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2007年 03月 20日

ソ連解体後のクルグズスタン

旧ソ連イスラーム諸国における体制移行とイスラーム」(中村友一 2006)より:

はじめに
本論は、…「旧ソ連イスラーム諸国」における権威主義体制の成立過程とそれに対抗する反対派、特にイスラーム主義運動の動態を分析することを通じて、ソ連解体後の各国における秩序や規範の創出過程への理解を深め、…「新たな紛争管理論の展開」に貢献しようとする試みである。…

本論で分析の対象とするのは、旧ソ連イスラーム諸国における様々な体制移行のかたちである。ここで言う「旧ソ連イスラーム諸国」とは、かつてのソ連の連邦構成共和国のうち、イスラーム教徒(ムスリム)が国民の多数を構成する国、具体的にはカザフスタン、クルグズスタン(注1)、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジア5ヵ国にアゼルバイジャンを加えた6ヵ国を指す。これらの国々はソ連解体の後、現在までに大統領が強大な権力を持つ一見類似した政治体制に移行した。
しかし、その移行が行われた時期、及び大統領への権力集中の程度は、国ごとに相当の違いがある。一部の国では独立初期に急速に権力が強化される傾向が観察されたのに対して、他の国では一定水準の民主化が進む兆しも見られた。…

[拡大図]

第2章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の特徴
(1)権威主義体制
従来、旧ソ連諸国の多くの体制移行は、「権威主義体制」への移行として語られることが多かった。本来、権威主義体制はスペインの政治学者J.リンスがフランコ体制を分析する際に用いた概念であり、ファシズム体制やスターリン体制に代表される全体主義体制でも、あるいは民主主義でもない体制を指したものである。リンスによれば、権威主義体制の最大の特徴は「限定された多元主義」だといえる。現在、旧ソ連諸国の多くでは、現政権に反対する集団の政治システムへの参入がしばしば制限され、時にはその活動には圧力が加えられる。これらの国々では、多元主義を特徴づける複数政党間の政権交代や利益集団の影響力が十分確保されているとはいえない。また、権威主義体制では、イデオロギーに代わり、伝統的な規範に由来する規律・秩序などのメンタリティーが重要な意味を持つ。旧ソ連諸国では、独立直後に生じた社会的混乱の影響もあって、変化よりも安定を志向する意識がしばしば相対的に安定していたソ連時代へのノスタルジーをもたらし、権威主義体制の安定の基盤となっている。

旧ソ連のうち、イスラーム諸国の政治体制は、権威主義体制モデルへの類似性をとりわけ多く有している。各国のうち、アゼルバイジャンを除く中央アジア諸国では、独立はソ連解体という情勢の変化にともない、いわば受け身で獲得されたものであった。そうしたなか、クルグズスタン、タジキスタンを除く旧ソ連イスラーム諸国では、ソ連時代の共和国共産党第一書記が、いわば横滑りのかたちで大統領に就任した。これらの国では、従来の政治的エリートの多くが政治的権力に引き続き参画し、従来のような統治スタイルを維持する道が開かれた。…

また、旧ソ連イスラーム諸国において、大統領や政府が発表する政策プログラムは、ソ連時代とは異なり、体系的なイデオロギーによるものではない。各国の指導者は、イデオロギー的には共産主義から徐々に離れ、従来、共産主義が果たしていた統合機能を補うために、新たにナショナリズムに基づいた統合を図ろうとした。ソ連末期に共産党中央による地方党組織への統制がゆるむ中で、各国政府は名称民族の言語を国家語とし、スターリン時代に追害された知識人の名誉回復を掲げて自己の地位補強を図った。その際、独立国家の正統性を確保するため、たとえばウズベキスタンはティムール帝国を自民族の歴史の中に位置づけ、クルグズスタンは英雄叙事詩「マナス」を民族統一のシンボルとした。さらに、それぞれの民族的シンボルをデザインした国旗を採用したり、主権宣言や独立宣言の日を祝日に定めたりすることで、各国の政治エリートは支配の正統性を維持・強化しようとした。

以上のような特徴に対し、旧ソ連イスラーム諸国の政治体制には、権威主義体制の理念型から逸脱する側面も存在する。各国において、確かに官僚機構は一定の強さを保っているが、政治を動かすのはむしろ大統領の親族や同郷人・友人などによって構成される非公式のネットワークである。ソ連時代から、これらの国々においては、政治エリートが個別の利益を実現するために、地縁・血縁・人脈を基盤とした非公式のネットワークに基づくパトロン=クライアント関係を築き上げ、公の人事も、しばしばこうしたネットワークによって動かされてきた。…

第3章 旧ソ連イスラーム諸国の体制移行の諸相
(1)独立時、国内の反対派が弱体だった諸国
旧ソ連イスラーム諸国のうち、独立した時点で国内の反対派が、体制に対して比較的穏健な姿勢を示していた国、あるいは弱体であったカザフスタンとクルグズスタンにおいては、当初、言論や出版の自由がある程度容認されるなど、反対派の活動に一定の自由が認められた9。しかし、これらの国々でも、経済政策においてロシアの改革に近い急進的ショック療法を基本的に採用し、90年代前半で国内総生産が半減するなど急激に経済活動水準が低下する現象が起こり、社会の不満を反映して大統領や政府に対して反対する動きが次第に強まってきたことに対応して、90年代後半以降、急速に権威主義化が進行した。…

●クルグズスタン
クルグズスタンでは、90年6月の「オシュ事件」への対処で当時のマサリエフ共和国党第一書記が失脚し、同年10月に学者出身のアスカル・アカエフが大統領に選出された。アカエフは反対派にも寛容で、当時のクルグズスタンでは「民主主義の島」にもたとえられるほど自由な政党活動が行われた13。カザフスタンと同様、クルグズスタンにおいても反対派への寛容が一定期間保たれた背景には、政府に対して深刻な脅威をもたらしかねない強力な野党や野党リーダーが不在だったことが挙げられる。


しかし、95年12月の大統領選挙では対立候補に圧力が加えられ、アカエフが再選されると、96年2月の憲法改正によって大統領の権限が大幅に強化され、反体制的な新聞や反対派政党のリーダーがそれぞれ有罪判決を下されるなど、反対派への圧力が強まっていった。
その後、2000年2月の議会選挙では、1年前までに政党として登録していなければ選挙に参加できないという選挙法が導入され、合計3つの党が参加を阻まれた。続いて、同年10月の大統領選挙でも、議会選挙中に横領などの容疑で逮捕されていた有力候補のクロフ元副大統領が立候補できず、他の立候補者の一部をクルグズ語の試験でふり落とすなどした結果、アカエフは大差で再選された。

クルグズスタンでも、政府による抑圧や政治家自身の汚職などの影響で、複数政党制の発展は足止め状態にある。95年2月に行われた議会選挙では、12の政党から1000人以上の立候補者が出たが、2000年の議会選挙での立候補者数は大幅に減少した。しかし、依然としてクルグズスタンでは比較的強い野党勢力が存在している事実は、野党の反政府運動でアカエフ政権が崩壊した2005年3月の事件を見ても明らかである。(注2)

クルグズスタンの政治では、北部と南部の地域対立が重要な意味を持ってきた。ソ連時代から、北部の工業地域と南部の農業地域は、予算やポストの配分などをめぐって対立をくり返してきた。北部のチュイ州出身のアカエフが就任後に北部出身者を重用したことによって、南部地域の不満はさらに高まっていった。例えば、2002年3月には、南部のジャララバード州で、アカエフ辞任を求めるデモ隊と警察が衝突し5人の死者が出る事件が発生した。

アカエフヘの反対は、政党だけではなく、クルグズスタンのさまざまな民族グループからも起こった。独立後、高い技術力をもつロシア人住民の出国が相次いだためは、アカエフはスラブ大学を設立し、99年にはロシア語にクルグズ語と同じ地位を与えた。しかし、ロシア人に対するこのような譲歩は、クルグズ人側からの反発を招いた。他方、クルグズスタン南部では、ウズベク人とクルグズ人の間の対立が続いている。

第4章 権威主義体制とイスラーム
前章で具体的に示したように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての国は、各国ごとに移行時期に違いが見られるとはいえ、現在までに権威主義へと政治体制を転換させ、大統領への権力集中、官僚制や非公式のパトロン=クライアント・ネットワークの強化、新しいナショナリズムの高揚などを推し進めてきた。これに対し、各国の反対派は、政党組織や民主化運動、地域主義的な動き、ナショナリズム運動やイスラーム主義運動のかたちで対抗していった。本章では、旧ソ連イスラーム諸国における反対運動のもう一つの形態であるイスラーム主義運動の実態を明らかにし、各国がそれにどのように対応しているのかを検討してゆく。

(1)イスラーム主義運動の現状
…独立後の旧ソ連イスラーム諸国では、民族文化の見直しにおいてイスラームは最も重要な対象のひとつとされ、各国政権も基本的にそれらを黙認、公認、あるいは利用してきた。しかし、そのような公認のイスラームと並行して、「純粋なイスラーム」の時代への回帰を志向するイスラーム主義運動が、ウズベキスタンやタジキスタンを中心に政権への反対を強めていった。このようないわば「非公認のイスラーム」が急成長した背景には、独立後期待していた民主化・政治的自由化の停滞・後退、貧困の拡大、失業などのフラストレーションなどの要因が存在している。そうしたイスラーム主義の潮流は、90年代末に至って、アフガニスタンの混乱、タジキスタン内戦やチェチェン紛争などの直接、間接の影響を受けて過激化、暴力化し、旧ソ連イスラーム諸国の各政府に大きな脅威を与えるようになった。

現在、特に中央アジアにおいて活発に活動している代表的なイスラーム主義組織としては、ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)と解放党(ヒズブッタフリール)が挙げられる。IMUは、タヒル・ヨルダシュとジュマ・ナマンガニーの両名を指導者として、96年に結成された組織である。この運動は、フェルガナ盆地に統一イスラーム国家を樹立するという目標を掲げて、ウズベキスタンのカリモフ政権に対してジハード(聖戦)を宣言した。ヨルダシュは、99年2月にタシュケントでカリモフを狙ったと思われるテロの首謀者とされ、ナマンガニーは同年ルグズスタン南部で起こった日本人4人を含む人質事件に関与した。アフガニスタン空爆のなか2001年11月にナマンガニーが戦死したことが伝えられ、その後のターリバーン政権崩壊によってIMUの動向は不明となっている。

おわりに
以上の分析で、旧ソ連イスラーム諸国は独立後にすべて権威主義体制へと移行していったこと、そして各国の移行の時期や過程にはそれぞれ相違が確認できることが明らかになった。このような相違が生じた背景として、先に述べたように各国における反対派の強さと政権交代の有無が考えられる。…

次に、各国における反対派の構成については、この地域の権威主義体制がもつ3つの特徴、すなわち大統領への権力集中、パトロン=クライアント・ネットワークの強化、ナショナリズムの高揚のそれぞれに対して、対抗する動きが見られた。このうち、大統領への権力集中に対抗する政党活動や民主化運動が伸び悩んでいること、後二者にそれぞれ対抗する地域主義やエスニック・マイノリティのナショナリズム運動が各国を分裂に導きかねない可能性を持っていることが明らかになった。

また、ナショナリズムの高揚に関連して、独立後の旧ソ連イスラーム諸国ではイスラーム主義運動が活発になっている。これに対して、各国政府は、それぞれ公認のイスラームと非公認のイスラームの間に線を引き、前者をナショナリズムの一部として組み込んで、国内統合をはかる手段としてきた。また、後者に対しては、いまだ政権に対抗するだけの力を有していないにもかかわらず、徹底的に弾圧し、その活動を制限する政策をとった。
これは、各国の政権がイスラーム主義の潜在的な可能性に対して、しばしば過剰な脅威を感じていることを示している。

このように、旧ソ連イスラーム諸国のすべての政権が、ひとしく権威主義的な傾向を示しているのは事実である。最近、アゼルバイジャンとクルグズスタンで政権交代が行われたが、選挙を通じての移行か反政府運動の高揚によるものかという相違こそあれ、依然として権威主義体制を志向する傾向については変化が生じていない。しかしながら、各国の政治的安定を脅かす地域主義やナショナリズム、イスラーム主義などの動きも依然根強く残っているのも確かである。例えば、クルグズスタンの政変やウズベキスタンの反政府暴動などには、国内の地域間対立が色濃く反映していると考えられる。そのような不安定要素が今後、各国の権威主義体制にどのような影響を与えるかについては、今回言及できなかった国際的な要因も含めて、今後の研究課題としてゆきたいと考える。

(注1) クルグズスタン中央アジア南東部の国。正称はクルグズ共和国だが、〈共和国〉を省く場合はクルグズスタンと呼ぶ。日本ではキルギスないしはキルギスタンともいう。

(注2) アカエフ政権崩壊後
:2005年2月末の議会選挙をきっかけとして、野党勢力により南部で開始された混乱が首都に及ぶと、3月にアカエフ政権は崩壊(チューリップ革命)、野党勢力指導者のバキエフ元首相が首相兼大統領代行に選出され、7月の大統領選挙で当選し、8月に就任を果たした。
バキエフ政権の下、政治・経済改革は遅々として進まず、政情は不安定。特に2006年11月、憲法改正(特に大統領権限の縮小)を巡る大統領と議会野党勢力との対立が激化し、野党側による反政府集会が大統領支持派と衝突する危機が生じたが、双方間で妥協が成立し、大統領権限を縮小する(首相の実質的選任権を議会が得る等)新憲法の採択により一応の収束を見せた。しかし、その後、大統領側と議会側のかけ引きを経て、大統領権限を再度拡大する憲法修正案が採択され、1月15日に大統領が署名。

by satotak | 2007-03-20 13:10 | キルギス


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