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2006年 12月 31日

スルタンガリエフ -タタールのムスリム民族共産主義-

山内昌之著「スルタンガリエフの夢 <新しい世界史②>」(東京大学出版会 1986)より:

スルタンガリエフ (1892-1940)
タタール人のムスリム民族共産主義者. カザンのタタール人師範学校に在学中,ロシアの革命思想から大きな影響を受けた. ウファやバクーにおけるジャーナリストなどの活動を経て,1917年のロシア革命を機にカザンに戻る. そこでムスリム社会主義者委員会やムスリム共産党の組織化にあたり,17年6月に,のちのソ連共産党の前身ボリシェヴィキの党に加盟した. まもなくレスターリンに抜擢されて,中央ムスリム軍事参与会議長,民族問題人民委員部参与会員,《民族生活》紙編集長,赤軍政治総本部東方局長,連邦土地委員会議長など,20以上の常勤の役職を務めた. これは,ムスリム・コムニストとして最高の栄位に昇りつめたことを意味する.

彼は,イスラーム東方世界における社会主義の独特な性格を強調した. 階級闘争とプロレタリア独裁に関するマルクス主義の古典理論を修正することによって、〈第三世界〉の意味と重要性に初めて着目した非ヨーロッパ出身の社会主義者であった. とくに,主要著作《ムスリムに対する反宗教宣伝の方法について》(1921)の中で,イスラームがまるごと反動的な宗教だという誤った説を斥けて、個人と集団を進歩的な社会原理に基づいて統合する規範としてイスラームを積極的に評価した. また,抑圧されたプロレタリアートとのアナロジーで抑圧された民族を〈プロレタリア民族〉と考える独特な視点を打ち出した. コミンテルン(共産主義インターナショナル)がヨーロッパ中心主義に堕していると批判して,アジア・アフリカの抑圧された民族からなる〈植民地インターナショナル〉の結成を呼びかけた.

スターリンの党運営を批判したこともあって,23年5月に逮捕され,まもなく〈民族主義的偏向〉として党から除名された. 28年12月に2回目の逮捕. 31年1月~34年3月,白海のソロフキで服役. 釈放後,37年に3回目の逮捕,40年1月28日に処刑された.
ペレストロイカの下で90年6月に名誉回復. 彼が活躍したカザン市にはスルタンガリエフ広場がつくられて,タタールの人々がその往事を偲んでいる.
[以上は「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より、筆者:山内昌之]

スルタンガリエフの生い立ち
ジャディーディズムに象徴されるイスラム改革思想で重要なのは、特異なタタール人社会主義者の一群を生みだしたことである。スルタンガリエフの生い立ちと政治的経歴は、かれらの軌跡の縮図であった。

タタール名ミール・サイッド・スルタン・ガリーウグルは、1880年頃に、現在ではバシキール共和国に入っているステルリタマク郡のクリムサカル村に生れた。1892年生まれという説もあるが…かれの父は村の小さなメクテブの教師つまりムアッリムであった。
スルタンガリエフの父は、ムアッリムの御多分に洩れず、ロシア政府から俸給をもらわなかったので貧しく、その家族もつましい生活をおくっていた。…村の名士会が定めた安い報酬に甘んじていたのであろう。…

クリムサカルは100戸ほどをかかえる集落であった。村のメクテブは「新方式」の影響を多少は受けていたらしい。スルタンガリエフも父の薫陶をうけながら、音声や字母を基礎にしたタタール語とアラビア語の訓練はもとより、算術・地理・歴史の初歩の手ほどきをうけたことは間違いない。メクテブの外観がたとえみすぼらしかったにせよ、ムアッリムや生徒の教育水準は隣村のロシア人学校よりもはるかに高かった。…

スルタンガリエフの父が息子にロシア語を学ばせたことは、当時の心あるムスリム知識人の常とはいえ、開明的な人柄をしのばせる。…スルタンガリエフの家系は、父親の控え目な職業が示唆するよりもはるかに由緒ある血筋を引いていたのかもしれない。スルタンガリエフの名前のミール・サイッドは、親がこの子どもに託した期待と野心のほどを想像させる。というのも、ミールとは「アミール」(王侯)を意味し、サイッドは他ならぬ預言者ムハンマドの末裔にのみ許される名称だったからである。

スルタンガリエフは、父のメクテブで8-9年間にわたって、初等教育を授けられた。その内容は同時代の若いタタール人の仲間と変らなかったはずである。すなわち、古典アラビア語を少しかじり、オスマン=トルコ語とペルシア語にもなじみ、宗教諸学を学び、そのうえにシャリーアの初歩にも関心をもって、たぶん『コーラン』の朗唱術(タジュウィード)の手ほどきも受けたと考えるのが自然である。

こうしてメクテブ生活を終えたスルタンガリエフには、同じムスリム・コムニストたちの幼少年時代と似て、かなり熱烈なタタール民族への愛情とややファナチックなムスリム青年になる素地がつくられていた。しかも、かれの場合は、父親の職業や生活環境の所為で信仰上の禁忌を厳格に守っていた。…しかし、1895年にかれがメドレセではなくカザンのタタール師範学校の門をたたいたことは、後年のスルタンガリエフに素晴しいロシア語の知識を与える下地をつくっただけでなく、メクテブの級友の大多数には考えられもしなかった新しい人生への門出ともなった。

カザンに出たスルタンガリエフ
タタール師範学校は、その当時タタール人に唯一開かれていた国立の中等教育施設であり、ヴォルガ中流域のロシア・タタール学校の訓導の養成を目的としていた。そこでは官許の宗教の時間を除けば、全授業がロシア語でおこなわれていた。1891年に帝国内務省がタタール人ウラマーの公的資格としてロシア語を必須にすると、この学校への入学者が急増するようになり、そこから後年の著名なムスリム民族運動指導者を輩出した。…

スルタンガリエフが師範学校に在学したとおぼしき1895―1900年の5年間は、かれの成長に画期的な印を刻みこんだ。かれは先輩や同級生との交遊を通じて、マルクス主義を含むロシアの社会思想を初めて知ったことであろう。そのうえ重要なのは、スルタンガリエフが父の薫陶により培ったイスラムヘの信仰から徐々に離れるようになったことである。確証はないが、スルタンガリエフが「抑圧された民族」としてのタタール人を救済するために、イスラムを狭い信仰や精神の宇宙から解放してその政治的ダイナミズムを蘇生させようと思いついたのもこの学校の卒業前後ではあるまいか。…

スルタンガリエフは、…1900年にウファ市立図書館に司書として奉職していた。この頃になると十二分にロシア語に習熟していたので、トルストイの作品やザサディムスキーの児童文学のタタール語訳にもあたったようである。その傍、折から澎湃としておこったイスラーフ運動にも参加した。

イスラーフ運動
イスラーフ運動は、1904年頃にカザンのムハンメディエ・メドレセから始まり、…メドレセの学生たちはイスラーフ運動のなかで、文化的改革が政治的自由の獲得と不可分に結びついていることに自覚を深めながら、ツァリーズムやスラヴ主義への反発を深めるようになった。こうしてイスラーフ運動は、「ジャディード改革主義の最も急進的かつ革命的な示威」となったのである。…

しかし、イスラーフ運動の最も重要な意義は、1917年2月革命後に創立されるカザンのムスリム社会主義者委員会に多数の活動家を送りこんだことであろう。そのなかにはスルタンガリエフも含まれていたが、かれの歩みは同輩たちと比べても驚くほど慎重で遅々としていた。…

「異端」と「偏向」
「スルタンガリエフ主義」とよばれるムスリム民族共産主義は、一朝にして成ったわけではない。…だが、1917年2月に共産党に加入したときから、スルタンガリエフがイスラム世界など植民地・従属地域における民族革命と社会主義のあり方について、「正統」的なマルクス主義とは異質な考察を進めていたことだけは間違いない。それがレーニンに代表されるボリシェヴィキの革命理論の「修正」につながったことも明白である。しかし、かれの思想の発展は、1917年の入党から23年の除名をへて29年の逮捕と追放にかけて首尾一貫して連続していたわけではない。
ソヴェトの当局者が公式に「反革命」と定義したスルタンガリエフ主義は、1923年の除名以後に形成されたということになっている。党員当時のかれの思想傾向に「異端」や「偏向」とおぼしき要素が含まれていたのは事実だが、それらをただちに「反革命」と考えるには相当な無理がある。…

それでも、スルタンガリエフの思想のなかに、入党から追放にいたる全時期を通じて終始一貫する糸のような三つの関心があったことは否定できない。やがて「偏向」と烙印をおされるかれの関心は、対立しあう「階級」に分解していない前資本主義的ムスリム社会における社会主義の性格、イスラムと社会主義の関係、国際革命におけるイスラム・東方地域など植民地世界の位置づけ、の三点にむけられていた。…

複合革命論
スルタンガリエフは、タタール人などムスリム諸民族に代表される「抑圧された民族」を民族資本主義と外国帝国主義の消滅を通して解放しようとした点では、ボリシェヴィキの見解にさして異議をさしはさまなかった。しかし、かれとボリシェヴィキとのあいだには、「複合革命」としての10月革命の評価をめぐって無視できない相違があった。
ボリシェヴィキは、10月革命の基本的性格をプロレタリア革命として評価したうえで、それを側面から強化する要素として副次的に農民革命・兵士革命・民族革命を位置づけていた。他方のスルタンガリエフは、「タタール人労働者・貧農が革命には参加しなかった」と、10月革命がタタールスタンで果たした社会革命としての役割をあまり評価しない。スルタンガリエフにしても、10月革命が「地元搾取者」や反動的ウラマーにたいする社会革命と、「民族の牢獄」の解放に冷淡なロシアの臨時政府と対決する民族革命の性格を併せた複合革命だった点をおそらく否定しないであろう。

両者の違いは、複合革命のどの要素をとくに強調するかにある。ボリシェヴィキは、首都ペトログラートの変革が内地ロシアの周縁都市部に外延的に発展して、プロレタリア革命が拡大すると考えた。労働者階級が存在する限り、プロレタリア革命はどの地でも普遍的性格を獲得するのであり、その階級内部に存在する民族間の矛盾や対立は自然に解消するマージナルな問題にすぎなかった。しかし、ムスリム地域のように、労働者階級が存在するにしても、帝国の時代いらいの入植につづく農業プランテーションの発展、鉄道・土木・建築工事の拡大から生れたロシア人労働者が大多数を占め、ムスリム・プロレタリアートが皆無に等しい所では、プロレタリアート独裁は「大ロシア排外主義」の利益と重なることが珍しくなかった。地方党組織やソヴェト権力がプロレタリアート独裁の名にかくれてムスリム地元民の権利をふみにじった例は枚挙にいとまない。…

スルタンガリエフは、ムスリム・プロレタリアートが「階級」として組織化されるまでの過渡期の性格を重視した。かれは複合革命論に立脚しながら、「階級」の区別も定かでないムスリム地域では「抑圧された民族」内部の社会革命よりも民族的差別の解消とロシア人との平等な権利の獲得を目ざす民族革命が優先すると強調した。「民族意識と階級意識の発展をあれもこれも同時に促進することは、問題の正しい理解を混乱」させる原因だと批判した。

スルタンガリエフは、何をおいても民族解放をまず優先させる根拠としてムスリム社会構造の特殊性を二つあげている。第一に、階級分解が緩慢かもしくは存在しないムスリム社会の全体として均質な性格。第二に、プロレタリアートや貧農が質量ともに弱体なので、ソヴェト権力を指導する力量を欠いていること。しかし、スルタンガリエフは、ムスリム地域に社会主義が成立する可能性を否定したわけではない。それどころか、かれの思想で独特なのは、民族の解放こそ、社会主義の達成に不可欠な条件とみなしたことなのである。

プロレタリア民族
スルタンガリエフは、ムスリム諸民族のようにプロレタリアートを欠く民族が、資本主義発展の段階を飛びこして「非資本主義的発展」の道を経由しながら、直接に封建制社会や前資本主義社会から社会主義に移行できると考えた。

これを証明するために、スルタンガリエフにより提示されたのが、「抑圧された民族」を「プロレタリア民族」ととらえる独特な定式である。スルタンガリエフは、1918年3月のロシア共産党カザン県委員会で、ムスリム社会が植民地主義者に抑圧されていたことを理由にほとんど全部の階級がプロレタリアートとよばれる資格をもつことを論証しようとしている。…

そこでイスラム世界では、社会主義の実現を目ざす「階級闘争」は、「生産諸関係」における異なった階級間の闘争というよりも、異なる歴史的条件におかれた「抑圧する民族」またはその特定の階級にたいする「プロレタリア民族」の闘争としても理解されるのである。たとえば、タタールスタンにいるロシア人やドイツ人の中農は、「もっとも恵れた」タタール人の富農よりも豊かなので、タタール人の富農による貧農への圧迫を批判する前にまずタタール人の農民全体に共通する貧困こそ問うべきなのである。…

スルタンガリエフの遺産 (注1)
…ソ連の国外でスルタンガリエフは「復権」した。しかも、時にはソ連では予想もできない名声を外国で博している。いったい、スルタンガリエフ主義とは何であったのだろうか? また、そもそもスルタンガリエフとは何者だったのだろうか? 忘れられた預言者、その理論がついに第三世界の革命のなかで正当化された先駆者、イスラム世界に初めて独特な社会主義連動を移植した人物、現実からやや遊離したロマンチックな革命家、あるいは「ムスリムのトロツキー」……。

ムスリム・コムニストの犠牲者たちの大半は、今日、「名誉回復」を受けて復権した。…スルタンガリエフは相変らず異端のままであり、「反革命」の烙印をおされつづけている。…
しかし何故に、死んだムスリム・コムニストにたいする、妥協を知らない批判が半世紀も続いているのか? かれの思想はそもそもソ連の市民から完全に忘れ去られたのではないのか?

スルタンガリエフは、ロシア人の植民地主義やボリシェヴィキによる「普遍主義」の強制とたたかったが、それらを打ち負かすことはついに出来なかった。しかし、スルタンガリエフは、やがてムスリム民族共産主義とよばれるダイナミックな政治思想や行動の原型を、自らの生命を代償に遺産として後世に残した。アルジェリアやイランの例で見たように、この遺産はムスリム社会に特有のダイナミズムを引きだすことに成功した以上、ソ連のムスリム諸民族にとっても潜在的な反体制のエネルギーとして蓄積される可能性がある。このエネルギーの顕在化を阻げることこそ、ソ連当局によるスルタンガリエフ批判の主な動機なのである。

スルタンガリエフが提示したムスリム民族共産主義は、植民地化されたイスラム世界にとっての革命的な戦略であった。名目が何であれ帝国主義や無神論者の公権力のもとで「抑圧された民族」が存在し、植民地主義や「普遍遍主義」による同化政策がみられる地域では、スルタンガリエフの名をかぶせなくてもムスリム民族共産主義の支持者を必ず見いだすことができる。それは、抽象的な政治思想の領域と社会運動の沃野をつなぐ展望を人びとに与えてくれるからである。

この点にこそ、スルタンガリエフとその思想が、民族のおかれた運命を積極的に変えようとする意志と勇気をもちあわせる者たちに訴えかける魅力があるのである。あたかも、スルタンガリエフ自身が1917年にこう告白したように。
「私を社会主義に導いたのは、自分の心に重くのしかかる民族への愛であった」。

―――「もしトルキスタンがツァリーズムの支配下にあった時のように、実際に植民地であるならば、…その時には、われわれがスルタンガリエフをさばくべきでなくて、スルタンガリエフがわれわれを、ソヴェト権力の枠のなかで植民地の存在を許している人間として、さばかねばならない。」(スターリン 1923年6月)―――

(注1):本書が出版されたのが1986年であることに留意されたい。
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by satotak | 2006-12-31 09:01 | タタール


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