族自決」の原理に基づき、各民族の領域的自治による連邦制という形式を取った。ソ連邦結成当時の中央アジアの行政区分は、民族区分とは関係ない帝政ロシア時代のものをほぼ引き継いでいたため、それを改変していかにして「民族領域」を画定させるかが焦眉の課題となった。パン・テュルク主義的な「統一トルキスタン」を目指す構想(ルスクロフらの「テュルク・ソビエト共和国」構想)、中央アジアの経済的統一性を保つために「中央アジア連邦」を創設すべきだというホジャノフの議論など、「民族」原理での領域画定への反対論も存在していたが、それは中央アジアの政治エリートの間では少数派だった。

ただし、様々なエスニック集団が混住する中央アジアでは、はじめに領域を付与すべき「民族」そのものを画定する必要があった。「カザフ人」には1920年にすでに民族領域が付与され、「クルグズ人」は1922年にカザフ自治共和国からの分離を要求していた。それ以外にも、ウズベク、サルト、タジク、テュルク、キプチャク、カラカルパク、タランナ、クラマといったエスニック集団が混在し、カシュガルルク、ブハラリクなど都市名で白らを判別する人々もいた。これらのうち、元来は区別されていたサルトとウズベクは同一民族と見なされて「ウズベク人」に統合された。そして、「カザフ人」、「クルグズ人」、「ウズベク人」政治エリート各々が、テュルク、キプチャク、カラカルパク、クラマといったエスニック集団の自民族との近接や同一性を主張した。1926年に行われた第1回全ソ人口調査ではこれら42のエスニック集団も民族名称として残ったが、1939年の人口調査では、自治共和国を付与された「カラカルパク人」を除き、全て「ウズベク人」に統合されている。また、「ウズベク人」政治エリートは、サマルカンドやブハラなどのペルシア語系話者についても「タジク人」ではなく「ウズベク人」だと主張した。

このような政治エリート自身が「民族」を奪い合うという様相は、今度は自らの「民族」定義と合致する「民族領域」の奪い合いに発展した。1924年10月に民族・共和国境界画定の基本的な枠組みが完成するが、その後も共和国・自治共和国・自治州民族エリートは国境地域の民族分布や交通・水利面での経済的合理性など様々な理由を持ち出し、自民族に最大限の領域を確保すべくモスクワに異議申立を行ってゆく。そして、このような国境をめぐる対立は必然的に係争地の民族間関係を悪化させることになった。1936年に最終的に確定する中央アジア5共和国の形成に至るまでの民族領域の変遷については下図を参照されたい。


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# by satotak | 2007-08-30 19:41 | 民族・国家
2007年 08月 24日

中央アジアの国境 -ソ連の民族別国境画定-

岩下明裕編著「国境・誰がこの線を引いたのか ―日本とユーラシア」(北大出版会 2006)より(筆者:帯谷知可):

国境線の変遷 ―三つの契機
近現代におけるこの中央アジアの国境線の変遷を考える場合、大きく分けて三つの契機があったといえるでしょう。

その第一の契機は、帝政ロシアによる中央アジアの征服です。帝政ロシアはシベリアを征服した後に、今度は南へ向かってどんどん拡大しました。19世紀の初めぐらいからカザフ草原へ南下し、徐々にこれを征服していきます。そこに要塞線を築き、それ基地として、19世紀の後半には、中央アジア南部の、定住民の暮らす地域に本格的に進出してくるわけです。この地域では当時、コーカンド・ハン国ブハラ・アミール国ヒヴァ・ハン国という、一般にウズベク三王朝などとも呼ばれますが、それぞれウズベク系の支配者の君臨する王朝が三つ巴という状況でした。このうちコーカンド・ハン国は、完全にロシアに征服されます。これを解体して、フェルガナ州が形成されました。ブハラ・アミール国とヒヴァ・ハン国については、完全征服はされず、君主を残したかたちで保護国化されました。1867年にはタシュケント(現在のウズベキスタンの首都)にトルキスタン総督府が設置され、以後中央アジア南部地域統治の中心となりました。元来この「トルキスタン」という言葉は「テュルク(トルコ)系の人たちが住む場所」という意味で、歴史的な地理概念・地理名称ですが、明確な境界線をもったものではありませんでした。しかし、このロシアの中央アジア征服とトルキスタン総督府設置によって、「トルキスタン」は初めて具体的な境界線をもった領域を指すことになったのです(地図3-1、3-2)。


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第二の契機は、…中央アジアの民族別国境画定です。ロシアの中央アジア征服からほぼ50年を経たところで、1917年ロシア革命が起こります。革命は中央アジアにも波及しました。それまで帝政ロシアのもとで行政府として機能していたトルキスタン総督府も革命勢力によって打倒され、やがて中央アジアにソヴィエト政権が成立します。ソヴィエト政権初期には、基本的には帝政時代の行政区分、すなわち、むしろ歴史的な地理概念や地理名称に基づいた区分がほぼそのまま引き継がれていました。かつてトルキスタン総督府領だった領域にはトルキスタン共和国、ヒヴァ・ハン国だった領域にはホラズム共和国、ブハラ・アミール国だった領域にはブハラ共和国がそれぞれ形成されました。革命後の内戦の混乱が収まり、ソ連が成立すると、民族理論や民族政策をも念頭に置いて、社会主義建設のための新たな行政区分が求められるようになり、中央アジアの行政区分が組み替えられていくということになるのです。これが、すなわち、1924年から1925年にかけて行われた、中央アジアの民族別国境画定です(地図3-3)。これによって、ウズベク、カザフ(当時はキルギズ)、クルグズ(当時はカラ・キルギズ)、タジク、トルクメンの五つの民族がそれぞれ主体となって社会主義建設を行うべき五つの国――これは「国」とはいってももちろんソ連のなかでの連邦構成単位、「ソヴィエト社会主義共和国」のことですが――の前身ともいうべきかたちができていきます。民族別国境画定によって史上初めて、中央アジアに民族別の境界線が出現したことは大きな意味をもつ出来事でした。これによって「トルキスタン」という行政区分は消失し、その言葉自体もあまり使われないようになり、カザフスタン以外の中央アジア南部地域を指す言葉として「中央アジア(ロシア語でスレードニャヤ・アーズィヤ)」がもっぱら使われるようになりました。この民族別国境画定については後で少し詳しくお話ししたいと思います。


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第三の契機は中央アジア諸国の独立とソ連解体、これは1991年と、比較的最近のことです。中央アジア諸国は、いってみれば予期せぬかたちでそれぞれ独立を宣言するに至り、やがてソ連解体を迎えたのであり、1920年代ソ連体制のもとでの民族別国境画定に由来する境界線を、そのまま引き継いだかたちで独立しました。この境界線が名実ともに独立国家間の国境となったわけです。ソ連時代には閉じることを想定されていなかった境界線が、ソ連解体後のタジキスタン内戦(1992~1997)やアフガニスタン情勢の悪化、九・一一事件とアメリカによるアフガニスタン空爆の開始、さらにもっと広い世界情勢のなかの様々な要因から、中央アジア5ヵ国の国境線として、それぞれ内に向かって閉じていくという側面が出てきます。
近現代における中央アジアの国境の変遷を考えるときに、以上三つの契機を念頭に置くとよいでしょう。

中央アジア民族別国境画定のダイナミズム
中央アジ民族別国境画定は、すでに述べましたように、現在の中央アジアの「民族」と「国家」の原型もたらしました。

従来、日本の中央アジア研究では、この民族別国境画定の過程で大きな争点となった、領域再編成の原則の対立に注目が集まっていたといえるかと思います。その一方は「中央アジ連邦構想」、つまり中央アジア全体をゆるやかな連邦としてまとめるという案、もう一方は「民族別共和国構想」、つまり現在のように民族別に共和国に区分するという案でした。結果として後者が採択されることになりますが、その意思決定の構図とは、モスクワのロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会を頂点に、中央委員会の出先機関としてタシュケントに置かれた中央アジア・ビューローに領域再編成の原案作成が委ねられ、さらにその下に民族別の領域委員会が設置されてより具体的審議を行うというものでした。中央アジア・ビューローはモスクワから派遣された人々と、中央アジア出身の民族エリートも含む中央アジアのそれぞれの共和国の代表から成っていました。民族別の領域委員会は、ウズベク人の代表はウズベク委員会、カザフ人の代表はカザフ委員会、トルクメン人の代表はトルクメン委員会を形成するというかたちをとり、それぞれにおいて領域再編成案が検討され、それを中央アジア・ビューローにもち寄るというかたちをとりました。

これまでの研究では、この中央アジア民族別国境画定は、モスクワが中央アジア支配を強化するためにスターリンの民族理論を根拠として強制したものであり、その背後には「分割して統治せよ」という理念があるということがいわずもがなの前提となっていた感があります。中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくるような可能性をあらかじめ奪い取っておくべきだとの考え方が根底にある、という見方です。しかし、ノルウェーの研究者アーネ・ハウゲン(Arne Haugen)は、中央アジア民族別国境画定に関する一次資料を渉猟した成果を示した最近の著書(注1)…で、これとはかなり異なった見方を提示しています。そのなかからいくつか興味深いと思われる論点を以下に紹介してみましょう。

「分割して統治せよ」は妥当か?
「分割して統治せよ」というからには、中央アジアが一丸となってモスクワに挑戦してくることへの懸念が背後にあったことになります。それは、一面では、ソヴィエト政権が中央アジアを一体性をもちうるものとしてみていた、そして裏を返せば、中央アジアにそのような実態があった、ということになるでしょう。ところが、ハウゲンによれば、ソヴィエト政権は中央アジアをむしろ非常に小さい単位の集団の集合体、いわば寄せ木細工のような状態とみており、しばしば生じる多様な集団間(例えば遊牧民と定住民の間の)の不和・反目・衝突を抑え、大きな紛争を防ぎ、さらに効率的な統治方法を創出することに懸命でした。当時、中央アジアにおいてソヴィエト政権は何もかも力で解決できるほどには強力ではなかったので、現地出身の協力者たちに依存しなければならない点も多く、彼らの意見を可能なかぎり吸い上げ、なんとか妥協点をみいだして、彼らを自分たちの側に引き止めておかなければならないほど切羽詰まっていたというのです。従って、中央アジア民族別国境画定は、「分割して統治する」というよりは、小さい単位の集団をより大きな、適正な規模にまとめ、統治しやすくするためのものだったと理解した方がよいとしています。

中央アジアの実態の点ではどうでしょうか。19世紀末から生じたジャディード運動(ロシア帝国領内のムスリム知識人による教育改革運動。名称は「新方式(ウスーリ・ジャディード)」に由来)の担い手たちのなかから生じたトルキスタン主義のように、中央アジアが一体となって「トルキスタン人」という新しいアイデンティティを確固たるものにしようとするような動きは知識人のなかに根強くありましたが、それがどのくらい広く共有されるものだったのかについては今のところ十分に検証されていません。このような考え方が後にモスクワによって次々につぶされていき、そうした思想の担い手たちもスターリンの大粛清によってほとんど命を落とすことになったのは事実ですが、一方で、民族別国境画定をめぐる審議においても明らかなように、中央アジアの人々がすべて中央アジアの一体性を重視する考え方をもっていたわけではなく、それぞれの思惑があって、その主張は実に多様だったのです。従って、モスクワの中央アジア認識という点からも、中央アジアの実態という点からも、「分割して統治せよ」を前提に中央アジア民族別国境画定のプロセスを分析するのは妥当でないということになります。

民族の政治化
20世紀の初頭は、中央アジアの人々のアイデンティティを考えるにあたって、大変興味深い時代です。特に定住民(ウズベク人、タジク人)の場合、今日の「民族」アイデンティティはまだあまり強固なものとなっておらず、それが定着していく契機ともなったのが民族別国境画定とその前後の状況だったと言えます。それ以前の定住民のアイデンティティは、ムスリム(イスラ広教徒)というものであったり、あるいは出身の都市や居住する都市、帰属する部族に由来するものであったり、それらが重なり合ってもいたとしばしばわれます。

しかし、ソヴィエト政権のもとで、民族理論が整備されていき、また民族を主体とした行政区分(共和国、自治共和国、自治州など)が成立していくという大きな流れのなかで、中央アジアのエリートたちもその状況をみながら政治的な権利を少しでも多く獲得するためには、ソヴィエト的な「民族」としての主張を前面に押し出すことが必要だと急速に理解していくのです。こうして「民族」こそが政治的に重要なカテゴリーとなり、「民族の政治化」が生じました。例えば、ハウゲンはある地域にほぼ日常的に生じていた「遊牧民」と「定住民」との間の問題が、19220年代頃には「カザフ」と「ウズベク」、あるいは「トルクメン」と「ウズベク」という「民族」間の問題として提起されるようになっていったと指摘しています。

また、…「ウズベキスタン創設の父」とも呼ばれるファイズッラ・ホジャエフは、ペルシア=タジク文化とテュルク=ウズベク文化が共存する歴史的都市ブハラの出身で、ある時点まではブハラ人としてのアイデンティティを強力に前面に押し出し、ブハラの利益のために日々闘っていました。しかし、中央アジアの民族別国境画定が議論され始めると、ブハラをも包摂する「ウズベキスタン」設立の急先鋒に立ち、ブハラ人であることを超えて、「民族」として「ウズベク人」にならねばならないのだと熱弁を振るうようになっていくのです。…

中央アジア側のイニシアティヴ
民族別国境画定をモスクワの強制とだけとらえたのでは、このプロセスのダイナミズムを見失うことになる、というのがハウゲンの一貫した主張です。そして、限定的ではあるけれど、中央アジア側のイニシアティヴによって当初モスクワがほとんど想定していなかった結果がもたらされた例として、クルグズ人の国としてのクルグズスタン、カラカルパク人の国としてのカラカルパクスタン(現在はウズベキスタン内の共和国)の成立があげられています。ハウゲンによれば、当初、モスクワは領土的自治を与えうる中央アジアの主要民族として、ウズベク、カザフ、トルクメンの三つしか明確に認識していませんでした。細部の議論は中央アジア・ビューローに委ねられ、基本的にモスクワは下からあがってくる案をそのまま承認したといいます。

ここで、「民族の政治化」に目覚めたクルグズ、カラカルパクの代表は、「カザフ」に包摂されることをよしとせず、いわばタイミングよく「我々にも権利がある!」と手をあげたのです。それは中央アジア・ビューローでの議論で認められ、ボトム・アップのかたちでモスクワもそれを認めるに至ったというわけです(ただし、カラカルパクはソ連の構成単位を形成することにはならず、その後、カザフスタンの一部になったり、ウズベキスタンの一部になったりと複雑な変遷をたどります)。ハウゲンは、当時の中央アジアのエリートたちの間にみられた、このような交渉と妥協による合意形成は、1920年代の新経済政策(ネップ)のもとでの全ソ連的な傾向にも一致するのではないかと指摘していますが、やがてそれはスターリンの恐怖政治のもとで失われてしまいます。

「民族」としての主張の時差
この民族別国境画定のプロセスでは、中央アジアの「民族」が同時にそれぞれ自らの主張を展開したというイメージがもたれがちかもしれません。しかし、すでにみたように、クルグズとカラカルパクは、まさに民族別国境画定の過程で「民族」としての声をあげました。中央アジアの地図を見てみると、もう一つ、現在国家を有している「民族」にタジクがあるのに気づくでしょう。実は、民族別国境画定の過程でつくられた民族別領域委員会にはタジク委員会はありませんでした。タジクはいわば、さらに遅れて声をあげた「民族」だったといえるのです。

タジクは中央アジアで唯一ペルシア系の言語をもつ人々ですが、同じ定住民であるテュルク系のウズベクと非常によく似た文化をもっており、特に都市部ではウズベクと混住し、知識人らは相互にバイリンガルな世界に生きていました。現在ウズベキスタンの主要都市になっているサマルカンドやブハラといった、非常に歴史の深い大都市は、むしろこのタジクの方が主要住民であったとさえいえるでしょう。

従来の研究では、民族別国境画定でタジクは政治的敗北を喫し、サマルカンドやブハラをウズベクに譲らざるをえない結果となり、タジクは歴史的悲劇に見舞われた、という点が強調されがちだったように思われます。

しかし、ハウゲンによれば、一次資料から読み取れるのは、タジクを代表する都市のエリートたちが、民族別国境画定の段階では、声高に「民族」を主張する必要はないと考えていた、ということだというのです。すなわち、この段階では、都市民であるタジク・エリートは、ウズベキスタンにおいて同じく都市民であるウズベク・エリートと歩調をそろえてやっていける、都市定住民として相互の利益は合致すると考えていました。民族別国境画定の結果成立したタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国はウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内の自治共和国という設定で、その領域は、サマルカンドもブハラも含まず、都市民ではない、山がちな地域のタジク語住民を包摂するものでした。

しかし、民族別国境画定後、1920年代後半のウズベキスタンで、急激に「テュルク化」を強化する諸政策が浮上し、ソヴィエト・ウズベキスタンの文化がテュルク語に基礎を置いたものになる方向性が明確になると、それに対する反発として、ここで初めてタジク・エリートが声高にそれに抵抗し始めるのです。その結果、1929年、名称の「自治」がとれて、ウズベキスタンと対等な立場の共和国として、タジク・ソヴィエト社会主義共和国が成立したのでした。

こうしてみていきますと、中央アジア民族別国境画定に関連して、歴史的にみても非常に短い、数年単位というようなスパンで、それぞれの「民族」の主張が、歴史的な経緯を背景にしながらも、ソ連体制のもとで実現可能性のある具体的な要求を掲げて、頭をもたげてきたことになります。それぞれの主張が出てくる論理やタイミングも「民族」によって異なっていた点は大変興味深いと思います。

境界線を引く原則の「揺れ」 ―遊牧民にも都市を!
さて、実際に境界線を引く作業となると、特にその境界線近辺では、ある都市や集落をどちらの共和国の領域に入れるかということでしばしば問題が生じました。そのような場合、当該の地域をその住民の多数を占める「民族」の共和国に入れることが原則でしたが、ハウゲンはこの原則が行政や社会主義建設の効率を優先させるために頻繁に破られたことを指摘しています。

その一例は、現在のトルクメニスタンの一都市タシャウズ(現ダシュオグズ)です。アラル海にアム川が注ぐ三角州地帯の主要都市の一つですが、ここはウズベキスタンとトルクメニスタンの境界地帯です。タシャウズはオアシス都市で、当時の住民は約1万、その大多数がウズベクでした。遊牧民であるトルクメンはこの都市にはほとんどおらず、周辺部の砂漠地帯に暮らしていました。原則からいえば、住民の大多数がウズベクなので、タシャウズはウズベキスタンの帰属となるところです。しかし、ソ連体制のもとで想定された社会主義建設や、そのもとでの近代化政策を考慮すれば、遊牧民にも都市が必要で、都市に行政府を置いて統治する仕組みをつくり出すことが重要課題として浮上していました。この観点から、タシャウズをトルクメニスタンの帰属にしなければ、トルクメニスタン北部地域の行政が成立しないとの意見がトルクメン側から出され、協議の結果、これは受け入れられました(地図3-4)。


これと対照的なのはフェルガナ地方のクルグズの例です。タシャウズと同じ論理で、遊牧民であるクルグズの代表も都市が必要であることを主張し、ウズベクが圧倒的多数を占める都市アンディジャンを要求しました。しかし、この例では、アンディジャンのウズベクから猛烈な反対が起こるかもしれず、そうなれば大きな混乱をもたらしかねないだろうとの判断から、都市における「民族」的マジョリティの論理の方が優先されて、クルグズの要求は退けられました。その代わり、妥協策としてオシュがクルグズスタン領に組み入れられることになったのです(地図3-5)。…

現代の国境越えの旅から
さて、冒頭にも述べましたように、中央アジア諸国の独立とソ連解体を経て、以上のような経緯で引かれた中央アジア諸国の境界線は、名実ともに独立国の「国境」になったわけです。国籍、ヴィザ、パスポート、通貨交換、越境や移住のための手続き等々をめぐって混乱が起きたのはいうまでもないでしょう。それに加えて、1990年代の後半からは、タジキスタン内戦後の和平プロセスやタリバーン政権下のアフガニスタン情勢と連動して、「ウズベキスタン・イスラーム運動」などイスラーム過激主義組織の活動が活性化し、関係諸国はそうした組織の越境を警戒して、国境警備をそれぞれに強化しましたが、…
国境の「現場」はまだまだ混乱しているといえるでしょう。…

立ちはだかる国境? ―共存の道を求めて
…国境がますます「壁」となって立ちはだかっているという印象を私は年々強くもつようになりました。中央アジアの人々自身からも、歴史的に育まれてきた中央アジア全体としての諸関係がソ連解体によって完全に「分断」され、さらに九・一一事件後、アフガニスタンからイスラーム過激主義勢力や麻薬、難民の流入を懸念した中央アジア諸国の国境閉鎖・孤立主義的方策によって事態はさらに悪い方向へ向かったというような声が聞かれることもあります。

中央アジア諸国は、いわば独立後に新しいナショナリズムを打ち立てて、それぞれに異なった路線を歩んできました。そこでの「民族」や「国家」は今や揺らぎようもないものとして、太古の昔から存在してきたものとしてとらえられています。そして、各国にとって安全保障が重要なのは当然だという意味では、中央アジア域内の国境がソ連時代の共和国の境界線のように開放的になる日はもはや来ないのかもしれません。

しかし、この地域の安定と共存のためには、こうした状況を憂えてソ連時代のノスタルジーに浸るだけでなく、独立国家として、今の時代に見合った国境管理体制を共同で模索し、対話や問題解決の回路を共有し、ルールやモラルを国境の現場に浸透させていくことがいっそう重要になってくるでしょう。…
ソ連時代という共通の過去の経験は、これからの中央アジア諸国の共存のために生かされるべきだと思います。そのために、自明な「民族」も「国家」もまだ形成されていなかったなかから、現在の中央アジア諸国の原型ができ、現在の国境の原型ができた、今からわずか80年ほど前の民族別国境画定の歴史をときに紐解いてみることも無意味ではないと思うのです。

(注1) Arne Haugen, The Establishment of National Republics in Soviet Central Asia, New York: Palgrave Macmillan, 2003

(参考) 中央アジアにおける民族領域の変遷(1918-1936)
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# by satotak | 2007-08-24 16:41 | 民族・国家
2007年 07月 22日

トルガルト峠~ソン・クル湖~ビシュケク -もう一つのシルクロード-

Nikolai Shetnikov “FROM TORUGART TO BISHKEK ALONG GREAT SILK WAY
("DISCOVERY Kyrgyzstan” #9/2007 Silk Road Co.,Ltd.)より:

かつて有名を馳せ、良く知られた存在であった大シルクロードが復活しつつある。遠い昔には荷物を積んだキャラバンが中国から北方に向けてのろのろと進んでいた。自動車が駱駝や馬に取って替り、今日では絹や宝石の替わりに中国からの消費物資が運ばれ、デルヴィーシュ(イスラム神秘主義者の修行者)や巡礼者が観光旅行者に替わったのは重要ではない。最も重要なことは、大シルクロードの精神が消失せず、古代都市の遺跡にそして現代の遊牧民の気分の中に維持されているということである。トルガルト峠(注1)に数年前「アーチ」が載せられて、峠を通る道は国と時代を映す鏡に向かう道のようでもあり…見違えるほどに変貌した。


[拡大図]

峠を越え、キャラバンで1日の行程のところに、タシュ・ラバト(テュルク語、「石の構造物」の意)という奇妙な石の構造物がある。今日まで、これを誰が、いつ、何のために建てたかについて、統一した見解は出ていない。この建造物は全くユニークなもので、世界中に類似したものがない。この建造物の建設時期は10世紀と15世紀の間のいつかである。しばしばこれが隊商宿(テュルク語で「キャラバンサライ」)であると言われている。学者の多くはこれを仏教寺院、あるいはキリスト教の修道院であると考えている。しかしそれが何であったかはそれ程重要でなく、より重要のことは、それがここにあり、昔と同じようにそこでの生活がずっと続いてきたという事実である。住民はこの場所を捨てなかった。ここでは、昔と同じように、様々な国々からの人々-旅行者、遊牧民、地元民 -キルギズ人- に会うことができる。遊牧民の円形天幕(テュルク語で「ユルト」)、テント、木綿製の様々な品物、食品、そしてここでの休息や更に続く旅に必要とされる物全て - それらをここで見出すことができる。

キャラバンの行程で次の主要な地点がコショイ・コルゴン(テュルク語、「英雄コショイの丘」の意)という要塞であった。この要塞跡の直ぐ近くに現代の村(テュルク語で「アイル」)カラ・スー(テュルク語、「黒い水」の意)が位置している。残念ながらこの要塞の昔の名前は知られておらず、今ではキルギスの伝説的な英雄マナスと共に戦った同志にちなんだ名前が付いている。この要塞はかつては大きな都市 -6世紀から8世紀にかけてのテュルク族ハーン国の根拠地- であった。

現代の本道はここからナリンに向かうが、昔のキャラバン・ルートはおそらくアトバシ川に沿って進み、ナリン川を越え、そしてケクジェルティ川とソンケル川沿いに遡り、ソン・クル(テュルク語、「最後の湖」の意)湖(注2) に達するものであったろう。ここにこの見知らぬ土地を最初に発見した商人と旅人達の昔の集落があった。ソン・クル湖の美しい渓谷を昔の旅人が気付かずに通り過ぎることはできなかった。テュルク族貴人の埋葬塚 -古墳- があり、そこからこのことの証拠となる陶磁器の工芸品が発見された。キャラバンが長期に休息できる場所として、ここに大きな町があったことに疑問の余地はない。

さらに、キャラバン・ルートが川の渓谷と山の峠を通って、北方に延びていた。およそ3-4日後にキャラバンはスイエ(スイアーブ)の町に着く。ここは7世紀から12世紀に、西突厥、テュルギシュそしてカルルク各ハーン国のかつての首都であった。今は近くにアク・ベシムという村がある。「この町は周囲6-7里。様々な国から来た商人とフー人(ソグド人)がこの町に一緒に住んでいた。スイエの西隣にはいくつかの町があり、それぞれの町に首長がいた。これらの町は互いに独立していたが、テュルク(突厥)に服属していた。」 西暦630年にスイアーブを訪れた中国の旅行者三蔵がこのように記している。(注3) 現在では、アク・ベシム集落として知られる都市の遺跡が残っているだけである。この集落の範囲内で、二つの仏教寺院、一つのキリスト教教会、複数の日干し煉瓦の建物、そして様々な家庭用品が見付かった。

三蔵が記したように、スイアーブの西方30kmの地点(現代のクラースナヤ・レーチカ村)に大シルクロード上で最も大きい町であったナヴァーカートの遺跡がある。たまにこれが中央アジアのノヴゴロドと言われることもあるが、ほとんどの科学者はクラスノレーチェンスコエ集落と呼んでいる。この都市は最初ブハラやサマルカンドからの移住者によって6世紀にソグド人の交易所として設立され、12世紀まで存続したものである。商人だけでなく、様々な宗教の宣教師がソグド人に続いてここにやって来た。拝火教徒 -ゾロアスター教徒- の教会が建てられ、仏教寺院、そしてネストリウス派キリスト教徒の教会も始まった。これら宗教の教会に関係する品々(ソグド人の陶磁器製小型棺 -アッスリアス- 、ネストリウス派信者の短剣、高さ12mの仏像)、そしてコインや家庭用品など非常に多くの物が発見されており、これら全てがこの都市の過去の繁栄と力を示す証拠である。また黄金の駱駝がこの都市に埋葬されたという伝説もある。誰が、何故、何のために、駱駝を埋葬したかを誰も知らない – しかし埋葬の事実に疑問の余地はない。

クラスノレーチェンスコエ集落の西方およそ35km、現代のビシュケクの領域内に、6世紀から14世紀までテルサケントという都市があった(この名前は「背信者の居留地」または「キリスト教徒の都市」という意味のペルシャ語に由来する)。ネストリウス派信徒の銘文のある短剣と墓碑銘 -カイラク- を伴う墓石や銀と青銅のコインが発見されたが、これらは13世紀から14世紀のものであり、テルサケントの存在を証明している。歴史家は、キルギスの英雄叙事詩「マナス」の中に「タルサ」という民族が存在していたことに気付いていた。

数多くある大シルクロードのキャラバンルートの一つに沿った短い旅によって、中世の民族と歴史的展開についてこの上ない重要性を理解することができる。テュルク帝国と中国帝国、チンギスハーン、アラブ人のイスラム戦争を見た - これら全てを大シルクロード沿いの町々は切抜けて生きてきた。大シルクロードが存在した当時、時代や民族がこれらの町々を抑圧することはなかった。これら都市の消失を引き起こしたのは、唯一中国からヨーロッパに至る海路が発見されたがためである。

大シルクロードが再び生き生きとしてきた。新しい都市が昔の町の近くに生まれつつある。交易、交渉そして友好関係という理念が再び、かつて古いキャラバンの道が通っていた国の人々の主要な行動指針となってきた。そしてそれが永遠に未来に向かう道であることを信じようではないか。

(注1) トルガルト峠:標高3,752m。南に170kmほど下ると、中国新疆ウイグル自治区西端部の中心都市カシュガルがある。

(注2) ソン・クル湖:キルギスのほぼ中央、ビシュケクの南南東約120kmのところにある湖。標高3,016m、長さ29km、幅18km、深さ13m、面積278k㎡。キルギスでイシク・クル湖に次ぐ大きさの湖だが、イシク・クル湖とは違って淡水湖であり、9月から6月まで氷が張る。年間の平均気温約-3.5℃、夏季は約11℃。冬は気温が-20℃まで下がり、200日間ほど雪がある。
エーデルワイスなどの高山植物、カモミル、ヤマヨモギなどのハーブ・薬草類が豊富で、カモメ、カモなどの水鳥、シカ、マーモットなどの動物を見ることができる。
湖の周りには4,000m級の山々に囲まれた広大な高原が広がっており、馬、牛、羊の夏の放牧地になっている。
湖畔には民宿風のユルタ(フェルト製の円形天幕)があり、旅行者が利用できる。
(Lake Son-Kul, KyrgyzstanSonkul Lake参照)


(注3) 「城の周は六、七里ありて、諸国の商胡は雑居せり。…素葉已西に数十の孤城あり。」と『大唐西域記』にある。
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# by satotak | 2007-07-22 12:39 | キルギス
2007年 06月 11日

チンギス・アイトマートフ -キルギスの知性-

[1]
アイトマトフ | Chinggiz Aytmatov[クルグズ]|Chingiz Aitomatov[ロシア] | 1928-
クルグズスタンの作家.タラス州の農村に生まれ,祖母らからクルグズ民話を,母からロシア文学を教わりながら育った.父トロクルは共産党幹部だったが1938年に処刑された.53年クルグズ農業大学卒,畜産技師として働く.

共同体の規範に背いて出征兵士の夫を捨て恋を貫く女性の物語《ジャミラ》(1958)で名声を得,これを収録した《山と草原の物語》(1962)でレーニン賞受賞.作品の多くは,クルグズスタンとカザフスタンの自然と生活の絵画的な描写と,教訓的・寓意的・悲劇的な内容を特徴とする.初期はおもにクルグズ語で短編・中編を書いたが,60年代後半以降はロシア語でおもに長編小説を書く.《一世紀より長い一日》(1980〉はソ連戦後史の暗部を描き,作中の伝説に登場する〈マンクルト〉は,民族的伝統を失った人々をさす言葉として中央アジアで流行した.その他の代表作に《白い汽船》(1970),《処刑台》(1986),《カッサンドラの烙印》(1994)などがあり,多くが日本語に訳されている.映画の脚本作品も多い.

ソ連大統領会議メンバー(1990),ソ連(のちロシア)の在ルクセンブルク大使(1990-93),クルグズスタンの在ベネルクス3国大使(1994- )を務めるなど,政治家,外交官としても活躍.子のアスカルはクルグズスタン外相(2002- ).
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より(筆者:宇山智彦))


[2]
「いとしのタパリョーク」 訳者あとがき
キルギス共和国生まれの、現代ロシア文学を代表する作家チンギス・アイトマートフ(1928- )は、1957年、「セイデの嘆き』(原題は『面と向かって』)でロシアの文壇にデビューする。この作品は脱走兵を匿い続けた妻が、夫の人間性の喪失に耐えかねて、やがて官憲に夫を突き出すというショッキングな幕切れで、物議をかもした。
翌年発表された『ジャミーリャ』では、因習を打ち破って愛を貫く女性の姿を詩情豊かに描きだし、フランスの詩人から「世界一美しい愛の物語」という絶賛を浴びる。
そして61年、この『いとしのタパリョーク』(原題は「赤いスカーフをした、私のタパリョーク』)によってレーニン文学賞(当時の国家最高文学賞)を受賞する。この初期三部作によって、アイトマートフは作家としての地位を不動のものとする。

『セイデの嘆き』が人間の倫理観を強調したのに対し、『ジャミーリャ』では純粋な男女の愛を謳いあげたが、『いとしのタパリョーク』では、より複雑で現実的な両者の止揚が試みられている。つまり、男女の情愛を越え、それをも抱合する人間の愛情が描かれているのである。
「セイデの嘆き』がアンハッピー・エンドで、「ジャミーリャ』がハッピー・エンドであるとするなら、「いとしのタパリョーク』はナチュラル・エンドと言えるだろう。一人ひとりが人生の痛みを抱いて生きていく――これが生の実相だとでも言わんばかりの、作者の声が聞こえてきそうである。その後、彼は恋愛小説を卒業する。

アイトマートフは、知識人の国際会議「イシク=クーリ・フォーラム」と「アイトマートフ金の文学賞」を主催している。また、ペレストロイカの頭脳の一人として、ソ連大統領ゴルバチョフを支え、ソ連崩壊後にはキルギス共和国の初代大統領に推されたが、固辞した。現在は、キルギス共和国のベネルクス三国担当の大使として、ブリュッセルに在住している。前記代表作のほか、『最初の教師』、『母なる大地』、『白い汽船』、『一世紀より長い一日』、『処刑台』、『チンギス・ハンの白い雲』、『カサンドラの烙印』など、多数の作品がある。


さて、かつてこの作品が映画化された時のこと。当時の助監督の話しによると、峠でのロケ中に野次馬がいるのに気づき、危ないので立ち去るように命じたら、その男は素直にその場を立ち去ったという。

あとでそれが、他ならぬ原作者と知って、助監督は冷や汗が出たと述懐している。アイトマートフは、撮影の邪魔をしてはいけないと思って言う通りにしたと、後に語っている。彼の人柄を髣髴させるエピソードである。


1998年の晩秋、私は初めてアイトマートフに会った。当時、彼の文学についての論文を書き終えた私は、知人の紹介で、多忙な作家を東京のホテルに訪ねたのだった。会って拙論を手渡すと、私は矢継ぎ早に鋭い質問を浴びせられ、まるで論文の審査を受けているような気分になった。

とにかく一つの質問と、一つの要望、そして一つの許可をもらうことを考えて会見の場に臨んだ私は、まず、こう質問を発してみた。
「あなたにとって、男女の愛とは何ですか?」
「《贈り物》、そして《試練》。愛があるから、人は成長できる」
間髪を入れない明快な解答であった。その内容もさることながら、青臭い質問にこれほどまで明確に、何の逡巡もなく、齢七十を過ぎた人間が即答できるなんて、私には脅威であった。その語り口に私は素直に感動した。
次に、
「また是非、恋愛小説を書いてほしいのです」
そうお願いすると、
「今、書いているところだよ」
これも間髪入れずに答えが返ってくる。私は嬉しくなった。
最後に私は、彼に許可を求めた。
「『赤いスカーフをした、私のタパリョーク』を、日本で出版したいのですが……」
「それには、何が必要なんだね?」
「あなたの許可です」
「それなら問題ない」
言下に彼は答えた。
快く記念撮影にも応じてくれた彼は、別れ際にちょっと考え込んでから、口を開いた。
「原題が長いので、それを直訳しても、日本語の小説の題名としてはたしてふさわしいかどうか...。どうするつもりだ?」
「『いとしのタパリョーク』にします」
私がそう答えると、
「それはいい」
にっこり、彼は微笑んだ。
ふと時計を見ると、予定の会見時間はゆうに過ぎていた。

(チンギス・アイトマートフ著「いとしのタパリョーク」(鳳書房 2000)より(筆者:阿部昇吉))


[3]
「処刑台」 訳者あとがき
チンギス・アイトマートフは1928年にキルギーズ共和国のタラース盆地のシェケル村で生まれた。1928年というと、ソ連では左翼反対派の指導者トローツキイがアルマ・アタに追放され、第一次五カ年計画が開始された年にあたる。スターリン時代の始まりである。...粛清はアイトマートフの肉親にも及んだ。1988年7月11日発行の『アガニョーク』誌のインタヴューで作家は1937年に父親と二人の叔父が抑圧された、と自から告白している。だとすると9歳でスターリン主義の試練に遭い、13歳で15百万人の犠牲者を出した大祖国戦争を体験したことになる。戦後は畜産中等専門学校、次いでキルギーズ農業大学を卒業(1953年)した後、1956年まで畜産研究所の実験農場で畜産技師の職にあった。在学中に文学活動を始め、1952年に地元の新聞に処女作である短篇小説をキルギーズ語で発表している。1956年にアイトマートフは職業としての文学の道を歩むべくモスクワのソ連作家同盟付属文学学校に入学、ここで2年間にわたって学んだ。この間、1957年にソ連作家同盟に迎えられている。今までに発表された作品は1980年発表の長篇『一世紀より長い一日』(飯田規和訳、講談社)を除くと、ほとんど中篇小説で、初期のものはキルギーズ語で発表されたが、1966年の「さようなら、グリサルィ!』(小野理子訳、『ソヴェート文学』19号)以後の作品は最初からロシア語で書かれている。アイトマートフはソ連の各民族共和国出身の作家の多くの例にもれず、バイリンガルなのである。

長篇小説『処刑台』は一昨年、雑誌「ノーヴィイ・ミール」の6・8・9月号に連載、発表された。この作品は扱った題材の衝撃性、内容的にペレストロイカと呼応する時局性、作者がソヴェート社会に向けて放った血と涙のにじむような問いかけなどにより、連載開始と同時に文学界はもとより、一般読者から宗教界までを巻き込む反響を呼び、とりわけ若い層に深い感動と共感をもって迎えられた、と伝えられる。…

革命後70年間に最初の社会主義国家[・ソ連]は干渉戦、大戦、封じ込め政策を耐え抜いて確実に守られたのみか、超大国にまでのしあがり、国内的には餓死する人や住む家を持たない人がいない、金がないために医療や学校教育を受けられない人がいないという意味で、絶対的な貧困は一掃された。だが、このためにどれほどの犠牲が払われなければならなかったか。特に人間の内面生活がどれほどないがしろにされてきたか。ソ連共産党の党員であり、無神論者であるアイトマートフが、無垢と善への志向のみを武器に素手で「国の威信」という名の既成秩序や麻薬犯罪(=俗世の悪)に闘いを挑む元神学生アヴジイ・カリストラートフを主人公に選んだのも、このことと深いつながりをもつと思われる。乖離した内面世界と現実世界の調和と再生はこの作品の主要テーマの一つである。またこれと関連して、小説の題名『処刑台』がキリストの礫刑にも似た主人公の『殉教』を象徴していることは、お読みいただいた方には容易に分かっていただけることと思う。

アヴジイ、グリシャン、カソグーロフ、ボストン、バザルバイ、コチコルバーエフといった各々象徴的な人物と並んで、小説にはもう一組の重要な主人公がいる。それは言うまでもなく、アクバラとタシチャイナルという狼の夫婦である。大自然を具現するこの2頭の狼をめぐる民話風の哀しいバラードは小説の各プロットを糸のようにつなぎ、人間と人間、人聞と自然の相克に悲しみの光をあてている。『処刑台』は「ペレストロイカの小説」とか「ソ連におけるタブーを扱った問題作」とかいった風にセンセーショナルな面ばかりが強調されている観がなきにしもあらずだが、作品の文学性と作家の真骨頂はむしろ狼の生涯をして自然への深い愛情と畏怖とを語ったこの部分に発揮されていると訳者は思う。

人間の文明が自然に対してふるう破壊力を前にたじろぐ作者のもはや怒りを通り越した憂欝な眼差しが見える。多彩な生命の営みを内部に秘めた渺渺たるモユンクムィの大草原、天山山脈を仰ぎ、深く厳しい山塊に真っ青な湖を象嵌(ぞうがん)のように嵌めこんだキルギーズの自然は単に小説中の出来事の舞台であるはかりでなく、アイトマートフが『処刑台』全篇を書くにあたって寄って立つ精神的根拠そのものであるのだから。

(アイトマートフ著「処刑台」(群像社 1988)より(筆者:佐藤祥子))
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# by satotak | 2007-06-11 22:47 | キルギス
2007年 05月 31日

玄奘三蔵の足跡 -天山・イシククル湖・スイアーブ-

桑山正進著・訳「西域記-玄奘三蔵の旅」(小学館 1995)より:
高昌王の援助
仏教をあつく信じていた[高昌国王]麹文泰(きくぶんたい)は、玄奘が高昌にとどまって自分の先生になってくれるようさかんに要請したが、玄奘はこんなところでとどまるつもりは毛頭ないから、三日の絶食をして意思をまげなかった。

決意のかたいことを知った麹文泰は、母である張太后(ちょうたいごう)を証人として仏前で兄弟のちぎりをむすび、インドからの帰り道にも立ち寄って三年の間とどまって供養(くよう)を受けるよう約束させた。

そこで麹文楽は、玄装の出発に際していろいろな旅装をととのえてやった。
(一)衣類 僧侶としての衣装三十具。頭巾(ずきん)、手袋、靴、靴下などおのおの数点。
(二)旅費 黄金百両、銀銭三万、綾(あや)ぎぬ五百匹。
(三)身のまわりを世話する人 四人。
(四)人足 二十五人。
(五)馬 三十匹。

その上さらに臣下にエスコートさせ、[西突厥の]統葉護可汗(とうしょうごかがん)の王庭まで送らせた。高昌の西のクチャをはじめとして、通過する道筋の二十四国の王には、それぞれおおきな綾ぎぬ一匹と手紙、統葉護可汗には、特別に綾ぎぬ五百匹と果物を満載した車二台を用意した。添えた手紙には、
 「法師はわたくしの弟であります。仏法を求めて、インドへまいろうとしております。どうか可汗は、わたくしめと同様、法師にもまたあわれみをたれ賜(たま)わんことを」
としたため、玄奘を紹介して全面的援助を依頼した。

玄奘はたまたま高昌に行ったことで、支配者の絶大な援助をうけることになり、また高昌と西突厥とが婚姻をとおして密接な関係にあったことを通じて、その王庭まですっかり護送され、なんなく到着することが可能になった。

もともと、西突厥の勢力圏内に早くはいることをめざした玄奘であったけれど、道こそちがえ、西突厥の勢力下に無事はいることができたわけである。これを苦難のひとり旅とはいわない。

西突厥王の篤いもてなし
その西突厥は、ヒンドゥークシュの南のカービシー=カーブル国と親和関係にあったから、王庭からヒンドゥークシュの南まで、可汗の息のかかったところを護送され、またしても楽な旅であった。
統葉護可汗は高昌王から、かれの望むところの綾きぬや果物など膨大な贈りものをうけとり、玄奘に対する便宜もまた、これにしたがって絶大なものがあった。

すでにのべたように、統葉護可汗や西突厥に関する記録は『西域記』にはほとんどないので、『慈恩伝』にもとづいてかれらのことを記しておこう。
まず最初は、玄奘が統葉護可汗に会ったところである。

玄奘は高昌の歓信(かんしん)というひといっしょに、たくさんの荷物を馬につんで、大キャラバンをくんで天山山脈をだいぶ西側で越えた。北側に出ると、そこはイシク・クル。熱海(ねっかい)とよばれた一大塩湖である。『西域記』によれば、周囲は千里あまり、『慈恩伝』では千四、五百里という。東西がひろく南北はせまく両囲は山岳。諸川が流れ込み、湖水は青黒く、風がつよくなくても高い波が寄せ、魚類は多いけれども捕れないと、記されている。(注1)

ここをまわりこんで北西へ五百里行くと、チュー河河畔のスイアーブの町。いまのフルンゼから東へ四十キロほどである。この町のまわりに可汗はそのときいた。『慈恩伝』それを描写している。

スイアーブに到着し、突厥の統葉護可汗に出会った。
ちょうど狩猟中のことでもあり、馬がたくさん集まって盛観である。可汗(かかん)は緑色の綾織り筒袖の外套(がいとう)をはおり、冠はかぶらず絹のはちまきをし、髪を後ろにたれさげている。有力部族の長たち二百人あまりが、みな髪を編んで、錦の筒袖の上着を着、大可汗の左右をかこんでいる。
そのほかの兵士たちはみな皮衣(かわごろも)とかフェルトを着け、旗印をかかげて短い弓をもち、ラクダや馬に騎乗して、目のとどくかぎり数しれない。
玄奘と可汗ははじめてあいまみえることになった。可汗はとても喜び、
「しばらくさるところへ行くが、二、三日で帰るはずである。さきに本営に行かれよ」
とのこと。お付きの部下に玄奘たちを本営までおくらせ、旅装をとかせた。

三日たつと可汗は帰ってきた。法師をつれて可汗のテントに入ることになった。
可汗はおおきなテントに住んでいた。テントは金の飾りもので飾り、まばゆいばかり。大勢の部下が可汗のまえに長大な絨毯(じゅうたん)をつらねて二列になってすわり、みな錦の服を着て輝き、衛兵たちがずらっと後ろにたっている。
このありさまを見ると、遊牧の王ではあるが美を重視していることわかる。

法師はテントから三十歩のところにいた。可汗はテントを出て、ていねいに迎え、通訳を通じて慰労の言葉を伝えると、自分の座所にもどった。
突厥(とっくつ)は火をあがめているので椅子を使わない。椅子は木であり、木は火を宿すとおもっているので、敬遠し、床に布団を重ねて敷くだけである。そんなわけで法師のためには鉄製の折り畳み椅子を設け、そのうえに布団をおき、すわれという。

少したって、高昌から玄奘を送ってきた中国人の使者と高昌人の使者を引見した。かれらはテントにはいって、高昌国王の公式の手紙と手紙にはかならずつくことにきまっていた贈りものを渡した。
可汗は自分でこれを見てて、たいそうご満悦であった。使者たちをすわらせ、酒を出し、音楽をやらせ、可汗はなみいる部下たちや使者たちと酒宴をひらく。
葡萄(ぶどう)ジュースを特別に出させ、法師に捧げた。これからみなが自分たちで互いに酒をすすめあって飲みはじめ、酒杯はいりみだれ応酬し、夷狄(いてき)の音楽が弦楽器や打楽器でかわるがわるいろいろ演奏される。蕃族(ばんぞく)の音楽ではあるが、なかなか聞いてよし見てよし、こころを楽しませてくれる。
しばらくしてさらに食事となった。みな牛や羊の焼いたものと煮もののたぐいで、これらをみなの前にたくさんつみあげる。
法師には別につくったものをだしてくれた。コムギ粉のパン、米飯、ヨーグルトやミルク、氷砂糖、蜂蜜でつくったもの、葡萄などがそろっていた。食事がおわると葡萄のジュースをのんだ。

そこで可汗は、法師に仏の教えを説教するよう要請した。
法師は、十の善行(ぜんこう)を実践して生きとし生けるものの命を大事にしなければならないという根本から説きはじめた。
パーラミタという大乗の行法が解脱にいたるわざであるという点にまで説きすすんだ。可汗は両手をかかげて額をうち、喜びにたえないというふうで、教えをその心にうけたのであった。

こんなことで、ここに滞在すること数日。可汗は法師にいった。
「インドには行かないほうがよろしかろう。あそこは暑さきびしく、…」
という。法師は答えた。
「いまそこへ私が行こうというのは、仏のあとをたずね、その教えを慕いもとめたいとおもうだけです」
それではしかたがないということで、可汗は軍中に命令して、中国語と諸国語がわかるものをさがさせたところ、以前に長安で数年すごし、中国語がわかる青年がみつかった。すぐにこれを通訳官に任命し、またおおくの国書を作成し、かれに護送させてヒンドゥークシュ山脈の南のカーピシー国まで到達せしめることになった。
一方、綾ぎぬの緋(ひ)の法衣(ほうい)をひとつと、絹布五十匹を法師に布施(ふせ)し、可汗は群臣とともに十里ばかり見送ってくれた。


可汗は高昌の麹文泰から護送されてきた玄奘を厚くもてなしたあげく、通訳を正式に任命してヒンドゥークシュを越えたところまで護送してくれた。
伝記の文は簡潔にしか書いてないが、実際にはここからさきカーピシーまで、玄奘は可汗の勢力下でその力をかりて、なんなく通行したことを意味している。
ソグド地方のサマルカンドをへて南へと行き、ザラフシャーン山脈を越えて、アム河流域にはいった玄装は、可汗が長男にタルドゥシャドという官職をあたえて置いていたワル国でいったん旅装をとく。その長男に嫁していたのは、麹文泰の妹であった。

(注1) 『大唐西域記』によると、玄奨の西遊は恐ろしく苦難に満ちた旅であった。しかし、この国外脱出者の高僧としての噂はすでに西域の異民族の間にも伝わっていたらしく、玄奘は方々で歓迎されたり、援助の手を差しのべられたりしている。とは言え、言葉も判らず、人情も風俗も判らぬ国々を次々に経廻(へめぐ)って行くのであるから、その労苦のなみ大抵でないことは当然である。玄奘は高昌国、阿耆尼(あきに)国、屈支(くっし)国、跋禄迦(ばるか)国といった西域北道に沿った小国を通過し、天山へはいって行く。天山の一支脈である凌山を通過する時はたいへんであった。

 《国の西北より行くこと三百余里にして石磧(せきせき)を渡って凌山に至る。これ則(すなわ)ち葱嶺(そうれい)(パミール高原のこと)の北原、水多く東流す。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消泮(しょうはん)することありと雖(いえど)もついでまた結氷す。経途は険阻(けんそ)にして寒風は惨列なり。暴竜の難多くして行人(こうじん)を陵犯す。この途(みち)による者は衣を赭(あか)くし、ひさごを持ち、大声に叫ぶことを得ず。微(かす)かに違犯するあれば、災禍目のあたりに見る。》

こういった高い調子の旅行記である。暴竜の難が多いというその暴竜とは何のことであろうか。竜巻のことであろうか。しかし、風のことは風のことで別に書いている。
 《暴風奮発、沙を飛ばし、石の雨をふらし、遇(あ)う者は喪没し、生を全うすること難し。》

この凌山越えで、実際に玄奘は同行した従者や牛馬の多くを失っているので、必ずしも表現がオーバーであるとは言えないようである。惨憺(さんたん)たる苦難の泊りを幾つか重ねて、やっと凌山を越えると、玄奘はそこにイシククル湖の美しい湖面を見た。湖面が美しいのは一瞬のことで、どうしてひとすじ縄で行く相手ではなかった。勿論玄奘の頃はイシククルとは呼ばれていなかった。玄奘は大清池と呼んでいる。

 《山行四百余里、大清池に至る。あるいは熱海と名付け、また鹹海(かんかい)と謂(い)う。周千余里、東西長く、南北狭し。四面山を負い、衆流は交湊(こうそう)す。色は青黒を帯び、味は鹹苦を兼ねたり。……:竜魚難処霊怪はしばしば起る。ゆえに往来する行旅は禱(まつ)って以(も)って福を祈る。水族は多しと難も敢て漁捕する者なし。》

ここにはしばしば霊怪が起ると記してあるが、この霊怪なるものの正体もまた判らない。しかし、これを玄奘がいい加減なことを書いたとするわけにはいかない。他の記述は恐ろしいほど正確であるからである。イシククル湖が熱海と呼ばれているのは不凍湖であるためであり、鹹海と謂われていたのは水が塩分を含んでいるからである。

玄奘はイシククル湖畔を過ぎ、なおアラトウ山脈を越えたり、チュー川に沿ったりして、チュー盆地へ降りる。するとそこに突厥の都邑である素葉城[(スイアーブ)]があった。「清池西北行五百余里素葉水城に至る」。玄奘は簡単に記している。
素葉城の地は、現在のトクマク付近とされている。湖畔からトクマクまで都邑はなかったのである。烏孫の時代にあったその王都赤谷城のことはどこにも記されていない。漢の公主が王の妃として、更にまたその王の孫の妃として何年かを過した赤谷城は、玄奘の頃は影も形もなくなっていたのである。凌山の暴竜の為せる業か、あるいは大清池の霊怪の為せる業なのであろう。…
(井上靖著「西域物語」(新潮文庫 1977)より)
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# by satotak | 2007-05-31 13:16 | キルギス
2007年 05月 22日

イシククル湖 -天山の湖-

井上 靖著「西域物語」(新潮文庫 1977)より:

…天山の山ひだ深くに匿(かく)されているイシククル湖は、玄奘が通過した後も決して歴史とは無縁ではなかった筈である。8世紀のアラブの侵入、13世紀のモンゴルの侵寇(しんこう)、さらに降るとチムールの大兵団の移動がある。次々に異った民族が、中央アジアの征服者としての姿を、イシククル湖の湖面に映して来る。またこうした大侵略兵団の到来の間々を縫って、前述したように中国兵が湖畔を通過する時代もあれば、カラハン朝を初めとするこの地帯の征服者たちがその時々の誇りやかな姿を湖畔に現わした時代もある。そしてその度に、イシククル湖の湖畔には都市や聚落が建設されたに違いない。大きな都邑もできていたかも知れないし、小さい聚落がちらばっていたかも知れない。しかし、そうしたことの詳しい記述はない。
多少詳しくイシククル湖が紹介されたのはアラブの時代、それに次いでは14世紀のチムールの時代であって、チムール時代の文献に依ると、湖畔には定着生活を営んでいる聚落が点々としてあり、美しい草花が咲乱れ、果樹栽培が行われ、湖上には島があって、王宮が築かれていたという。そしてチムールも屢々(しばしば)軍旅の疲れを、この天山山中の湖の城に.医(いや)しにやって来たというようなことが記されているが、果してそのような事実があったかどうかは判らない。チムールの軍隊がこの地方を通過したことだけは間違いないが、総帥チムールが自らこの地方に足を印したかどうかは疑問とされている。しかし、湖上に島があったことと、そこに城が築かれたということの方は事実と見ていいようである。

ただ面白いのは、15世紀に存在し、16世紀にも存在したに違いないと思われるその島も、城も、これまたいつか影も形もなくなってしまっていることである。18世紀の前半に、ロシア人は初めてこの地方に進出するが、その記録にはイシククル湖畔には僅かのキルギス人が遊牧していることが記されているだけである。そしてその時作られた地図には島は記載されていない。

19世紀中頃からロシアの探検家がこの地方に足を踏入れ始めるが、その中でも有名なのはセミョノフ・チャンシャンスキー、プルジェワリスキー等である。…
わが国に於て西域探検家として最も有名であるスウェン・ヘディンもイシククル湖畔に足を印している。その著『さまよえる湖』の中に、彼がイシククル湖畔でプルジェワリスキーの墓に詣でたことが記されている。…

天山に関する地理学的研究で不朽の業績をあげたセミョノフ・チャンシャンスキーもイシククル湖畔を度々通過したことであろう。セミョノフにとっても、プルジェワリスキーにとっても、ヘディンにとっても、イシククル湖は、どうしてもそこを通過しなければならぬ東トルキスタンヘの足がかりであり、大遠征旅行の重要な一基地であったのである。しかし、そのイシククル湖そのものの異変については、この偉大な探検家たちも思いを致すことはなかったであろう。大天山が、あるいは天山の向うの未知の世界が彼等を大きく呼んでいたからである。

しかし、この三人の大探検家も、あるいはイシククル湖畔の住民たちから、この地方に伝わる伝説の幾つかを聞く機会を持ったかも知れない。

その伝説というのはなかなか面白いものである。――昔、いま湖になっているところは美しい平野になっていて、平野には幾つかの町が繁栄していた。人々は平和に豊かに生活していたが、ある時一人の魔女がやって来て、町の人たちをすっかり堕落させてしまった。天山山中の静かな美しい町は、忽(たちま)ちにして淫蕩(いんとう)な騒がしい町に変った。これを見てすっかり腹を立てた神は、一夜にして町を水びたしにし、一帯の地を今日見るような湖にしてしまった。

また、こういう伝説もある。いま湖になっているところに、昔一つの町があった。町の人たちは平和に楽しく暮していた。この町のただ一つの欠点は泉が一つしかないことで、町中の人は毎日のように壷を持って、泉に水を汲(く)みに行った。泉には鍵(かぎ)を預かる聖者がいて、人たちはその鍵番の聖者から鍵を受取って、泉の水を汲み、汲み終ると、泉に鍵をかけ、再びその鍵を聖者に返す掟になっていた。ところが、ある時、ひとりの娘がこの掟を守らなかった。彼女は水を汲んだあと、恋人と愛の囁(ささや)きを交すのに夢中になってしまって、鍵を鍵番の聖者に返すことを忘れてしまったのである。恋人たちが鍵のことを思い出した時はもう遅かった。泉からは水が噴き出し、もうどんなことをしても、それをとめることはできなかった。見る見るうちに町は水びたしになり、何日もたたないうちに、町は水の底に沈んでしまった。

この地方には同じような伝承が幾つかあるが、どれも町の瞬間的破局を物語るものばかりである。

あるいはまた三人の探検家は、湖畔に点々とちらばっている聚落の住民たちの生活に接して、奇異な思いを持ったことがあったかも知れない。そうしたことがあっても、いっこうに不思議はなかったのである。なぜなら湖畔の住民たちは、奇妙な皿に料理を盛って食べ、奇妙な器で酒を飲んでいたからである。いずれもこの地方で造られていない器物ばかりであった。それもその筈、住民たちはそれらの品を湖底から獲(え)ていたからである。自然に湖岸に打上げられて来たものもあれば、住民たちが自ら湖の中にもぐって行って拾って来たものもある。彼等が湖中から得たものは食器類ばかりではなかった。彼等が住んでいる家も、湖中から得た日干し煉瓦(れんが)で組みたてられてあったのである。

そしてまた、三人の偉大な探検家たちは、湖底に一つの都が沈んでいるという伝承と、その伝承を裏付けでもするように、時折、湖岸に人骨や武器が打上げられたりする話を耳に入れたかも知れない。恐らくセミョノフも、プルジェワリスキーも、ヘディンも、イシククル湖の不可思議な伝承に耳を傾け、イシククル湖から出て来た土器や煉瓦を己が手で取上げ、それに触ってみ、撫(な)で廻し、それから改めて思いをイシククル湖の広い湖面に馳(は)せたことであろう。しかし、そうした天山山中の湖の秘密の解明は、いかに魅力あるものであっても、彼等の仕事ではなかったのである。天山の氷河が、タクラマカン沙漠が、チベットが、青海が、ロプ湖がより強い力で彼等を呼んでいたのである。…

ソ連科学アカデミー考古学研究所によって、イシククル湖の考古学的調査が行われたのは1958年のことであった。若い研究所員たちは潜水具を身に着けて、湖底を探った。

考古学者たちは湖底において宮殿の壁の一部と思われる煉瓦積みを見たり、大量の煉瓦の堆積(たいせき)を見たりした。古代の柵(さく)もあれば、古代の水道管もあった。が、引上げることのできるものは、その一部でしがなかった。それでもいろいろなものが地上に上がった。高価なうわぐすりのついた煉瓦もあれば、浮彫り装飾のある焼結土板もあった。青銅製の容器もあれば、鉄製の槍首もあった。数十キロの重さの石臼(いしうす)もあれば、人骨も、獣骨も、武器も、農具もあった。最初の潜水で発見し、二度目の潜水で姿を消しているものもあった。そうしたものの中で、潜水者たちを残念がらせたものは二個の金製の釜であった。イシククル湖底は、潜水者たちにいろいろな物を見せたり、匿したりした。

調査は翌年も翌々年も続けられた。各所の湖底で石を敷きつめた舗道が発見されたり、大きい建物の基礎が発見されたりした。大煉瓦工場跡も出て来た。

この調査によって判ったことは、湖底に聚落が沈んでいるということであった。大きな都邑であるか、小さい幾つかの聚落であるか、そうしたことは判らないにしても、とにかく曾て人間が集り住んだ一区域が建物や人間と共に沈んでしまっているのである。

この調査団の一員であるボリス・ジューコフはその著『イシククル湖の波の下』(加藤九祚(きゅうぞう)氏訳「湖底に消えた都」)において、イシククル湖の持つ不可思議さを過去に何回にもわたって起きた地震によるものとしている。湖底から引上げられたものが一つの時代のものではなく、さまざまな時代にわたっているからである。(注1)

――イシククル湖全域にわたる破局というのはなかったと考えられる。きまざまの時代と、さまざまの地域で、地震によって湖岸の一部が水中に沈んだのである。場合によっては、湖岸の聚落のある部分が水中に没することもあったが、多数の人命の犠牲をともなうことはなかったようである。これこそは、民間伝承のうちに大破局の明白な痕跡(こんせき)が残ってない主な理由ではないだろうか。しかし現地のなかば破局的な現象は、空想に包まれてはいるが、民間伝承の中に全く見出されないわけではない。多くの場合これらの伝承の本質は、イシククル湖そのものの成因の説明に向けられているけれども、同時に地震の一般的な様相にもふれている。

ボリス・ジューコフはこのように結論している。

私は二回の西トルキスタンの旅で、二回ともイシククル湖畔に立つことを希望したが、その願いは果されなかった。地図の上で見ると人間の眼のような形をしている天山山中の湖を、飛行機を使えば30分もかからぬ地点まで来ていながら、瞼の上に思い描くだけで満足しなければならなかった。大きさは丁度琵琶(びわ)湖ぐらいである。そして南と北には4000メートル以上の山が迫っている。北にあるのはクンゲイ・アラトウ山脈、南にあるのはテルスケイ・アラトウ山脈である。四時雪を戴いた屏風(びょうぶ)のような一つの山脈に挾まれて、人間の眼のような形の湖が置かれているのである。玄奨三蔵が記したように、この天山山中の湖には、確かに“暴竜”が住んでいたのである。今なお住み続けているかも知れない。イシククル盆地は現在も活溌な地殻活動が行われている地帯であるからである。

(注1) 烏孫 赤谷城:イシククル湖は...紀元前後は騎馬民族烏孫の地で、その首都赤谷城はシルクロードの開拓者張騫が訪れ、烏孫に嫁いだ漢の公主が住んだ所と言われていたが、長い間その所在が確認されなかった。しかし1985年の調査により、イシククル湖東の湖底にある遺跡がほぼ赤谷城であると特定された。
(「キルギス写真旅程1」より)
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# by satotak | 2007-05-22 16:25 | キルギス
2007年 05月 10日

井上靖とキルギス・イシククル湖

読売新聞(2007.5.19朝p.37)より:

井上靖墓前に西域の石 生前に訪問切望 イシククル湖からキルギス顧問が持ち帰る

 生誕100年を迎えた作家 井上靖(1907~91年)が生前、訪問を切望していた中央アジア・キルギスにあるイシククル湖の石が、幼少期を過ごした静岡県伊豆市湯ヶ島の墓前に届けられた。同湖への思いを記した井上の著書を読んだキルギス大統領経済顧問の田中哲二さん(64)が持ち帰ったもので、一般にも公開される予定だ。


 天山山脈の北側にあるイシククル湖は、シルクロードの要所として栄え、湖底には騎馬民族の都が沈んでいると言われる。唐代の僧・玄奘三蔵の旅行記「大唐西域記」でも言及されている。

 西域の歴史に造詣(ぞうけい)の深い井上は、65年と68年の2回、同湖行きを試みたが、当時のソ連外務省から許可されず、2度目のビザ申請の際には「軍事機密があるなら、湖までは目隠ししてもいい」と懇願したという。

 田中さんは日銀出身で、93年にキルギス中央銀行最高顧問として派遣された際、「西域物語」など井上の著書を数冊持参した。同年夏、同湖を訪れた際、井上の無念をつづった著書を思い起こしてきれいな石を6個拾い、持ち帰った。

 その後、田中さんは仕事に追われ、石を書斎の段ボール箱にしまっていたが、先月8日、都内のキルギス物産展で偶然、井上の長女の浦城いくよさん(東京都町田市)と出会った。いきさつを聞いた浦城さんは「生誕百年記念祭が開幕するから、持ってきてほしい」と要望。開幕日の先月22日、田中さんと浦城さんらは、キルギスの民俗帽子に包んだ石と、同湖の風景の刺しゅうを墓前に供えた。

 田中さんは「14年間の心の重しが、ようやく取れました」と話し、浦城さんは「父の思いを読み取ってくれてうれしい。出会いも父の導きに違いないですね」と感激していた。石は浦城さん側が保管し、今夏までに一般公開される。
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# by satotak | 2007-05-10 14:03 | キルギス
2007年 05月 06日

クルマンジャン・ダトカ -クルグズの女傑-

クルマンジャン・ダトカ Kurmanjan Datka (クルグズ語: Курманжан Датка; Datka Kurmanjan Mamatbai kysy) 1811-1907

コーカンド・ハン国期およびロシア帝国期のクルグズ人部族指導者。「アライの女帝」または「南部の女王」としても知られる。

遊牧民オン・カナト(右翼)部族連合のムングシュ族の平民クルグズの娘として、クルグズスタン南部アライ地方グルチョに生まれる。18歳のときにそれまで会ったこともなかった男との結婚を強いられた。彼に会ったとき彼を好きになれなかった彼女は伝統と故郷を捨て、最初隣の中国に逃れたが、後に父親マンバトバイのもとで過ごすことを決意する。
1832年、当時コーカンド・ハン国によってアライ地方のダトカに任命されていた有力クルグズ、アルムベク・ダトカが若くて快活な彼女に惹かれ、彼女は彼と再婚した。

「アライ山の女王 クルマンジャン」
(ユリスタンベク・シガーエフ (注1))

なおダトカとは、コ一カンド・ハン国では要塞司令、ブハラ・アミール国ではアミールヘの請願を取りつぐ官職であり、クルグズ人の場合、この称号は部族長に与えられた。

アルムベクはハン国宮廷で大きな影響力を有していたが、クルマンジャンは夫が地元不在の際に聡明な部族指導者として頭角を現すようになった。62年、しだいに衰えつつあったハン国宮廷の内紛によりアルムベクが非業の死を遂げると、当時ハン国に干渉していたブハラ・アミールは彼女の影響力に注目し、アライの支配者としてダトカに任命した。彼女はコーカンド・ハン国、ブハラ・アミール国、カシュガル方面にも影響力を有していた。

コーカンド・ハン国の内乱に乗じてロシア軍が征服を開始すると、クルマンジャンは当初これに抵抗した。しかし76年スコベレフ将軍のアライ遠征に際して抵抗の無益を悟り、彼女の部族民にロシアの宗主権を受入れるよう説得した。

引き続く動揺とロシアの支配権を排除しようとする部族民の散発的な試みが続く中で、銃砲火薬類をはじめとする密輸は儲けの多い商売となった。そしてクルマンジャンの2人の息子と2人の孫が密輸と税関役人殺人の罪で告発された。彼女のお気に入りの息子に死刑が宣告されたとき、彼女の支持者達が彼の救出を熱心に求めたが、彼女は自分の個人的な希望や熱望で部族民を苦しめることを拒んだ。彼女は実際に息子の公開処刑に立ち会った。そして他の者達はシベリアに追放され、彼女は実質的に公式の場から引退した。

1906年、マンネルハイム将軍(後のフィンランド大統領)が彼女を訪れ、ロシアの勲章を授けるなど、ロシア帝国併合後も「アライの女帝」としてトルキスタンのロシア権力から丁重に扱われ、特権を得た。クルマンジャン・ダトカは90才過ぎまで生き長らえ、2人の息子、2人の娘、31人の孫、57人の曾孫と6人の玄孫を遺した。

1995年に創設された女性のための委員会の名称に彼女の名前が付けられた。その委員会は現在では「女性国民連合:エラユム “Erayim”」として知られている。

(出典) 「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005 筆者:秋山 徹)
     「Kurmanjan Datka」 (From Wikipedia, the free encyclopedia)

(注1) ユリスタンベク・シガーエフ: 1957年 旧ソ連邦キルギス共和国ビシケク生まれ。1984年 ペテルブルグの芸術アカデミー卒業。アジアン・アート・ビエンナーレ(1997年 ウズベク、1999年 バングラデシュ)、World Contemporary Art (ロス・アンゼルス) などにおいて受賞多数。2000年 キルギス国家賞受賞。キルギス国立建築大学美術学部教授。2006年9月 初来日。

(参考) 50ソム紙幣: クルマンジャン・ダトカの肖像が入ったクルグズスタン紙幣

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# by satotak | 2007-05-06 20:07 | キルギス
2007年 04月 25日

キルギスの歴史

若松 寛訳「マナス 少年篇 -キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫 2001)より:

キルギス人は悠久の歴史をもつ古い民族である。その先祖は“堅昆”(けんこん)と呼ばれ、彼らは最初南シベリアのイェニセイ川上流の森林地帯に居住して、紀元前3世紀には匈奴に服属していた。西暦3世紀に至って、堅昆はかなり強大となって、彼らは丁零、鳥孫、康居の諸民族と隣り合っていた。このころの史書ではキルギス人は“堅昆”、“紇骨”、あるいは“契骨”と称された。

唐代に至って、キルギス人は"黠戛斯”(かつかつし)と呼ばれた。648年(唐、貞観23年)、黠戛斯首領失鉢屈阿桟(しつばつくつあさん)が唐に入朝して以来、キルギス人は初めて唐と直接に関係をもち、一時はその支配をうけ、唐の堅昆都護府が名目的ではあるが設けられた。

9世紀、キルギス人の勢力は東、南方向に向かって拡張し、モンゴル高原のウイグル・カガン国を倒して(840年)、キルギス・カガン国を創建した。キルギス・カガン国が存在した百余年は、キルギス史上の繁栄時代であり、キルギス人はゴビ砂漠以北に雄を称(とな)え、国強く兵は壮(さか)んで、人口は百万を超えた。

10世紀初め、内モンゴル東部に契丹(遼朝)が興り、キルギス人に取って代わってゴビ砂漠以北の高原をも支配した。ここにさしも強盛を誇ったキルギス人も契丹の隷属民と変わり果てた。

10世紀後半頃からキルギス人はしだいに東、西両グループに分かれ始めた。東方グループが主力で、イェニセイ川上流の森林地帯に拠って牧畜兼狩猟の生活を送っていた。西方グループは若干の西遷したキルギス人で、彼らはアルタイ山と天山の一帯に遊牧していた。

12世紀20年代、遼朝の王族耶律大石が王朝の滅亡に際して中央アジアへ逃れ、1132年、カラハン朝を滅ぼして、チュー河畔のベラサグンを都としてカラ=キタイ(西遼)朝を開いた。カラ=キタイ朝は80余年と短命であったが、キルギス人にとっては苦難の時代となった。カラ=キタイの軍はキルギス人の牧地を占領し、キルギス人の家畜・財産を掠奪して、彼らに流浪をよぎなくさせた。

モンゴル族が台頭すると、1218年チンギス・カンはキルギス人を征服し、キルギス人西方グループ地区はモンゴル西征の基地となった。元朝もまたキルギス人に強力な支配権をふるったが、この頃からキルギス人西遷の動きも顕著となった。

明代に入ると、チンギス・カンの時代からイェニセイ川の西方、イルトィシ川の上流にいて、キルギス人とずっと隣り合ってきたオイラト人が急激に勃興し、その勢力をモンゴル高原とアルタイ山以南に伸ばした。オイラト人は西モンゴル族であり、キルギスとその他のテュルク語系民族からはカルマクと呼ばれ、漢文史料では瓦刺(わら)と称される。

1439年オイラトの首領となったエセンは一代の梟雄で、東は朝鮮から西は中央アジア、北はシベリア南辺から南は長城に至る大領土をひらいた。彼は49年大軍を率いて明の北辺に侵入し、長城の土木堡で明の正統帝を捕らえ、その後まもなく大ハーン位についてオイラトの全盛期を現出した。しかし彼は54年部下に殺され、ゴビ砂漠以北の草原は一時混乱状態におちいった。このあともオイラト人の勢力は衰えず、西北モンゴリアはひきつづきその勢力下にあった。

キルギス人の東方グループが大挙して天山一帯に西遷したのもエセン・ハーンの支配期とその死後の混乱期のことだったらしい。キルギス人は新たにモグーリスターン・ハーン国の支配下に入った。この国は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、天山からセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきた遊牧国家である。キルギス人はモグーリスターン・ハーンの苛酷な統治とカルマク人の侵攻にあえいだが、16世紀に入ると、彼らはカザフ人と同盟を結んで、モグール人(モグーリスターン・ハーン国人)およびカルマク人と抗争を行った。

17世紀前半、オイラト人の中のチョロス部族が他のオイラト諸部族を統合して、天山・アルタイの間の大草原にジュンガル王国を建設した。以後、この王国の勢力は、東はモンゴル高原にまで伸びて、このため清朝と北アジアの覇権を争い、西は中央アジアのシル川東岸にまで達してタシュケント、サイラムの両都市をも占領し、北はシベリア南辺でロシア帝国と境を接し、南は天山以南のタリム盆地全域を奪った。キルギス人もこの王国の支配下に組みこまれ、天山以北にいる者は東ブルート、天山以南にいる者は西ブルートと呼ばれた。1757年ジュンガル王国が清朝に滅ぼされると、東西ブルートはジュンガル王国の70年の久しきにおよぶ統治を脱して、清朝に服属した。

一方、16世紀ごろから中央アジアのフェルガナ地方に移住した一部のキルギス人は、その後ウズベク人のホーカンド・ハーン国の支配下に入ったが、1864年からはロシア帝国に服属した。(注1)

以上のような歴史をキルギス人はたどってきた。そこに目立つ現象は絶え間ない外患と遷徙(せんし)である。紀元前3世紀匈奴への隷属を皮切りに、彼らは唐代に至るまで北方異民族の属部となってきたが、西暦9世紀にキルギス・カガン国を樹立して、ゴビ砂漠以北の高原に百余年にわたって万丈の気を吐いた。しかし10世紀からは連続して彼らは契丹人、モンゴル人、カルマク人、モグール人、ジュンガル人の支配下にあった。こうした逆境の中から民族を外敵から守り独立を勝ち取るあこがれの民族英雄が模索され、それが叙事詩の中で結実したのであろう。したがって英雄マナスはあくまで実在の人物ではなく、民族の夢と希望の所産なのである。

(注1) クルグズスタンは18世紀後半から19世紀前半にかけてコーカンド・ハン国の支配下にあったが、1855-76年にロシア帝国に併合され、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となった。1916年反乱の際、北部ではクルグズ人とロシア人農民の大規模な衝突が起きた。
ロシア革命後にトルキスタン自治共和国の一部となったが、24年にロシア連邦共和国の一部としてクルグズ(1925年までのロシア語名カラ・キルギズ)自治州が成立し、26年にクルグズ(キルギズ)・ソビエト社会主義自治共和国、36年にソ連邦を構成する共和国に昇格。ソ連時代後半に活躍を始めた作家アイトマトフは世界的な名声を得た。
1990年にオシュ事件の悲劇を経験。90年12月にクルグズスタン共和国に改名して主権を宣言し、91年8月にソ連からの独立を宣言した。93年5月にクルグズ共和国に改称。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
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# by satotak | 2007-04-25 11:57 | キルギス