2007年 09月 07日
中野 進著「国際法上の自決権(普及版) [法律学講義シリーズ19]」(信山出版 1997)より: 自決権の主体は、「民族」又は「人民」なのであろうか。「人民」の定義、特に「人民」と「個人」との関係は、いかなるものなのであろうか。即ち、自決権は集団的権利なのであろうか又は個人的権利なのであろうか。仮に、集団的権利であるとするならば、その集団は、例えば特定の民族又は特定の言語集団などである必要があるのであろうか。 自決の原則を規定し、自決権成立過程の基礎ともいえる国連憲章においては、第1条第2項及び第55条で、「諸人民(peoples)」という文言が使用され、前文においては「すべての人民(all peoples)」という文言が使用されているが、… …以上、自決権に関する条約及び宣言などをみてきたが、この他にも、国連がその実践過程において、ナミビア人民のような植民地人民のみならず、南アフリカ共和国国民のような1国家内の国民も自決権を有していることを認めているということも考慮すれば、現在、国連及びその加盟国などがいうところの自決権の主体は、「すべての人民」、即ち『植民地人民及び1国家内の国民』.であると考えるのが妥当ではなかろうか (なお、自決権の主体に関する学者の見解は、…自決権承認の時期の問題とも関連して、必ずしも明確なものとはなっていないが、植民地人民のみならず国民も自決権の主体として考えられる傾向にあるといってもよいのではなかろうか)。 そうして、法理論的には、国民が1人という国家もあり得るのかもしれないが、実際には複数の国民・人民によって国家が構成されているということからすれば、「すべての人民」の自決権は、一般的には、集団的権利として考えられているといえよう。しかし、確かに、自決権行使の形態としては集団的権利として行使されるが、自決権を行使するのか否か又どのような形態で行使するのかということに関する最終的な個々の決定 (例えば住民投票又は議会の構成員を選出する投票) は個々人が行なうのであるから、自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民ではなかろうか。このことは、『自決権行使の法理論上の単位は個人』であるということを意味する。 「植民地支配下の人民にとっては、歴史的伝統的な個々人の人権は、そもそも彼ら人民にこのような自決権が認められなくては真実なものとならない。その意味で、植民地人民にとって、人民自決の権利は、すべての人権を真に人権たらしめる前提となる基本的な権利、いわば基本的人権中の基本権である。」とする高野教授の見解は、植民地人民に関してのものであるが、同様のことは、国民に関してもいえるのではなかろうか。国際人権規約共通前文は、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等の且つ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものであることを考慮し、これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認め」ているが、「自決権が基本的人権中の基本権」であるならば、なおさら、自決権は「人間の固有の尊厳に由来」し且つ自決権の法理論上の最終的な主体は個人としての人民であるということが認められてこそ、初めて「歴史的な個々人の人権は真実なもの」となるのではなかろうか。特に、,,東チモール問題及び西イリアン問題…のような問題の再発防止のためにも、住民の“代表”とされる者達による自決ではなく、個々人による自決を重視すべきであろう。即ち、確かに自決権の行使形態は集団的なものであるかもしれないが、前述の再発防止のためにも、少なくとも法理論上は、個人としての人民が自決権の主体であるという、いわば“歯止め”が必要とされるのではなかろうか。 従って、自決権を行使する際の単位は、特定の民族、部族、言語集団、宗教集団等であることは必ずしも必要ではなく、個々人の自決権に基づいて集団として一定の形態で自決権を行使すると決定した集団であればよいのではなかろうか。 特定の集団である必要はないということに関しては、宮崎教授も、国際人権規約共通第1条に規定されている自決権を行使できる「人民」の範囲に関する解釈として、「言語、習慣、種族などを共通にする『民族』『人種』などに限定されず、政治的に帰属を決定し、経済的・社会的・文化的発展を自由に共同に追求しようとする一定地域の人民であれば、自決権が認められると解される。このような解釈については、国内の分離運動を鼓吹し、国家的結束を弱めるものとして反対も予想されるが、真に自由な意思に基づくものであるかぎり、自決権は広く、どの人民にも認められるべきであろう。」と述べている。
by satotak
| 2007-09-07 20:02
| 民族・国家
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