テュルク&モンゴル

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2007年 04月 25日

キルギスの歴史

若松 寛訳「マナス 少年篇 -キルギス英雄叙事詩-」(東洋文庫 2001)より:

キルギス人は悠久の歴史をもつ古い民族である。その先祖は“堅昆”(けんこん)と呼ばれ、彼らは最初南シベリアのイェニセイ川上流の森林地帯に居住して、紀元前3世紀には匈奴に服属していた。西暦3世紀に至って、堅昆はかなり強大となって、彼らは丁零、鳥孫、康居の諸民族と隣り合っていた。このころの史書ではキルギス人は“堅昆”、“紇骨”、あるいは“契骨”と称された。

唐代に至って、キルギス人は"黠戛斯”(かつかつし)と呼ばれた。648年(唐、貞観23年)、黠戛斯首領失鉢屈阿桟(しつばつくつあさん)が唐に入朝して以来、キルギス人は初めて唐と直接に関係をもち、一時はその支配をうけ、唐の堅昆都護府が名目的ではあるが設けられた。

9世紀、キルギス人の勢力は東、南方向に向かって拡張し、モンゴル高原のウイグル・カガン国を倒して(840年)、キルギス・カガン国を創建した。キルギス・カガン国が存在した百余年は、キルギス史上の繁栄時代であり、キルギス人はゴビ砂漠以北に雄を称(とな)え、国強く兵は壮(さか)んで、人口は百万を超えた。

10世紀初め、内モンゴル東部に契丹(遼朝)が興り、キルギス人に取って代わってゴビ砂漠以北の高原をも支配した。ここにさしも強盛を誇ったキルギス人も契丹の隷属民と変わり果てた。

10世紀後半頃からキルギス人はしだいに東、西両グループに分かれ始めた。東方グループが主力で、イェニセイ川上流の森林地帯に拠って牧畜兼狩猟の生活を送っていた。西方グループは若干の西遷したキルギス人で、彼らはアルタイ山と天山の一帯に遊牧していた。

12世紀20年代、遼朝の王族耶律大石が王朝の滅亡に際して中央アジアへ逃れ、1132年、カラハン朝を滅ぼして、チュー河畔のベラサグンを都としてカラ=キタイ(西遼)朝を開いた。カラ=キタイ朝は80余年と短命であったが、キルギス人にとっては苦難の時代となった。カラ=キタイの軍はキルギス人の牧地を占領し、キルギス人の家畜・財産を掠奪して、彼らに流浪をよぎなくさせた。

モンゴル族が台頭すると、1218年チンギス・カンはキルギス人を征服し、キルギス人西方グループ地区はモンゴル西征の基地となった。元朝もまたキルギス人に強力な支配権をふるったが、この頃からキルギス人西遷の動きも顕著となった。

明代に入ると、チンギス・カンの時代からイェニセイ川の西方、イルトィシ川の上流にいて、キルギス人とずっと隣り合ってきたオイラト人が急激に勃興し、その勢力をモンゴル高原とアルタイ山以南に伸ばした。オイラト人は西モンゴル族であり、キルギスとその他のテュルク語系民族からはカルマクと呼ばれ、漢文史料では瓦刺(わら)と称される。

1439年オイラトの首領となったエセンは一代の梟雄で、東は朝鮮から西は中央アジア、北はシベリア南辺から南は長城に至る大領土をひらいた。彼は49年大軍を率いて明の北辺に侵入し、長城の土木堡で明の正統帝を捕らえ、その後まもなく大ハーン位についてオイラトの全盛期を現出した。しかし彼は54年部下に殺され、ゴビ砂漠以北の草原は一時混乱状態におちいった。このあともオイラト人の勢力は衰えず、西北モンゴリアはひきつづきその勢力下にあった。

キルギス人の東方グループが大挙して天山一帯に西遷したのもエセン・ハーンの支配期とその死後の混乱期のことだったらしい。キルギス人は新たにモグーリスターン・ハーン国の支配下に入った。この国は、14世紀前半以来、チャガタイ・ハーンの後裔をハーンにいただき、天山からセミレチエにかけての遊牧地帯(モグーリスターン)を支配してきた遊牧国家である。キルギス人はモグーリスターン・ハーンの苛酷な統治とカルマク人の侵攻にあえいだが、16世紀に入ると、彼らはカザフ人と同盟を結んで、モグール人(モグーリスターン・ハーン国人)およびカルマク人と抗争を行った。

17世紀前半、オイラト人の中のチョロス部族が他のオイラト諸部族を統合して、天山・アルタイの間の大草原にジュンガル王国を建設した。以後、この王国の勢力は、東はモンゴル高原にまで伸びて、このため清朝と北アジアの覇権を争い、西は中央アジアのシル川東岸にまで達してタシュケント、サイラムの両都市をも占領し、北はシベリア南辺でロシア帝国と境を接し、南は天山以南のタリム盆地全域を奪った。キルギス人もこの王国の支配下に組みこまれ、天山以北にいる者は東ブルート、天山以南にいる者は西ブルートと呼ばれた。1757年ジュンガル王国が清朝に滅ぼされると、東西ブルートはジュンガル王国の70年の久しきにおよぶ統治を脱して、清朝に服属した。

一方、16世紀ごろから中央アジアのフェルガナ地方に移住した一部のキルギス人は、その後ウズベク人のホーカンド・ハーン国の支配下に入ったが、1864年からはロシア帝国に服属した。(注1)

以上のような歴史をキルギス人はたどってきた。そこに目立つ現象は絶え間ない外患と遷徙(せんし)である。紀元前3世紀匈奴への隷属を皮切りに、彼らは唐代に至るまで北方異民族の属部となってきたが、西暦9世紀にキルギス・カガン国を樹立して、ゴビ砂漠以北の高原に百余年にわたって万丈の気を吐いた。しかし10世紀からは連続して彼らは契丹人、モンゴル人、カルマク人、モグール人、ジュンガル人の支配下にあった。こうした逆境の中から民族を外敵から守り独立を勝ち取るあこがれの民族英雄が模索され、それが叙事詩の中で結実したのであろう。したがって英雄マナスはあくまで実在の人物ではなく、民族の夢と希望の所産なのである。

(注1) クルグズスタンは18世紀後半から19世紀前半にかけてコーカンド・ハン国の支配下にあったが、1855-76年にロシア帝国に併合され、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となった。1916年反乱の際、北部ではクルグズ人とロシア人農民の大規模な衝突が起きた。
ロシア革命後にトルキスタン自治共和国の一部となったが、24年にロシア連邦共和国の一部としてクルグズ(1925年までのロシア語名カラ・キルギズ)自治州が成立し、26年にクルグズ(キルギズ)・ソビエト社会主義自治共和国、36年にソ連邦を構成する共和国に昇格。ソ連時代後半に活躍を始めた作家アイトマトフは世界的な名声を得た。
1990年にオシュ事件の悲劇を経験。90年12月にクルグズスタン共和国に改名して主権を宣言し、91年8月にソ連からの独立を宣言した。93年5月にクルグズ共和国に改称。
(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
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by satotak | 2007-04-25 11:57 | キルギス


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