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テュルク&モンゴル

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2006年 12月 31日

バイバルス -カイロに行ったテュルク系マムルーク

佐藤次高著「マムルーク -異教の世界からきたイスラムの支配者たち」(東大出版会 1991)より:

マムルークとは、「奴隷」を意味するアラビア語である。「奴隷」というと、私たちはまずアメリカ社会の黒人奴隷を思いうかべる。人格を否定され、足に重い鎖をひきずりながら過酷な農業労働に従事する者たち、というのが一般的なイメージであろう。しかし、イスラム社会の奴隷について考える場合には、このような奴隷観をいったんとり払っておかなければならない。むろんイスラム社会の奴隷も主人の所有物であり、戦争捕虜や略奪による奴隷も数多く存在したが、彼らのなかには軍人として社会的な成功を収める者もあれば、商人の代理として遠隔地での取引に活躍する者も少なくなかった。また、歌舞音曲にすぐれた才能を発揮するばかりでなく、法学や神学などのイスラム諸学を身にづけた女奴隷も珍しくはなかった。このような奴隷のあり方を正しく理解するためには、奴隷についての新しいものさしを用意しておくことが必要だと思うからである。…

10世紀前後の奴隷購入ルート [拡大図]

後述するように、イランやイラクの一部地域では農業労働にしたがう奴隷も、わずかではあるが存在した。しかしイスラム社会でのきわだった特徴は、家内奴隷と軍事奴隷が中心的な役割を演じてきたことである。とりわけ奴隷軍人のマムルークは、9世紀以降、カリフやアミール(軍司令官)の私兵としてしだいにその勢力を伸長し、やがてカリフの改廃をも自由におこなうようになった。しかもマムルーク軍人の台頭はイラクやエジプトの地域だけに限られていたのではなく、北インド、トルコ、アンダルス(イベリア半島南部)などイスラム世界のほぼ全域にわたっていた。…

このように奴隷、あるいは奴隷出身のマムルーク軍人は、9世紀から19世紀にいたるまで約1000年の長期間にわたってイスラム諸王朝(注1)の軍隊の中核をなし、アラブ人やイラン人をはじめとするムスリム大衆の支配者として君臨しつづけた。しかもその活躍の範囲は、モンゴル時代のイランなどのように例外はあるにせよ、イスラム世界のほとんど全域にわたっていた。もともとマムルークとは、奴隷商人によってもたらされた異民族出身の奴隷兵を意味している。いったいどのようにして彼らは国家の軍事力を掌握し、イスラム共同体(ウンマ)の防衛者となることができたのであろうか。…

つぎは、マムルークから身を起こしてスルタン位を手中にした人物の例である。

◇バイバルス・アルブンドクダーリー(1277年没)
バイバルスは黒海北方のキプチャク草原に住むトルコ系クマン族の出身であった。1242年、モンゴルのアナス・ハーンがクマン族を襲ってバイバルスらを捕虜とし、アナトリアのシヴァスで奴隷商人に売り渡した。バイバルス 14歳のころのことであった。その後この商人はシリアのハマーにバイバルスをもたらし、ここの君主であったマリク・アルマンスールに売却したが、肌が褐色であるとの理由で返却されてしまった。ついでバイバルスはダマスクスへ連れていかれ、800ディルハム(約40ディーナール)で買い手がついたものの、今度は片目に白そこひの斑点があるとの理由でふたたび返却されることになった。もう一度ハマーに戻ったバイバルスは、そこに滞在していたアイユーブ朝のアミール・アイダキーン・アルブンドクダーリーにようやくひきとられ、彼の手によって奴隷身分から解放されたのである。

1246年、バイバルスは新しい主人にしたがってカイロに入ったが、スルタン・サーリフは突如アイダキーンの財産を没収し、バイバルスをもみずからの所有としてしまった。これ以後、バイバルスはスルタンに直属するバフリー・マムルーク軍の一員としてしだいに頭角をあらわしてゆくことになる。彼が最初に就いた職はスルタンの衣装係(ジャムダール)であったが、1249年にルイ九世がダミエッタを占領したときには、バフリー・マムルーク軍の長アクターイが不在であったために、一時的にこの軍の指揮をとることを命じられた。また翌年のマンスーラの戦いでは、バフリー・マムルーク軍を率いて十字軍を破り、ルイ九世を捕虜とすることに成功した。しかしこのような輝かしい戦果のゆえに、マムルーク朝の第二代スルタンとなったアイバクはバフリー・マムルーク軍の勢力伸長を恐れ、1254年にはその長であるアクターイを殺害する挙に出た。身の危険を感じたバイバルスは、仲間とともにカイロを脱出し、ダマスクスのマリク・アンナースィルのもとへ落ちのびていった。

あしかけ7年にわたるシリアでの放浪生活は、バイバルスの苦難の時代であった。ナースィルとの不和が生じると、今度はカラクのムギースのもとに身を寄せたが、エジプト軍との敗戦によってムギースからも疎んじられるようになった。しかし『バイバルス伝』を著したイブン・アブド・アッザーヒル(1292年没)は、「バイバルスは7年間異郷にあったが、少なきにたえ、けっして仲間(フシュダーシーヤ)を見捨てることはなかった。これこそ彼の男らしさ(ムルッワ〉の証明である」と述べている。バイバルスの巻き返しを可能にしたのは、彼の軍人としてのすぐれた資質ばかりでなく、このような人間性にもよるところが大きかったにちがいない。

東方からのモンゴル軍の脅威によって、バイバルスの不遇の時代にはようやく終止符がうたれた。1259年、エジプトのスルタン・クトズと和解したバイバルスは対モンゴル軍の司令官に任命され、翌年のアイン・ジャールートの戦い(注2)では、キトブガー配下のモンゴル軍に壊滅的な打撃を与えた。この戦いに先立ってクトズはアレッポの総督職をバイバルスに約束していたが、戦後この約束をまもらないことを理由にクトズを殺害したバイバルスは、みずからマムルーク朝の第五代スルタンに就任した。この時、バイバルスはおよそ33歳であった。

即位後のバイバルスは、アッバース朝カリフの擁立やバリード(駅伝)網の整備によって国内体制を整えると、1265年から対十字軍戦争にのりだし、シリアの海岸地帯にあるカイサーリーヤ、ハイファー、サファド、ヤーファー、アンターキヤ(アンティォキア)などの諸都市をつぎつぎと奪回した。この間にモンゴル軍とも戦い、1275年には、アルメニアに遠征してシースやアヤースなどの諸都市を征服した。17年の治世のあいだに38回のシリア遠征をおこない、そのうちモンゴル軍との戦いが9回、十字軍との戦いは12回におよんだという。カイロとダマスクスのあいだでさえ750キロメートルあまりの距離があることを考えれば、右の数字はバイバルスが人並外れた気力と体力の持主であったことをしめしていよう。このような輝かしい戦歴のゆえに、バイバルスはいまでもアラブの偉大な英雄として民間に語り継がれている。

バイバルスはカラコルムまで商人をつかわして男女のトルコ人奴隷を買い求め、彼が所有するマムルークの数だけでも4000に達したと伝えられる。その家族についていえば、シリアに来住したフワーリズミーヤ(ホラズム軍)の長ベルケ・ハーンの娘、モンゴル人のアミール・ノカーイの娘、おなじくモンゴル人のアミール・カラーイの娘、クルドのシャフラズーリーヤ族の娘を妻にもち、女奴隷の子供をふくめて五男七女をもうけた。バイバルスはまた、イスラム信仰の擁護と文化の発展にも力を注ぎ、カイロではザーヒリーヤ学院の建設、アーフィーヤ・モスクの建設、アズハル・モスクの修築、ダマスクスではウマイヤ・モスクの修築、ザイン・アルアービディーン廟墓の改築などはば広い建設事業を手掛けた。

1277年7月、アナトリアでモンゴルとルーム・セルジューク朝の連合軍を破ったパイバルスは、ダマスクスに帰還して恒例の馬乳酒(クミズ)による祝杯を上げたが、急に腹痛を発し、まもなくこの地で没した。まだ50歳に満たない若さであった。遺体は現在のザーヒリーヤ図書館のある墓地に葬られたが、死因はクミズの飲み過ぎであったとも、毒殺であったともいわれる。…

(注1) イスラム諸王朝:「イスラム国家・王朝年代図」参照
(注2) アイン・ジャールートの戦い:「イル・ハン朝(フレグ・ウルス)」参照

by satotak | 2006-12-31 11:04 | テュルク


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