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テュルク&モンゴル

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2006年 06月 30日

イル・ハン朝(フレグ・ウルス) - 「イランの地」のモンゴル

「地域からの世界史 第7巻 西アジア(上)」(朝日新聞社 1993)より(筆者:佐藤次高):

バグダードの攻略
…続いて北アジアに興ったモンゴル民族は、強大な軍事力を用いて周辺の諸民族を圧倒し、チンギス・ハンの孫フレグ(1218-65年)に率いられた一団は、13世紀の半ばから西アジアの征服に乗り出した(注1)。その使命はイスマーイール派の暗殺者教団とアッバース朝のカリフ政権を屈服させ、シリアから地中海へと進出することであった。
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フレグ征西軍進路 [拡大図]

ニザール派(過激イスマーイール派の一派)を興したハサン・サバーフ(1124年没)は、イラン北部の険しい山岳地帯にあるアラムート城を根拠地として各地に宣教員(ダーイー)を派遣し、…またイラン・シリアの要害の地を選んで山城を建設し、ここで訓練した献身者(フィダーイ)を都市に送り込んでスンナ派の要人を次々と暗殺した。…

イスラーム世界の解放者をもって任ずるフレグは、イスマーイール派の根拠地であるアラムート城を包囲し、これを落城させると異端に対する勝利宣言をイスラーム諸国に送りつけた。続いてイラクに進出したフレグは、バグダード包囲の体制を固めたが、伝統を誇るカリフの居城への攻撃にはきわめて慎重であった。…

…1258年1月からバグダードに対する総攻撃を開始した。最初の攻撃が行われてから20日後、アッバース朝第37代のカリフ・ムスタースィム(在位1241-58年)はフレグの前に投降し、絨煬(じゅうたん)に巻かれたうえで騎馬に踏み殺された(注2)。600年余りにわたって存続してきたカリフ体制の消滅は、多くのムスリムに計り知れないほどの衝撃を与えた。10世紀以降、マムルーク軍人の台頭と独立王朝の出現によってカリフ権力は衰え、バグダードの繁栄もすでに失われていたが、アッバース朝カリフは、「信者の長」として、なおスンナ派ムスリムによる敬愛の対象とされてきたからである。

イル・ハン朝の国家と社会
「平安の都」バグダードを攻略したフレグは、イラン、イラクの地にイル・ハン朝(1258-1353年)を樹立した(注3)。王朝の樹立後もフレグはさらに西進を続け、1260年には、北シリアの要衝アレッポを占領した。しかし地中海進出を目前にして、彼のもとに皇帝モンケの訃報がもたらされた。前進部隊はすでにダマスクスの包囲にとりかかっていたが、フレグはモンゴルの慣行にしたがって帰国を決意し、後事を将軍キト・ブカ・ノヤンに託した。これを受けてキト・ブカはダマスクスを支配下におくと、さらに南下してエジプトに進撃する準備を着々と推し進めた。

一方、新興のマムルーク朝側では、スルタン・クトズ(在位1259-60年)のもとに迎撃の体制を整え、シリアにいたマムルーク出身のアミール・バイパルスを先遣部隊の司令官に任命した。1260年9月、エジプトのマムルーク朝軍とモンゴル軍との戦いは、パレスティナの小村アイン・ジャールート(「ゴリアテの泉」の意味)で行われた。アラブの史書はモンゴル軍の数を10万、エジプト軍の数を12万と記しているが、実際には双方とも数万程度の軍勢であったらしい。いずれにせよ、イスラーム世界の命運を左右する勝負は一日で決した。バイパルスの率いるバフリー・マムルーク軍の活躍によって、スルタン・クトズは会心の勝利を収め、指揮者を失ったモンゴル軍は敗走を重ねてシリアの地を後にした。このアイン・ジャールートの戦いは、連勝を続けてきたモンゴル軍が味わう最初の敗戦であった。

イラク、イランに退いたイル・ハン朝は、ガザン・ハン(在位1295-1304年)のときに最盛期を迎えた。イル・ハン位をめぐる内紛と経済政策の破綻による国家の危機を克服し、イラン人の宰相ラシード・アッディーン(1247-1318年)の助けを得て、税制・軍制の改革を断行した。改革の主眼点は、ブワイフ朝やセルジューク朝で行われていたイクター制(注4)を施行することにあり、モンゴル軍人に徴税権を伴うイクターを授与することによって、彼らの生活の安定化をはかった。またガザン・ハンは自らイスラームに改宗して、支配階級であるモンゴル人とイラク、イランに住むイスラーム教徒との融和に努めた。

イル・ハン朝(フレグ・ウルス) - 「イランの地」のモンゴル_f0046672_11485656.jpgイル・ハン朝の中興の祖となったガザン・ハンは、モンゴル語のほかに、ペルシア語、チベット語、中国語などにも造詣が深く、さらに歴史学、医学、天文学、化学など広い範囲の学問に通じた名君であった。また宰相のラシード・アッディーンも、セルジューク朝のニザーム・アルムルクにならって、イラン社会に適合したモンゴル支配体制の確立に努め、ペルシア文学史上の傑作と讃えられる『集史』を著した。首都タブリーズには、イラン人の学者ばかりでなく、中国人、インド人、ヨーロッパ人の学者も招かれ、ここに学芸の一大センターが出現した。しかしガザン・ハンとラシード・アッディーンの二人が没すると、国力はしだいに衰え、特に1335年にアブー・サイード・ハン(在位1316-35年)が没すると(注5)、国内には有力アミールが乱立する状態となり、イル・ハン朝政権はここに事実上崩壊した。

(注1) フレグの征西軍は1253年秋、モンゴル高原を出発。本隊はアム河まで非常にゆっくりと進軍し、その間にモンゴル諸家からの供出部隊が参着したほか、先鋒隊による威力偵察を行い、「イランの地」の王侯・指導者達に参陣と兵糧・武器の提供を呼びかけた。アム渡河の決行は1256年1月1日。

(注2) モンゴルが貴人の命を奪うときの習慣

(注3) イル・ハン朝:創始者であるフレグの称号イル・ハンが継承されたためこう呼ばれる。フレグ・ウルスともいう。

建国時期について、杉山正明著「モンゴル帝国の興亡(上)」(講談社現代新書 1996)は、「…皇帝モンケ他界の報が飛び込んできた。フレグは、ただちに帰還を決意した。…タブリーズまでとって返したとき、クビライの即位を知らせる使者が到着...。フレグは当面、帝位をあきらめた。代わりに、そのまま「イランの地」に留まり、遠征軍をもとに西アジア・中東に独自の勢力圏を築こうと決意した。…1260年のこの時をもって、「フレグ・ウルス」の誕生とする。これまで、ともすれが、1258年のアッバース朝滅亡を境に成立したかのような記述や年代区分けがされている。それは…イスラーム研究者達の…当然とも言える心情が投影…。しかし、それは事実ではない。」と述べる。

また「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)では、「1256年、イラン総督のアルゲンがモンゴル本国に召還されたのを機に、征西中のフレグはジュワイニー家の助けを得て政権を掌握した。」として、1256年をイル・ハン朝の始期にしている。

(注4) イクター制:配下の軍人にイクター(分与地)を授与し、その土地の農民から直接租税を徴収させる制度。イクター保有者(ムクター)には、土地の所有権はなく、政府によって定められた税額を徴収する権利だけが認められた。

(注5) アブー・サイードが没すると、フレグ裔が断絶した。

by satotak | 2006-06-30 04:09 | モンゴル


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