テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

ソグド商人からウイグル商人へ -天山ウイグル王国-

「中央アジアの歴史・社会・文化」(放送大学教育振興会 2004)より(筆者:稲葉 穣):

ウイグル商人の登場
…このようなソグド人商人はやがて歴史上から消えていく。それにかわって中央アジア史の表舞台に登場してくるのがウイグル商人である。
モンゴル支配時代,ユーラシアを巡る交易ネットワークのかなりの部分はムスリム商人の手にあったが,当初,中央アジア東半の交易ルートでは仏教徒ウイグル商人が活躍していた。

ウイグルとモンゴルの結びつきは非常に早く,1209年,当時のウイグル王はモンゴルに使節を送っている。その後ウイグル王はチンギス家の娘をめとって婿となり,さらにその関係を強化した。その結果,モンゴル帝国内にはさまざまな形で活躍するウイグル人が満ちあふれていった。ただし,文献史料にはウイグルと書かれるものの,その実態はウイグル支配地域に居住していたソグド人,あるいはその後裔だったのではないかということが近年指摘されている。…多様な人々 を内含したウイグル国家が中央アジア史の主役になった8世紀以降,その支配地域に定住したり,そこを舞台に活動していた商人達が史料においてウイグル人という呼び名を冠せられるという事態は十分あり得る。

f0046672_1144384.jpg13世紀,ウイグルの根拠地はおおよそ東部天山地域にあったが,玄装の報告にあるとおり,この地域はかつてソグド人達が植民都市を築いていた場所でもあった。9世紀以降ウイグルがオアシス都市に定住し,…「牧農複合国家」を形成し,中央アジアのテュルク化を促して以降,ウイグルの国家は中央アジアにおいて文化的にも経済的にも重要な存在であり続けたが,当然ウイグル王国治下にはかつてのソグド人の後裔も含まれていたと考えられるのである。

唐代,ソグド人が活躍した時期に彼らがソグド人として認識されていたのは,彼らがソグド本地との連絡を保ち続け,その言語,文字を解し,あるいはその宗教文化を保持していたことが大きな理由であった。しかし,イスラームの東漸に伴い,ソグド地方がイスラーム化され,言語的にもソグド語から近世ペルシア語への移行が起こった10 世紀以降,中央アジア全域に広がっていたソグド系交易離散共同体のメンバーが,他者によってソグド人として認識される積極的理由もまた薄れていったと考えられる。そして,それが史料からソグド人の名が消え,かわりにウイグル商人が登場する一つの背景となったのであろう。

ウイグル商人とモンゴル
ウイグル商人達の活躍の様子は,やや時代が遡るが,敦煌から出土したウイグル語の手紙から知れる。おそらく9~10世紀に書かれたと考えられるその手紙には,遠隔地に旅した商人たちが,他のキャラバンに手紙を託して仲間達と連絡をとり,また荷物の交換をも行っていたという実態が示されている。…

モンゴル時代,とくにモンゴルの王族や貴族達と,これらの商人の間の関係を考える際に,オルトク商人と呼ばれる者達の存在が注目される。オルトクは,テュルク語諸語に見られる「パートナー,仲間」という意味の語で,出資者と,実際に交易を行う商人が共同事業者となり,前者は資本を委託し,後者が遠隔地交易や高利貸し,徴税請負などの事業の中でそれを運用して利益を生み出した。ユーラシア大陸を結ぶ交易全体が活発化したこの時代,商業活動からあがる税収入で潤ったモンゴル支配層達は,収人の一部を資本として商人たちに投資し,商人たちはそれらの資金をあわせて商売を行い,得られた利益が分配されたと考えられる。このような商業活動は,東西の物品の交易をさらに加速し,モンゴル帝国と,そのパートナーとして働いたウイグル商人に巨万の富をもたらした。このオルトクという言葉は,ペルシア語や漢語にも取り入れられ,それぞれ「オルターク」「斡脱」と転写されているが,これはウイグルあるいはテュルクという中央アジアの民に発した企業形態が,東アジアや西アジアにも広く認知されていたことの証といっていい。

13世紀後半以降はしかしながら,中央アジア地域の商業は西方のムスリム商人の手に移っていく。西アジア,地中海方面,あるいはインド洋交易において巨大な交易ネットワークを形成していたムスリム商人との競争の中で,仏教徒ウイグル商人は中央アジア商業における支配的地位を明け渡さざるを得なくなったのである。
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by satotak | 2006-06-30 03:01 | テュルク


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