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2010年 09月 22日

フルマ -トルコ在住ウイグル人からの返信-

S.T.様

お久しぶりです。ご連絡をありがとうございます。

Nさんに預けたのはアラビア語で「フルマ Hurma」と言い、トルコ語でもフルマ、ウイグル語ではホルマといいます。
アラーが人間のために地球上で創って頂いた食べ物の中で、栄養成分が揃っている完璧な栄養です。74種類の栄養があり、水とそれがあれば、健康で一生生きていける。その効果も、お体の栄養の調整を自動的に行い、様々な病気に効くようです。
フルマは中国語で言うと「蜜なつめ」ですが、サウジアラビアの各地で種類が取れる。あなたに送ったのはメディナ産で、水分が少なく、もっとも甘い種類です。サウジのフルマの中で上流。フルマは副作用がありませんので、安心して召し上がってください。赤ちゃんから150歳までOK。

近かったら、もっと送りたかったけど、預けようとしても税関が怖いとか、麻薬が怖いとか言って、持っていってもらえないことがよくあるのですが、Nさんだけにちょっと預けることができました。
これからもチャンスを狙って送ります。

食べ方ですが、そのまま食べるのが一般的ですが、ほかの料理の中に入れて食べても良い。熱い料理などに入れるとお粥みたいに解けてしまい、味も解けるので、ほかの食べ物と口の中で混ぜて食べたほうが良いと思います。そのままでももちろん良いし。

メッカにはザムザム(Zamzam,もしくは Zemzem)というメッカの特別な、ばい菌のない水があり、世界でそこしか取れない。その水も色々な病気に効きます。ほかのところで取れない水、アラーが使者に与えた水で、巡礼に行く人々はお土産にザムザムとフルマを持って世界各地に帰る。

ラマダンも一昨日で終わり、昨日からお祭りに入っております。東トルキスタン人の皆さんの家に訪ねあい、昨日一日中歩き回りました。今日はあなたが知っていらっしゃるゼイティンブルヌに行き、そちらに住んでいる皆さんの訪問をしてまいります。団体で。

お体に気をつけてください。
ご健康とご多幸を心よりお祈りしております。

では、また。

E   2010年9月10日


[補足]
(1) フルマ(hurma):トルコではナツメヤシの木や実をフルマというが、柿の木や実もフルマという。
 ○ hurma
 ○ -フルマ hurma-
 ○ “hurma”の画像検索結果

(2) 蜜なつめ:ナツメヤシ(ヤシ科)とナツメ(クロウメモドキ科)は別種の植物。日本や中国で入手できる「蜜なつめ」はナツメの一種またはその加工品で、フルマとは別物ではないか?
 ○ なつめやしとなつめ 
 ○ 蜜なつめ 
 ○ ”蜜棗”の画像検索結果 

(3) ザムザムの泉:サウジアラビアにある聖地マッカ(メッカ)のマスジド・ハラームにある泉
 ○ ザムザムの泉 
 ○ ザムザムの泉 -イブラヒームの試練-

# by satotak | 2010-09-22 19:52 | トルコ
2010年 03月 31日

海蘭察(ハイランチャ)資料集

清朝乾隆期に活躍した鄂溫克(エベンキ)族の英雄・海蘭察(ハイランチャ)…

この将軍の基本史料はまず「清史稿」であろう。

漢籍電子文献
二十五史 / 新校本清史稿 / 列傳/卷三百三十一 列傳一百十八 / 海蘭察子安祿
この節は
  「海蘭察,多拉爾氏,滿洲鑲黃旗人,世居黑龍江.乾隆二十年,以索倫馬甲從征準噶爾.輝特台吉巴雅爾既降,復從阿睦爾撒納叛,師索之急,遁入塔爾巴哈台山中,海蘭察力追及之,射墜馬,生獲以歸,功,賜號額爾克巴圖魯.累擢頭等
侍,予騎都尉兼雲騎尉世職,圖形紫光閣.三十二年,以記名副都統從征緬甸,師出虎踞關,海蘭察率輕騎先驅,至罕塔,遇賊,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;設伏,殲賊四百,賊自猛密出襲我師,援擊之.三十三年,再出師,度萬仞關,敗賊戛鳩江,燬江岸賊居,授鑲黃旗蒙古副都統.師薄老官屯,攻賊於錫箔,毀其木柵,賊來攻,急擊之,追戮其強半,縛二人以歸.既還師,命留軍防邊.移鑲白旗蒙古副都統.」で始まり、

  「五十八年三月,卒,諡武壯.復圖形紫光閣,甫成,上製贊嗟惜,諭曰:「海蘭察以病卒,例不入昭忠祠.念其在軍奮勉,嘗受多傷,加恩入祀.」
  子安祿,襲公爵,授頭等侍.嘉慶四年,佐經略勒保征四川教匪,戰屢有功.賊渠苟文明等窺開縣,安祿與總兵朱射斗合軍逐剿,賊不敢東竄.十一月,與射斗逐賊枯草坪,乘雨登汪家山殺賊,賊多墜崖死.安祿望見數十賊匿山溝,率數騎逐之,賊潰散,獨策馬從
其後,數賊自林中出,安祿倉卒中矛死.諡壯毅,賜白金千治喪,加騎都尉世職,合前賜騎都尉為三等輕車騎尉.是時奎林子惠倫亦戰沒.上以二人皆名將子,與烏合亂民戰,沒於行陣,深致惜焉.」で終る。

「清史稿」で海蘭察について記しているのはこの節だけではない。「漢籍電子文献」で「新校本清史稿」の中を「海蘭察」をキーワードにして検索すれば、その全ての記述を順に辿ることができる。

このサイトは台湾のサイトで、繁体字で書かれているが、簡体字のサイトもある。

国学網站— 原典宝庫
二十五史系列:清史稿 列传一百十八 海兰察子安禄…
「海兰察,多拉尔氏,满洲镶黄旗人,世居黑龙江。乾隆二十年,以索伦马甲从征准噶尔。辉特台吉巴雅尔既降,复从阿睦尔撒纳叛,师索之急,遁入塔尔巴哈台山中,海兰察力追及之,射坠马,生获以归,叙功,赐号额尔克巴图鲁。累擢头等侍卫,予骑都尉兼云骑尉世职,图形紫光阁。三十二年,以记名副都统从征缅甸,师出虎踞关,海兰察率轻骑先驱,至罕塔,遇贼,殪三人,俘七人,遂攻老官屯,馘二百;设伏,歼贼四百,贼自猛密出袭我师,援击却之。三十三年,再出师,度万仞关,败贼戛鸠江,毁江岸贼居,授镶黄旗蒙古副都统。师薄老官屯,攻贼於锡箔,毁其木栅,贼来攻,急击之,追戮其强半,缚二人以归。既还师,命留军防边。移镶白旗蒙古副都统。…」


「清史稿」からの日本語訳としては、
○《清史稿》331巻、ハイランチャ(海蘭察) 
この前書きに…
「ミンリャン、エリントと並んでアゲイの督戦下で活躍した人です。ジュンガル、ビルマ、金川、サラル囘部の乱、台湾・林爽文の乱、クルハの乱などを平定、もしくは平定に貢献した人物で、途中からアゲイではなくフカンガの副将みたいになりました。林爽文の乱なんかはこの人がほとんど独力で平定してのけたもので、諸将が相互に連携しあう…この時期に珍しいっちゃ珍しいです。あと、とにかくやたら勇敢な人で、ツェリン以来の『超勇公』の称号を授かってますね。お気に召したら訳文どうぞ。ただし非常に長いです。」

簡潔にまとめたものに、
ハイランチャ(海蘭察)〈上〉
ハイランチャ(海蘭察)〈下〉

しかし海蘭察は「清史稿」だけではない。
こんな資料も日本で入手できる。

清宫珍藏海蘭察满漢文奏摺匯編
「本書は、清代の宮廷に収蔵された清乾隆時期の名将海蘭察の奏折や奏片285件(満文88件、漢文198件)を収録する。これらの奏摺の年代は、乾隆37年(1772年)5月19日から乾隆58年(1793年)3月29日の20年間にわたり、内容は、海蘭察が金川・甘粛・台湾・チベットなどへ出征した際の事跡及び乾隆帝が海蘭察に賜った官職や爵位などさまざまである。いずれも初公刊の一次資料であるため、海蘭察研究及び清代の多くの歴史事件や民族関係の研究にとって、史料的価値が極めて高い。」
しかし値段といい、内容といい、素人には手が出ないが…

○《乾隆朝武臣之冠——海蘭察》出版
乾隆朝武臣之冠——海蘭察 
こちらは1,860円で入手可能。

ところで、現代中国で海蘭察はどう評価されているのだろうか?

「BaiDu百度百科」には、
海蘭察

呼倫貝爾(フルンボイル)市人民政府の公式サイトの中に
清代鄂温克族“武壮”海兰察

一方、呼倫貝爾市阿栄旗のサイトには
海蘭察
阿栄旗は呼倫貝爾市の東南部にあると記されている。

中国人が描く海蘭察のイメージは…
海蘭察 – 図片

海蘭察はテレビドラマ(?)にもなったようだ。
大型歴史ドラマ《索倫名将——海蘭察》主题歌:草原の鹰


# by satotak | 2010-03-31 18:23 | 女真・満州・内蒙古
2010年 01月 28日

18世紀のジュンガルで結婚したスウェーデン人夫婦の物語

ハズルンド著 内藤岩雄訳「蒙古の旅 上巻」(岩波新書 1942)より:

…ポルタヴァ(注1)における敗戦の後、ロシアの捕虜となったスウェーデン人の中に、レナトという若者があった。
レナトはドイツから来たユダヤ人移民の家族に属していたが、彼は他のユダヤ人と共に1681年9月29日、ストックホルムのドイツ教会で洗礼を受けた。父のモーゼス・ヤコブはスウェーデン人となり、かつグスタフ・ミカエル・レナトゥスという名でキリスト教徒となった。そして移住したために貧困になったこの家族は、市庁と政府に対して根気よく請願したお陰で、次第にストックホルムで相当に繁栄するようになった。
息子のヨハン・グスタフ・レナトは18歳の時砲兵に応募し、ナルヴァ、ディーナ及びポルタヴァで転戦した。そして他の捕虜と共に1711年に、トボルスク(注2)に収容せられた。

ポルタヴァの捕虜の中に、後にレナトと同様の残酷な運命を分かつことになった、一人の若いスウェーデン婦人がいた。しかし、それより以前にも彼女の生活は、暴風雨の海のようであった。
彼女は前述のストックホルムのドイツ教会においてユダヤ洗礼が行われた後3年たった時、はじめて陽の光を見たが、『キリストが大きな犠牲を払って得た信者の組合』に加わることを許された際、ブリギッタ・クリスティアナ・シュルツェンフェルドなる名を与えられた。彼女の両親、すなわち『騎兵連隊副官にして、高名且つ家柄よきクヌート・シュルツンフェルド氏及び彼女の親愛なる母フルー・ブリギッタ・トラナンデル』は、彼女が未だ幼児の時逝去したが、しかし母方の伯母と『数名の高名な親族』は彼女を注意深く養育した。

15歳の時この若い婦人は結婚したが、数年後大戦争の結果寡婦になった。フルー・ブリギッタは夫の側に居りたいためリガ(注3)に移住していたが、そこで彼女はその後スウェーデン兵と再婚し、軍隊がロシアに進軍した時、彼女も伴われて行った。そしてポルタヴァ戦闘後、彼女は捕虜として夫と共にモスクワに収容せられ、1711年彼女は再び寡婦となった。
当時27歳で未だ美しかったフルー・ブリギッタは、他のスウェーデン捕虜メクレンブルク人(注4)、ミカエル・シムスと三度目の結婚をした。その後間もなく、彼女は彼と共にトボルスクのスウェーデン捕虜部落に移された。

ピーター大帝(注5)は砂金の豊富な河のあるトルキスタン方面に彼の境界を拡張する計画を有しており、その目的で陸軍中佐ヨハン・ブックホルツはジュンガル部人の草原の領土に遠征隊を準備するよう命ぜられた。このロシアの遠征隊に砲術と築城法に経験のあるトボルスクの多数のスウェーデン捕虜が参加したが、1715年この遠征隊はイルティッシュ河を遡りジャムィシェフに送られ、ブックホルツはそこに堡塁を築いた。参加したスウェーデン人の中にミカエル・シムスとヨハン・グスタフ・レナトがいた。
環境が平穏に見えたので遠征隊の数人の士官は彼らの妻を呼びよせた。しかし、かれらの到着する前に、『ジャムィシェフの城砦はカルムック人(注6)によって取囲まれ、付近の村は到るところ包囲軍によって荒された。彼らは又これらの旅行者をも襲撃した。・・・シムス大尉は殺害せられた。・・・婦人たちは・・・ひどい悲惨な奴隷生活に入った。』

ジュンガル部人の捕虜の中にフルー・ブリギッタとレナトが居た。そして殺された者の中にフルー・ブリギッタの夫シムスがいた。
スウェーデン人を捕らえたジュンガル部人はホイト族であったが、ブックホルツ遠征隊を全滅し、ロシアの計画を挫折させた後、彼らはエビノール(注7)湖畔の領地に退却した。
30年の間フルー・ブルギッタは多くの災厄を受けてきた。しかし、1716年の秋、彼女は一生涯の中で最も恐ろしい受難を経験したのである。彼女はジュンガル部人の手に奴隷となっていた。それらの野蛮人は、当時の著述家によれば、『荒し廻る野犬のように』スウェーデン軍の周囲に群がったアユク汗(注8)のトルグート軍の仲間であった。アジアの野蛮人たちは彼女に無慈悲極まる虐待をなし、『彼女のすべての着物をはぎ取ったばかりでなく、彼女の死ぬ日まで手足に縄目の痕が残ったほど厳しく長い間鉄鎖や強い縄で縛った。そして終に彼女がカルムック地方に連れて行かれた時、彼女は奴隷としてのさまざまのつらい不面目な仕事を強要せられた。そして文明国では稀な忍び難いとされるような粗末で、少量で且つ不潔な食物に満足しなければならなかった。』

ホイト族の族長は彼の白人捕虜を、ジュンガル部人の将軍ドゥカールに引渡し、後者は彼の主君すなわちジュンガル部人の豪勇な戦士であり、『カルムック人の最高主権者であって、彼の臣下及び彼らと同一人種の国民によって国王と呼ばれているが、周囲の国々からは王或いは太公と認められ、勇敢な高貴の英雄及び崇高なる王と言う意味でスルクトゥ・エルデニ・バドゥル・コンタイギーと称せられている』ツェワン・ラプタンの許へ彼らを連れて行った。

ツェワン・ラプタンはこのスウェーデン婦人を奴隷として、チベットのココノル地方(注9)から来たホシュート族の王女であった、彼の第一夫人に与えた。そして今はフルー・ブルギッタは『これまで丸裸体であった彼女を幾分か覆うため古い毛皮の着物を与えられたので』やや耐えられるような状態になった。
次第にスウェーデン婦人は王妃に愛されるようになった。というのは、彼女は行儀がよい上に女仕事、『特にクロシェ編物(注10)と織布』に熟練していたからである。そしてフルー・ブリギッタが宮廷で得た寵愛を、彼女は蒙古人私民の奴隷となっている、他のキリスト教徒の捕虜のためにうまく利用した。彼女が助けたり生命を救ってやった奴隷の中にレナトがいた。

ツェワン・ラプタンの掌中の玉は彼の若い娘セソンであった。彼女の母はヴォルガ・トルグートの有力な族長アユク汗の娘で、首領の第二夫人であった。セソンがクロシェ編物をしたいと特に望んだので、彼女はそのスウェーデン人の女奴隷を彼女の師匠に頼んだ。フルー・ブリギッタは小さな宮廷に移されたが、ここでもまた彼女は大寵愛を得ようと努めたので、間もなく彼女の欲求するものはどんなものでも得られるようになった。
若い王女セソンがアユク汗の孫ドンドゥク・オンボに婚約した時、フルー・ブリギッタは彼女の女主人に似合う嫁入衣装を調達する機密の使命を与えられ、この目的のために『小ブハリア』の『ゲルケン』(現今の東部トルキスタンのヤルケント(注11))で2年間過ごした。

元スウェーデン砲兵曹長レナトはフルー・ブリギッタの斡旋によって、首尾よく奴隷の身分を脱した上、ジュンガル宮廷で大いに寵愛された。彼自身、フレデリック王に提出した放免請願書の中に『大砲及び臼砲を備えた砲兵隊を創設し、200人のカルムック人に砲術を教えた』と述べている。彼はまた清朝人に対抗してジュンガル部人と共に実線に参加したと述べている。
レナトはついに彼をスウェーデン王に対する大使として派遣するようジュンガル部王を説服した。
しかし、その時勃発したコザックとの戦争が、この『使節団』の延期を余儀なくさせた。


『小ブハリア』から帰ると直ぐ、フルー・ブルギッタは王家の許しを得て、彼女の同国人レナトと結婚し、かくして侍女としての彼女の職務を解かれた。これが彼女を救う奇縁となった。というのは、1727年ツェワン・ラプタンは急死し、毒殺の疑いがあったので彼のトルグート人の第二夫人と彼女の娘セソンは拷問によって無理強いに自白させられ、彼らの全従者と共に死刑に処せられたからである。

ツェワン・ラプタンの晩年に、清朝皇帝はジュンガル部人の勢力を完全に打ち砕いた。そして前者の継承者ガルダン・ツェリンはかつては偉大で有力であった国民の粉砕された残った小部分の支配者となった。

この王にもスウェーデン人夫婦は大いなる寵遇を得て、間もなく彼らが釈放されるときが来た。王は不承不承『これらの二人の有用で気持ちのよい者』を解放したのであるが、彼自身の利益のために彼らの『快楽と希望』とを妨げたくなかったのである。1733年3月22日17年間『これらの野蛮人』の仲に逗留した後、レナト一家は彼らの恩人に別れを告げた。彼らの事をフルー・ブリギッタの伝記には『ある点においては確かに彼らは勝っているとは言えないが、正直、相互の愛情及びその他幾多の美徳は多くのキリスト教国民に匹敵する』。フルー・ブリギッタが出発するので、愛情の印として『王妃王女が彼女の出発を嘆いて流した涙の跡のある、数枚の手巾を順次に受取った』と書いてある。

このスウェーデン人夫婦は18人のスウェーデン人と134人のロシア人を、ジュンガル部の奴隷の身分から解放することに成功した。帰国旅行に夫婦は18人のスウェーデン人と、フルー・ブリギッタがキリスト教に改宗させるためスウェーデンに連れ帰ろうと思った20人の『綿花園の奴隷』をも同伴した。これらの中ある者は途中で斃れ、他のものはロシア人に抑留された。しかし、レナトとフリー・ブリギッダは1734年6月6日、残りの随行者と共にストックホルムに到着した。

帰国後わずか2年の1736年4月14日、フルー・ブリギッタは『彼女がこの世に51年9ヶ月生きた後』彼女の目を閉じ、その疲れた身体は当時の王立砲兵教会に埋葬せられた。
レナトは帰国すると直ぐストックホルムの砲兵中隊の中尉に任命せられ、次いでスウェーデン砲兵隊の大尉に昇進した。学会においては彼は大なる興味の的となった。彼が奴隷の境涯から故国に持ち帰った華麗な着物や、出来栄えから判断すればレナトでなくて蒙古人によって製図せられた、中央アジアの数葉の地図がユプサラ大学(注12)の所蔵に帰した。リンケピングの博学の僧正エリク・ベンゼリウスは地図の複写を手に入れ、リンネの後継者、オロフ・スルジゥス学長はジュンガル部より持ち帰った種子を手に入れ、ユプサラ大学の農園に播種した。

3年間フルー・ブリギッタの喪に服した後、レナトは絹織物業者イサック・フリッツの寡婦エリザベト・レンストレムと結婚し、1744年に彼が死ぬまで彼女と共に暮らした。…

(注1) ポルタヴァ→ポルタバ(ポルタワ):ウクライナにある工業都市。北方戦争で、1709年ロシアのピョートル一世がスウェーデン国王カール12世の軍を破った古戦場。
   北方戦争:1700-21年にわたり、バルト海域の覇権をめぐって行われたスウェーデンとロシアとの戦争。ポーランド、デンマークがロシアに加担。1704年スウェーデンはナルバの戦でロシア軍に大勝。敗れたロシアはピョートル一世の下で国内体制を建て直し、1709年ポルタワの戦いで大勝し戦局を逆転。1721年ニスタット条約を結んだ。この結果ロシアはバルト海に進出、国際的地位が高まった。

(注2) トボルスク→トボリスク:ロシア中部、西シベリアの都市。オビ川の上流、イルティシ川とトボル川との合流点付近にある。1587年、エルマークらにより創設。1708-1882年シベリア総督府が置かれ、行政の中心として栄えた。

(注3) リガ:ラトビア共和国の首都。リガ湾に臨む港湾都市。1201年創設。1710年ロシアが占領。

(注4) メクレンブルク:ドイツ北東部、バルト海に沿う旧地方名。民族大移動以後スラブ系民族が居住、12世紀からドイツの植民が行われた。三十年戦争(1618-1648年)後17世紀末までスウェーデンの支配下にあった。

(注5) ピーター大帝→ピョートル一世:ロシア皇帝(在位1682-1725年)。啓蒙専制君主の典型。自ら英国、オランダに留学して西欧の技術文化の輸入を図り、富国強兵に努めた。スウェーデンとの北方戦争の緒戦における敗北を契機に軍政改革に着手、また官営の製鉄所や織物工場を設置。1703年新都ペテルブルグを建設し、バルト海沿岸を制圧。

(注6) カルムック人→カルムイク[人]:西モンゴル諸族の一つで、広義にはオイラト(オイロト)の別称、狭義にはヴォルガ川下流に住みついたオイラトの支族であるトルグート族などのことをいう。
   ジュンガル:17世紀後半から18世紀中葉にかけて中央アジアを席巻したモンゴル系遊牧民の帝国。実体はジュンガル部族長を盟主とするオイラト=西モンゴル族部族連合。オイラト遊牧民は14世紀半ば以降、中央アジアのテュルク系の人々からカルマクと呼ばれ、この言葉がロシア語に入ってカルムイクとなった。現在ヴォルガ河畔に住むカルムイクは、1630年にこの地方に移住してきたオイラト部族連合の一部である。

(注7) エビノール[湖]:漢字で艾比湖。中国新疆ウイグル自治区北西部、ジュンガリアの盆地南西部にある塩湖。カザフスタンとの国境に近く、湖岸で塩が採取される。

(注8) アユク汗→アユーキ・ハーン:ヴォルガ河畔に移住したトルグート部の族長(在位1670-1724年)。アユーキの時代がトルグートの最盛期。ロシアのピョートル大帝がヴォルガ河畔にアユーキを訪問し、条約を締結した。トルグートはロシアのためにしばしば出兵し、1707年にはスウェーデン王チャールス12世と戦い、スウェーデン軍を苦しめた。

(注9) ココノール→青海湖:中国青海省北東部にある中国最大の塩水湖。

(注10) クロシェ:鉤(かぎ)針編み

(注11) ヤルケント→ヤルカンド:中国新疆ウイグル自治区タリム盆地西部にあるオアシス都市。毛織物を産する。漢代の莎車(さしゃ)国の地とされる。

(注12) ユプサラ→ウプサラ:スウェーデン、ストックホルムの北64kmにある学園都市。北欧最古の大学であるウプサラ大学がある。

# by satotak | 2010-01-28 11:40 | モンゴル
2009年 11月 13日

漢民族とは何か

橋本萬太郎編「民族の世界史5 漢民族と中国社会」(1983 山川出版)より(筆者:橋本萬太郎・岡田英弘):

中国文化圏における「民族」
国家とは、要するに一種の契約から成り立っているものであるにすぎないが、民族とは各人自身の社会的・文化的な規定にかかっている――ということがはっきりしていないと、どうしても漢民族というのが理解でぎない。いや、漢民族だけでなくて、実は、世界の民族もわからないのであるが、幸か不幸か、われわれの日常生活のなかでは、そういったことにたいする認識を迫られることが、ほとんどない。各人自身の社会的・文化的な規定にかかっているから、一民族の成員は、自分自身がその民族に属すると思わなくなったら、ほかにどんなに条件がそろっていても、民族でなくなるという側面がある。

漢民族とは、一番わかりやすくいったら、「漢字を識(し)っている人びとの集団である」ということになろうか。いや実際には、漢字を完全に習得するためには、たいへんな資力を必要としたから、かつての中国社会では、右のことばは、「漢字を識っている人びと、および漢字を識ろうと願っていた〔けれども、実際にはそれがかなわなかった〕人びとの集団」とでも、いいかえなければならない。…

この定義は、もちろん極端に簡略化していったものである。漢字を識っているとは、実はそれによってになわれた文化、文物、制度、その他これにかかわる社会的・文化的産物のいっさいを背景にもっている人びとである、ということである。もっとも、そうすると、日本人も、朝鮮人も、それからフランスの入りこむ前のベトナム人も、漢民族であったということになりかねない。これは、今では忘れられがちであるが、日本も、明治になるまでは、公用語は、少なくとも書き物のうえでは漢文であった。しかしそれだからこそ、これらの国々では、民族国家成立の文化的努力は、まず日本語、朝鮮語、ベトナム語といった民族語〔とそれにもとづく書きことば〕の確立、という形をとったのである。いわば、ルーテルがドイツ語で聖書を訳し、ダンテがイタリア語で詩作をしてはじめて、近代的民族としてのドイツ人イタリア人が成立したようなものである。それまでは、ヨーロッパでは、書き物はみなラテン語でなされていて、その間は、われわれの今日理解するような意味とレベルでの近代的な民族意識というものは、存在しなかった。

漢民族とはそういうものであるから、そのなりたち、あり方を論じようとすると、中国大陸、もっと広くいえば東アジア大陸における少数民族の問題と、きりはなしては考えられない。

漢民族のなりたち
…漢民族は、いま確実に知られているかぎりでは、西暦前10世紀ごろ、おそらく西北方の中央アジアから、下図に示すように、「中原地方」といわれる、大陸の中心部に入ってきた(しゅう)という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程のなかで、できあがってきたものである。「中原」とは、べつにここからここまでと決まった地域のことではないが、黄河の中下流域で、古代から漢民族の政治的・文化的中心舞台となった地方をいう。…黄河を中心とする、華北のもっとも肥沃な平原地帯である。この中原地方には、それ以前に(か)といい、(しょう)(のちに(いん))といった人びとの国があったという伝説があり、その存在は今日では疑いないものとして、考古学的にもたしかめられつつあるが、それらの人びとが、われわれの今日にいうような意味での漢民族であったかどうかは、まだ、あまりはっきりしていない。…
…東アジア大陸における状況は、…大局的にみると、構造上の驚くべき連続体をなしている。もって、漢民族の言語とその文化圏が、中原地方を中心とした、何千年にもわたる、周辺民族のいかにゆるやかな同化をはかりつつ成立したものであるかということが、うかがえるであろう。漢民族が、東に夷(い)、西に戎(じゅう)、南に蛮(ばん)、北に狄(てき)という「未開人」を配し、中心に開花した中華の民をすえるという、伝統的な世界像をつくりあげたのも、ゆえなしとしない。しかも、その文化圏は、異常な早熟さを示しているのである。

それには、漢民族の文化がもっともみごとに花を開いた、大唐の世をおもいおこせばよい。その時代(7-9世紀)には、イギリスは、やっと歴史に登場したばかりだし(アルフレッド大王の即位が871年)、わが国では、『古事記』(712)や『日本書紀』(720)が編さんされているところであった。

いわゆる華夷の思想はこうして生まれた。何がその華(漢民族)と夷(周囲の未開人)をわけているかといったら、要するに漢字を受けいれ、その背後にあるいわゆる「中国風」の生活をしているかどうか、「中国風」の農耕経済をいとなんでいるかどうかである。

西北方から中原地方に入ってきた周の人口など、今日からみれば、たかがしれた数であったろう。だから極端にいえば、漢民族とは、そのかなりの数が、このように同化された諸民族であるといってよい。われわれの今日いうような意味の国家などとはケタのちがったスケールで、民族としてのまとまりを考えてきた。相互にことばが通じるとか通じないとかといった問題は、二の次であった。しかしまた、同化民族であったからこそ、逆にその文化的なまとまりは、驚くほど整合的であった。その点だけについていえば、今日のアメリカ合衆国に似ているところがある。一方でアイリッシュ系とかイタリア系とかいった背景をきちんと保持しながら、たちまちに「アメリカン・ライフスタイル」にくみこまれ、そのことばに象徴される文化的な自己規定をしてしまうところは、漢民族のまとまり方によく似ている。…

周辺民族圏
これらの少数民族が、漢民族をかこむ第一次外輪圏をなしているとすると、東アジア世界には、さらにその外をかこむ第二次民族圏があった。東の朝鮮日本や南のベトナムなどが、それである。

歴史的にみると、第一次民族圏にも、その後歴史の舞台から消えてしまったが、西北の高昌(こうしょう)、西夏(せいか)、それから今日にも尾をひく西方のチベット、西南の南詔(なんしょう)(ぺー族)のような、前近代的な意味での国家をつくるうごきがあったが、漢民族的なまとまりをマイクロコズムにした近代国家をつくるのに成功したのは、この第二次外輪圏の諸民族である。

文化的に、ことに制度的に、漢文化を高度に受けいれながら、その文化圏から独立しようとしたために、これらの民族は偶然にも、近代にいたって、「単一民族単一国家」という形をとることになった。しかしそれだけに、漢民族の文化にたいして、つねに愛憎共存するアンビバレンスを保持する特徴がある。前述のように、これらの国々においては、つい近代にいたるまで、漢民族の言語が公用の書きことばであった事実が、今では、ややもすれば忘れられがちなのも、そのためである。

しかし、この公用の書きことばが漢民族の言語であったという事実は、漢民族のまとまり方を理解する上で、かぎりなく重要である。それは、漢民族の文化圏で民族をまとめるコミュニケーション・ネットワークのあり方を、今でもそのまま反映しているからである。…

漢民族のあいだには、バイブルにみられるような、できあいの文句[「はじめにことばありき」]こそないが、「はじめに文字ありき」ということが、強固な、抜きがたい伝統になっている。漢民族にとっては、それはあまりにもあたりまえのことなので、かえって、できあいの文句がないのであろう。

この、書きことばと各地の人びとの実際に話すことばとの乖離(かいり)は、あまりにも長いあいだ支配的であったので、漢民族のあいだですら、漢字によって書かれた言語のほうが、自分たちの口にする言語より本物であった。北京人と上海人、上海人と広東人のあいだにことばが通じなかったということは、そのために、漢民族としてのまとまりに、歴史のうえでは少しも障害にならなかった。

しかし、池になげた小石のえがく輪状波紋形としてとらえられる漢字文化圏のまとまりだけで漢民族をとらえると、われわれは、ことの一面しかみていない危険におちいる.
われわれは、第一次、第二次外輪圏にあらわれた諸民族のうち、北方にあらわれた諸民族の存在を、今まで故意にふせておいた。

漢民族の政治史は、極端にいうと、古代以来北方民族の不断の侵略の.歴史である。第一、周(しゅう)そのものが、西北からの侵入者であり、それ以後でも、4-5世紀に中原に入って北方を蹂躙(じゅうりん)した五胡、5-6世紀の北朝、10世紀の五代、12世紀の遼、12-13世紀の金、13-14世紀の元、17-20世紀の清(しん)と、歴史の主要な変動は、すべて北方からの侵入者によってひきおこされている。一つの例外もない。

北方以外からの侵入は、わずかに西方から8世紀に吐蕃(とばん)(チベット)の長安(今日の西安)侵入があったが、これはほんの一時的なもので、漢民族の形成・発展には、大きなかげをおとしていない。万里の長城が、華南や華西にないのも、ゆえなしとしない。

漢民族の形成をたどる、もう一つの重要な軸――南北の軸――は、こうした淵源をもつ。…なぜそうした側面が生じたかという問題を、ここで考えておこう。その問題にうつると、われわれは、この地球上における人間集団のあり方を、数千年という単位で大きく規定している気象変動と、それによってもたらされる自然環境の変化というものを考えざるをえなくなってくる。…

民族の成立と中国の歴史
…現在の中国、すなわち中華人民共和国の国民の大多数は「漢族」と分類されていて、その他のいわゆる少数民族、チワン族、回族、ウイグル族、イ族、チベット族、ミャオ族、満(満洲)族、モンゴル族などと区別されている。
これでみると、いかにも漢族という名の単一種族が存在しているようにみえるが、それは少数民族との対照の上でそうみえるだけである。漢族がすべて神話の最初の帝王、黄帝(こうてい)の血をひく子孫であるという観念、「黄帝の子孫」としての中華民族という観念が発生したのは、1895年、日清戦争で清朝の中国が日本に敗れ、近代化、西欧化に踏み切ってからのことであって、それまでは、現在「漢族」と呼ばれている人びとのあいだにさえ、同一民族としての連帯感なぞ存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティのかわりに存在したのは、漢字という表意文字の体系を利用するコミュニケーションであって、それが通用する範囲が中国文化圏であり、それに参加する人びとが中国人であった。…

中国人の誕生
…前221年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。

中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。

…中国の都市の特徴は城壁で囲まれていることで、これは1911年の辛亥革命まで、あらゆる中国の都市に共通であり、城郭都市こそが都市であった。「」の本来の意味は城郭都市のことであり、その音は「郭」と共通であって、「中国」とは、もともと首都の城壁の内側のことである。のちに意味が拡張されて、「中国」は首都の直轄下の地域、つまり畿内のこととなり、最後に皇帝の支配権のおよぶ範囲をすべて「中国」と呼ぶようになったが、これは本来の用法ではない。だから「中国」とは、よく誤解されているように、「世界の中心の国」という意味ではない。

城壁の形は、地形にしたがっていろいろであるが、もっとも基本的な形は四面が東西南北にそれぞれ面した正方形で、土をねって築きあげる。四面にそれぞれ門を開くが、正門は南門で、門にはそれぞれ丈夫な扉をつけ、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。城壁の内側は、縦横に走る大通りによって多くの方形の区画に区切られ、もっとも中心の区画は王宮である。…

こうした城門、木戸の夜間閉鎖と、夜間外出の取り締まりは、1921年に清朝が倒れるまで続いた制度であった。首都の城内に住む権利があるのは、役人、兵士、それから商工業者であって、すべて塀に囲まれた坊里のなかの、長屋風の集団住宅に住んで共同生活をしていた。これは兵営都市という印象をあたえるが、実際城壁は「中国」の空間を、外側の「蛮、夷、戎、狄」の世界から区別する、もっとも重要な境界だったのである。つまり、いかなる民族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人、「華夏」の人だったのであって、中国人という人種はなかった。その意味で、中国人は文化上の観念だというのである。…

中国語の起源
中国語(漢語)と普通、呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽(おお)いかぶさっているにすぎない。…

漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ベトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する福建語、広東語の基層はタイ系の言語である。つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。

ところで漢字は表意文字であって、表音文字ではない。現在、知られている漢字は約5万字であるが、…いずれにせよ、一字一音、しかも一音節が原則となった。ところがいかにタイ系の言語といえど、あらゆる語が一音節からなるということはありえない。そのため、漢字の音は、意味というより、その字の名前という性格のものになってしまう。

こうなると、漢字のもっとも効果的な使用法は、実際に人びとが話す言語の構造とは関係なく、ある簡単な原則にしたがって排列することになる。そうすると、表意文字の体系であるから、言語を異にする人びとのあいだの通信手段として使えることになる。そしてそのように排列された漢字を、それぞれにわりあてた一音節の音で読むと、まったく新しい、人工的な符号ができあがる。こうしてつくりだされた人工的な言語は、日常の言語とはまったく違う、文字通信専用の「言語」となる。これが「雅言(がげん)」である。こうして漢字は、それをつくりだした民族の日常言語から遊離することによって、彼らにとってかわった殷人や周人、また秦人や楚人にとっても有用な通信手段、記録手段になりえたのである。

ところでこうした漢字で綴られた漢文の特徴としてきわだつことは、そこには名詞や動詞の形式上の区別もなく、接頭辞も接尾辞も書きあらわされていない、ということである。この結果、漢字の組み合わせを順次に読み下すことによって成立する、いわゆる「雅言」は、性・数・格も時称もない、ピジン風の言語の様相を呈するが、これは夏人の言語をベースにして、多くの言語、狄や戎のアルタイ系、チベット・ビルマ系の言語が影響して成立した古代都市の共通語、マーケット・ランゲージの特徴を残したものと考えられる。…

中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯35度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組みこまれた範囲が、すなわち中国なのである。そして中国語は、市場で取り引きにもちいられた片言を基礎とし、それを書きあらわす不完全な文字体系が二次的に生みだした言語なのである。

# by satotak | 2009-11-13 20:49 | 民族・国家
2009年 10月 27日

賢治の里に満洲ツングース族!?

今月初旬に帰郷した折、96歳の父親との会話:-
  父「お前が中学の頃、幸田(こうだ)から来ていた同級生はいたか?顔つきが違っていなかったか。」
  私「覚えがないな。幸田かどうかなど、気にもしていなかったと思うし…。ところで何故?」
  父「幸田に満洲から来た人たちが住み着いたと、書いてあったよ。」
  私「終戦後の満洲開拓団の引揚げのことかな?」
  父「いや違う。ずっと昔に満洲の原住民が幸田に来たらしい。この「季刊タウンやさわ」に書いてある。」
  私「…そんなことは書いてないなあ。平泉の藤原氏が源頼朝に滅ばされたとき、その一族の一人が幸田に落ちのびて来たとあるから、それと混同したのでは。この冊子によれば、満洲の原住民というのはツングース系民族のことで、飛鳥時代より前に日本に渡来したという説があるらしい。幸田ではなく、胡四王山の方の話だね。」…
  父「越国...新潟の方が本拠だったのか。どうりで田中角栄はどこか普通の日本人とは違って、大陸的だったなあ。」

「ふるさとの由来」(「季刊タウンやさわ第29号」 矢沢観光開発協議会 2009)より(筆者:内舘勝人):

…花巻市矢沢地区は、北上川の左岸にある地域で、三郎堤、胡四王山、大森山があり、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、花巻市博物館、東北新幹線新花巻駅などの建物もあり、文化観光の拠点地域となっている。…

古志族とは
花巻市史に古志族について次のような記述がある。
「藤原相之助氏は「古四王神考」(東亜古俗考)に於て、我々の祖先は祖神を祭ってそれを中心として集落をつくり都邑を形成していくものであるということを前提として、古四族-満州附近に住んでいたツングース系民族-の祖神たる高志(越)王神であるとし、この神社のあるところ古志族の分布した名残の場所と考えた。(古四王神社は岩手、宮城、秋田、山形、新潟などにわたって約40位あるようである。)」

また、古志族についての文献がホームページにあったので紹介する。
「(略)日本海岸の独立国「越国」は、山形県の小国町にあり、古志王神社がある。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族である。日本古代、この民族は、遷移南下し、渡海して北海道に至り、日本一帯を統治した。一説によれば、彼らは、祖先の石像を彫刻して、祖先を祭った。現在、古志王神社が祭る神像は、鎌倉時代の一刀彫(小刀で刻み込む彫法)の古志王像である。古志国は、日本飛鳥時代(7世紀初め)の国名であり、越国又は高志とも写し、大化の改新時に至って、名称を越国に統一した。越国の位置は、今日の新潟県から福井県北部に当たる。

この後、山形県、秋田県から青森県の最北端に至るまで、全て越国を称した。7世紀後半の天武、持統天皇時期に至り、越国は、越前、越中、越後に三分され、この呼称は、現在に至るまで用いられている。越後新潟の新発田市にも、古志王神社がある。当地の民間信仰には、このような伝説がある。神社の戸の隙間又は裂け目に赤土を塗り、身体上にも赤土を塗りさえずれば、冬になっても、皮膚は凍傷にならないという話である。これより、古志王は、元々寒地の神であったと見られる。

「日本書紀」神代の国造り神話の中には、越州の地名がある。当時、本州を「大日本豊秋津洲」と称したことから、日本海沿岸の越国は、大和王権の外に独立した独特な地区であったと見られる。」
(出典:「満洲族の祖先粛慎人及び靺鞨人と日本の親縁 」の「渡海して日本に建国した北方ツングース族-粛慎、靺鞨、狄」)

(参考 1) 「胡四王山
 ...と、ここまでなら、坂上田村麻呂伝説に始まり、神仏習合→神仏分離という経過をたどったという、東北地方に数多くある社寺の一例のように思えます。
 しかし、「胡四王」という名前には、もっと古い歴史が秘められているという説もあるのです。

 じつは、「コシオウ」という名前の表記には、「古四王」や、「越王」、「巨四王」、「高志王」、「腰王」、「小四王」、「小姓」など様々な種類があって、その名を冠した神社は、新潟、山形、秋田に多く見られるのです。(例えば、秋田市の古四王神社、秋田県大曲の古四王神社、秋田県横手市の古四王神社、新潟県新発田市の古四王神社など。)...

 そして、北陸地方が古来より「越(こし)の国」と呼ばれていることを踏まえて、これは日本海側に住んでいた人々によって古くから信仰されていた神であるとする説が、かなり有力と考えられています。
 その「神」とは、ある説では、阿倍比羅夫が秋田地方に遠征したことと関連して、阿倍氏の祖神と蝦夷(エミシ)の土着の神が習合したものが「コシオウ」神であるとします。
 また別の説は、『花巻市史』にも紹介されているものですが、沿海州から日本海を越えて渡ってきたツングース系渡来人が、高志(越)族だったとするものです。『花巻市史』では、藤原相之助氏の「奥羽越の先住民族ツングースの研究」を参照しつつ、次のように説明されています。...

(参考 2) 「東北民俗学からアジア民俗学へ:藤原相之助論(1)
…藤原相之助の民俗学方面の主著は『日本先住民族史』(1916)と『東亜古俗考』(1943)である。前著は大正二、三年頃、河北新報上に掲載したものを修訂した随筆であると相之助は謙遜し…。後者もまた、『旅と伝説』などの雑誌に寄稿した論文で一書が編まれている。刊行年から見ると順が逆になるが、まず、テーマも多岐に渡り、藤原相之助の問題関心が広く窺える『東亜古俗考』を取り上げる。…

# by satotak | 2009-10-27 21:04 | 女真・満州・内蒙古