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2007年 05月 31日

玄奘三蔵の足跡 -天山・イシククル湖・スイアーブ-

桑山正進著・訳「西域記-玄奘三蔵の旅」(小学館 1995)より:
高昌王の援助
仏教をあつく信じていた[高昌国王]麹文泰(きくぶんたい)は、玄奘が高昌にとどまって自分の先生になってくれるようさかんに要請したが、玄奘はこんなところでとどまるつもりは毛頭ないから、三日の絶食をして意思をまげなかった。

決意のかたいことを知った麹文泰は、母である張太后(ちょうたいごう)を証人として仏前で兄弟のちぎりをむすび、インドからの帰り道にも立ち寄って三年の間とどまって供養(くよう)を受けるよう約束させた。

そこで麹文楽は、玄装の出発に際していろいろな旅装をととのえてやった。
(一)衣類 僧侶としての衣装三十具。頭巾(ずきん)、手袋、靴、靴下などおのおの数点。
(二)旅費 黄金百両、銀銭三万、綾(あや)ぎぬ五百匹。
(三)身のまわりを世話する人 四人。
(四)人足 二十五人。
(五)馬 三十匹。

その上さらに臣下にエスコートさせ、[西突厥の]統葉護可汗(とうしょうごかがん)の王庭まで送らせた。高昌の西のクチャをはじめとして、通過する道筋の二十四国の王には、それぞれおおきな綾ぎぬ一匹と手紙、統葉護可汗には、特別に綾ぎぬ五百匹と果物を満載した車二台を用意した。添えた手紙には、
 「法師はわたくしの弟であります。仏法を求めて、インドへまいろうとしております。どうか可汗は、わたくしめと同様、法師にもまたあわれみをたれ賜(たま)わんことを」
としたため、玄奘を紹介して全面的援助を依頼した。

玄奘はたまたま高昌に行ったことで、支配者の絶大な援助をうけることになり、また高昌と西突厥とが婚姻をとおして密接な関係にあったことを通じて、その王庭まですっかり護送され、なんなく到着することが可能になった。

もともと、西突厥の勢力圏内に早くはいることをめざした玄奘であったけれど、道こそちがえ、西突厥の勢力下に無事はいることができたわけである。これを苦難のひとり旅とはいわない。

西突厥王の篤いもてなし
その西突厥は、ヒンドゥークシュの南のカービシー=カーブル国と親和関係にあったから、王庭からヒンドゥークシュの南まで、可汗の息のかかったところを護送され、またしても楽な旅であった。
統葉護可汗は高昌王から、かれの望むところの綾きぬや果物など膨大な贈りものをうけとり、玄奘に対する便宜もまた、これにしたがって絶大なものがあった。

すでにのべたように、統葉護可汗や西突厥に関する記録は『西域記』にはほとんどないので、『慈恩伝』にもとづいてかれらのことを記しておこう。
まず最初は、玄奘が統葉護可汗に会ったところである。

玄奘は高昌の歓信(かんしん)というひといっしょに、たくさんの荷物を馬につんで、大キャラバンをくんで天山山脈をだいぶ西側で越えた。北側に出ると、そこはイシク・クル。熱海(ねっかい)とよばれた一大塩湖である。『西域記』によれば、周囲は千里あまり、『慈恩伝』では千四、五百里という。東西がひろく南北はせまく両囲は山岳。諸川が流れ込み、湖水は青黒く、風がつよくなくても高い波が寄せ、魚類は多いけれども捕れないと、記されている。(注1)

ここをまわりこんで北西へ五百里行くと、チュー河河畔のスイアーブの町。いまのフルンゼから東へ四十キロほどである。この町のまわりに可汗はそのときいた。『慈恩伝』それを描写している。

スイアーブに到着し、突厥の統葉護可汗に出会った。
ちょうど狩猟中のことでもあり、馬がたくさん集まって盛観である。可汗(かかん)は緑色の綾織り筒袖の外套(がいとう)をはおり、冠はかぶらず絹のはちまきをし、髪を後ろにたれさげている。有力部族の長たち二百人あまりが、みな髪を編んで、錦の筒袖の上着を着、大可汗の左右をかこんでいる。
そのほかの兵士たちはみな皮衣(かわごろも)とかフェルトを着け、旗印をかかげて短い弓をもち、ラクダや馬に騎乗して、目のとどくかぎり数しれない。
玄奘と可汗ははじめてあいまみえることになった。可汗はとても喜び、
「しばらくさるところへ行くが、二、三日で帰るはずである。さきに本営に行かれよ」
とのこと。お付きの部下に玄奘たちを本営までおくらせ、旅装をとかせた。

三日たつと可汗は帰ってきた。法師をつれて可汗のテントに入ることになった。
可汗はおおきなテントに住んでいた。テントは金の飾りもので飾り、まばゆいばかり。大勢の部下が可汗のまえに長大な絨毯(じゅうたん)をつらねて二列になってすわり、みな錦の服を着て輝き、衛兵たちがずらっと後ろにたっている。
このありさまを見ると、遊牧の王ではあるが美を重視していることわかる。

法師はテントから三十歩のところにいた。可汗はテントを出て、ていねいに迎え、通訳を通じて慰労の言葉を伝えると、自分の座所にもどった。
突厥(とっくつ)は火をあがめているので椅子を使わない。椅子は木であり、木は火を宿すとおもっているので、敬遠し、床に布団を重ねて敷くだけである。そんなわけで法師のためには鉄製の折り畳み椅子を設け、そのうえに布団をおき、すわれという。

少したって、高昌から玄奘を送ってきた中国人の使者と高昌人の使者を引見した。かれらはテントにはいって、高昌国王の公式の手紙と手紙にはかならずつくことにきまっていた贈りものを渡した。
可汗は自分でこれを見てて、たいそうご満悦であった。使者たちをすわらせ、酒を出し、音楽をやらせ、可汗はなみいる部下たちや使者たちと酒宴をひらく。
葡萄(ぶどう)ジュースを特別に出させ、法師に捧げた。これからみなが自分たちで互いに酒をすすめあって飲みはじめ、酒杯はいりみだれ応酬し、夷狄(いてき)の音楽が弦楽器や打楽器でかわるがわるいろいろ演奏される。蕃族(ばんぞく)の音楽ではあるが、なかなか聞いてよし見てよし、こころを楽しませてくれる。
しばらくしてさらに食事となった。みな牛や羊の焼いたものと煮もののたぐいで、これらをみなの前にたくさんつみあげる。
法師には別につくったものをだしてくれた。コムギ粉のパン、米飯、ヨーグルトやミルク、氷砂糖、蜂蜜でつくったもの、葡萄などがそろっていた。食事がおわると葡萄のジュースをのんだ。

そこで可汗は、法師に仏の教えを説教するよう要請した。
法師は、十の善行(ぜんこう)を実践して生きとし生けるものの命を大事にしなければならないという根本から説きはじめた。
パーラミタという大乗の行法が解脱にいたるわざであるという点にまで説きすすんだ。可汗は両手をかかげて額をうち、喜びにたえないというふうで、教えをその心にうけたのであった。

こんなことで、ここに滞在すること数日。可汗は法師にいった。
「インドには行かないほうがよろしかろう。あそこは暑さきびしく、…」
という。法師は答えた。
「いまそこへ私が行こうというのは、仏のあとをたずね、その教えを慕いもとめたいとおもうだけです」
それではしかたがないということで、可汗は軍中に命令して、中国語と諸国語がわかるものをさがさせたところ、以前に長安で数年すごし、中国語がわかる青年がみつかった。すぐにこれを通訳官に任命し、またおおくの国書を作成し、かれに護送させてヒンドゥークシュ山脈の南のカーピシー国まで到達せしめることになった。
一方、綾ぎぬの緋(ひ)の法衣(ほうい)をひとつと、絹布五十匹を法師に布施(ふせ)し、可汗は群臣とともに十里ばかり見送ってくれた。


可汗は高昌の麹文泰から護送されてきた玄奘を厚くもてなしたあげく、通訳を正式に任命してヒンドゥークシュを越えたところまで護送してくれた。
伝記の文は簡潔にしか書いてないが、実際にはここからさきカーピシーまで、玄奘は可汗の勢力下でその力をかりて、なんなく通行したことを意味している。
ソグド地方のサマルカンドをへて南へと行き、ザラフシャーン山脈を越えて、アム河流域にはいった玄装は、可汗が長男にタルドゥシャドという官職をあたえて置いていたワル国でいったん旅装をとく。その長男に嫁していたのは、麹文泰の妹であった。

(注1) 『大唐西域記』によると、玄奨の西遊は恐ろしく苦難に満ちた旅であった。しかし、この国外脱出者の高僧としての噂はすでに西域の異民族の間にも伝わっていたらしく、玄奘は方々で歓迎されたり、援助の手を差しのべられたりしている。とは言え、言葉も判らず、人情も風俗も判らぬ国々を次々に経廻(へめぐ)って行くのであるから、その労苦のなみ大抵でないことは当然である。玄奘は高昌国、阿耆尼(あきに)国、屈支(くっし)国、跋禄迦(ばるか)国といった西域北道に沿った小国を通過し、天山へはいって行く。天山の一支脈である凌山を通過する時はたいへんであった。

 《国の西北より行くこと三百余里にして石磧(せきせき)を渡って凌山に至る。これ則(すなわ)ち葱嶺(そうれい)(パミール高原のこと)の北原、水多く東流す。山谷の積雪は春夏も合凍す。時に消泮(しょうはん)することありと雖(いえど)もついでまた結氷す。経途は険阻(けんそ)にして寒風は惨列なり。暴竜の難多くして行人(こうじん)を陵犯す。この途(みち)による者は衣を赭(あか)くし、ひさごを持ち、大声に叫ぶことを得ず。微(かす)かに違犯するあれば、災禍目のあたりに見る。》

こういった高い調子の旅行記である。暴竜の難が多いというその暴竜とは何のことであろうか。竜巻のことであろうか。しかし、風のことは風のことで別に書いている。
 《暴風奮発、沙を飛ばし、石の雨をふらし、遇(あ)う者は喪没し、生を全うすること難し。》

この凌山越えで、実際に玄奘は同行した従者や牛馬の多くを失っているので、必ずしも表現がオーバーであるとは言えないようである。惨憺(さんたん)たる苦難の泊りを幾つか重ねて、やっと凌山を越えると、玄奘はそこにイシククル湖の美しい湖面を見た。湖面が美しいのは一瞬のことで、どうしてひとすじ縄で行く相手ではなかった。勿論玄奘の頃はイシククルとは呼ばれていなかった。玄奘は大清池と呼んでいる。

 《山行四百余里、大清池に至る。あるいは熱海と名付け、また鹹海(かんかい)と謂(い)う。周千余里、東西長く、南北狭し。四面山を負い、衆流は交湊(こうそう)す。色は青黒を帯び、味は鹹苦を兼ねたり。……:竜魚難処霊怪はしばしば起る。ゆえに往来する行旅は禱(まつ)って以(も)って福を祈る。水族は多しと難も敢て漁捕する者なし。》

ここにはしばしば霊怪が起ると記してあるが、この霊怪なるものの正体もまた判らない。しかし、これを玄奘がいい加減なことを書いたとするわけにはいかない。他の記述は恐ろしいほど正確であるからである。イシククル湖が熱海と呼ばれているのは不凍湖であるためであり、鹹海と謂われていたのは水が塩分を含んでいるからである。

玄奘はイシククル湖畔を過ぎ、なおアラトウ山脈を越えたり、チュー川に沿ったりして、チュー盆地へ降りる。するとそこに突厥の都邑である素葉城[(スイアーブ)]があった。「清池西北行五百余里素葉水城に至る」。玄奘は簡単に記している。
素葉城の地は、現在のトクマク付近とされている。湖畔からトクマクまで都邑はなかったのである。烏孫の時代にあったその王都赤谷城のことはどこにも記されていない。漢の公主が王の妃として、更にまたその王の孫の妃として何年かを過した赤谷城は、玄奘の頃は影も形もなくなっていたのである。凌山の暴竜の為せる業か、あるいは大清池の霊怪の為せる業なのであろう。…
(井上靖著「西域物語」(新潮文庫 1977)より)
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by satotak | 2007-05-31 13:16 | キルギス


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