人気ブログランキング | 話題のタグを見る

テュルク&モンゴル

ethnos.exblog.jp
ブログトップ
2007年 02月 27日

マレーシアのイスラム -三つのメニュー/三つの民族/三つの宗教-

「アジア学のみかた。」(朝日新聞社 1998)より(筆者:山内昌之):

マレーシアの病院に入院した田村愛理氏によれば、その夕食には三種類の違ったメニューが出されたという。もちろん、そこから一つを選ぶのである。たとえば、ある日のメニューは、①羊肉スープ・飯・ゆで野菜、②鶏の煮込みあんかけ風・飯・野菜いため、③鶏のカレー・ロティ(インド風パン)・野菜であった。…マレーシアが典型的な多民族国家であるという切実な政治と文化の反映なのである。
メニューの一番目はマレー人、二番目は中国人、三番目はインド人向けであった。豚肉と牛肉はついに一度も出されなかったという。豚肉はムスリムのマレー人にとってタブーであり、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べないからだ。…

憲法は原則ムスリム
マレーシアの国民19百万のうち、52パーセントがマレー人、33パーセントが中国人、9パーセントがインド人である。残りの6パーセントが、カダザンやイバンなどの土着民である。もともと人口希薄なマレー半島には、7世紀頃からかなりのマレー人がスマトラから移住していた。14世紀になると、ムラカ(マラッカ)王国が成立し、マレー語とイスラームという〈国民統合〉の遺産を後世に残すことになった。しかし、16世紀にポルトガルに滅ばされたのを機に、マレー半島の支配者はオランダ、イギリスとめまぐるしく変わり、第二次大戦中は日本の占領支配も受けるようになった。

19世紀になってイギリスがスズ鉱山の開発を進めると中国人も多数入ってくる。ゴム栽培が進められるとタミル系のインド人が流入してきた。こうして三つの民族集団が共生するような状況が生まれたのである。多民族社会とは、とりもなおさず多宗教社会でもある。住民の55パーセントがムスリムであり、マレー人のほぼ全体と他民族の一部がイスラームに帰依している。中国人には、仏教、儒教、道教あるいはその混淆を信じる者が多い。インド人の大多数はヒンドゥー教徒であるが、カダザンやイバンなどにはキリスト教徒も見られる。もし、地元民と非地元民といった二分法を用いるなら、マレー人、カダザン人、イバン人などは地元民、中国人とインド人は非地元民ということになろう。

マレー人の母語のマレー語は、この国唯一の公用語であり、国語ともなっている。言語状況は複雑であり、カダザンとイバンはマレー・ポリネシア語族に属する言葉を話している。他方、中国人は福建語や広東語といった多彩な方言を話しているが、共通語としての北京語を理解する者も多い。もちろん、文章語としての漢字は出身の差にかかわらず、すべてが了解可能である。インド人の主要な言語はタミール語であるが、他の方言も聞かれるという。

イギリスの植民地政策において産業化から疎外されていたマレー人は、独立時の中国人やインド人と比べると、非常に貧しかった。マレー人エリート中心の政府がアファーマチヴ・アクション(積極的優遇政策)を採用したのは、公務員採用、特定業種育成、奨学金給付によってマレー入の成長を助けるためであった。70年代からの新経済政策(NEP)においても優遇政策は変わらず、商工業にも適用されている。

こうして、マレー人は非マレー人と比べると政治的に一段と恵まれるようになった。非マレー人の多くは、第二次大戦後の数十年もたたずして、出身地の新しい土地で市民権を得ていたが、ムスリムに改宗した中国人は「マレー人」とは認定されず、マレー人にともなう特権を得ることができないままだった。

憲法は、「マレー人」について原則的にムスリムであり、日常にマレー語を話し、マレーの慣習に従う者と定めているが、マレーの言葉と習慣に中国本土の気風以上になじんでいる中国人二世や三世が「マレー化」できないという不条理を解決できないでいる。

貧困農民から中間層へ
それでも、独立後のマレーシアはまずまず多民族が共存する平和と安定を享受することに成功したといってよい。その理由としては、50年代初期に、マレー人、中国人、インド人の指導者たちが多民族社会ではエスニシティ(民族性)が大きな力をもつことを認識して、協力しあう必要性を互いに理解した点にある。問題は、各個の民族的忠誠心やアイデンティティをいかに自己制御できるのかという点にあった。かれらは、エスニシティをわざとらしく無視する代わりに、エスニシティを政治プロセスに無理なく包みこむことを選んだといえよう。

たとえば、三つの民族政党間の協力関係が1954年に強められている。それは、統一マレー国民組織(UMNO)、マレー中国人協会(MCA)、マレー・インド人会議(MIC)の「同盟」が、55年の最初の連邦議会選挙で勝利を収めたことである。選挙の勝利は、民族間の穏やかな連帯に正統性と信頼性を与えることになった。重要なのは、三つの政党は、権力を互いに分け合う点こそ多民族社会を運営する効果的方法であることを痛感させたことだろう。現在では「バリサン・ナシオナル」(人民戦線)には14の政党が入っている。その多くは民族間の協調を心がけており、「バリサン」は、前身の「同盟」から数えると、57年の独立以来決裂せずに権力を維持することに成功している。

この連立のリアルな意味は、すべての民族集団に対して、どれほど小さくても権力への参加意識を与えたことにあるだろう。UMNOがこのなかの第一人者であるが、行政権力においては内容、性格、実際において多民族性への配慮を忘れていない。

マレーシアの安定には、民主的な行政システムが成立していることも無視できない。57年以来、マレーシアはまずまず議会制民主主義を機能させており、経済もNIESに続くかのように好調であった。ほとんど40年間に及ぶ持続的経済成長は、民族間の利害対立と競争の鋭ざを弱めてきた。政府によるアファーマチヴ・アクションは、貧しかったマレー人農民を中間層に成長させ、商工業に積極的に参加できる集団へと成長させた。

これは、一世代のうちに生じた変容としてはかなり目立つものであった。政府は自由市場のメカニズムを通して私的投資や事業を奨励する一方、既成の企業も政府の大幅投資効果の好影響を受け、ビジネス・チャンスの拡大を大いに利用してきた。

マレーシアの幸運は、地元民と非地元民の必要や願望をいずれもまずまず満足させたことだろう。もし、アファーマチヴ・アクションが一方的に強調され自由市場が破壊されていたなら、非地元民とくに中国人の利益は失われていたはずだ。もし自由市場の力が優先されすぎ、地元民を庇護する政府介入がなければ、マレー人の大多数はすべてを失っていた可能性さえ否定できないのである。

多民族共存から学ぶこと
中東などではイスラーム主義の大義名分の下で〈イスラーム・テロリズム〉が猖獗(しょうけつ)をきわめているが、幸いなことにマレーシアなど東南アジアでは極端な暴力はかげをひそめている。

マレーシアのイスラーム理解研究所長イスマイル博士は、イスラームがマレー人の寛容性と順応性を形づくる上で重要な役割を果たしてきた点をしばしば強調する。イスラームの普遍主義(ユニヴァーサリズム)、すべての人類と生物に対する人道的な関心は、マレーシアの多民族共存を支える触媒になったというのだ。古典イスラームが教理の面では、民族・文化・宗教の違いを超越する救済の使命と正義感の感覚をもっていたことはたしかである。しかし、ともすれば中東では、こうした使命感が異教徒や異文化の排斥につながるイスラーム主義急進派の運動をひきおこしている。

そうしたなかで、イスラームがマレーシア多民族国家の重要な価値体系の一部として、宗教の多様性を認める開かれた態度を示しているのは好ましい。願わくば、正義や公正にかかわるすべての事柄について偏見がないというのであれば、日本や欧米の価値観も積極的に吸収するような意欲的な〈文明の挑戦〉を果たしてもらいたいものだ。

いうまでもなく、どの多民族社会にも固有の歴史と事情がある以上軽々に他と比較することはできないが、マレーシアの経験が民族紛争で苦しむ他の社会に提示できる教訓もあるのではないだろうか。イスマイル博士から受けた教示を私なりに咀嚼してみると、さしあたっては、五つほど浮かび上がってくる。

(1)多民族社会では異なった民族の政党が協力しあい、権力を分有すること。
(2)分離主義などの破壊的な傾向を規制し、エスニック・ナショナリズムを有効に統御するためにも、民族的な自己主張を無視するのではなく、それを議会制度に順応させるような民主的なプロセスをつくること。
(3)経済的再配分を重視し、異なった民族の力量や願望を念頭においた経済成長をバランスよく実現する努力。
(4)各民族の活力源としての文化と宗教の多様性を受け入れる柔軟性。
(5)日常の態度や振る舞いのレベルにおけるバランスと順応性。

これらは、多民族社会マレーシアの経験から引き出した公理であるが、分裂と脱統合に苦しむ中東から中央アジア、ひいてはアフリカにまたがるイスラーム世界の現実を考える際に示唆を与えてくれるのではないだろうか。

by satotak | 2007-02-27 13:16 | 民族・国家


<< ウイグルの中のキルギス      民族と歴史家の立場 >>