2007年 10月 26日
NHK編著「新シルクロード 激動の大地をゆく<上>」(NHK出版 2007)より(筆者:矢部裕一): ◆中世シルクロードの都 …ウズベキスタン西部に位置し、世界遺産にも登録されているブハラは、中世シルクロードの面影を今も色濃く残している街です。… しかし、そうしたイスラム建築の遺跡以上に中世の雰囲気を濃厚に感じさせてくれるのが、ブハラの旧市街です。 普通の人々が今も暮らしている旧市街は、迷路のように入り組んだ細い路地の両側に白い壁がどこまでも続いていて、その中に入り込むと、急に静寂があたりを覆い、時間がゆっくりと流れていくように感じられます。 この旧市街にある人々の住む家は、およそ100年から150年前に建てられたものが多いと聞きました。 中を見せてもらうと、壁や天井にはおそらくイスラムに由来していると思われる色鮮やかな模様が描かれています。 こうしたこの地方の伝統的な建物は、私たちから見ればそのまま遺跡といってもよいようなものですが、その古い家でブハラの人々は当たり前のように毎日の暮らしを送っています。 ◆ブハラのユダヤ人 ブハラの強い日差しに照らされて反射する白い壁に沿って、ひと気のない路地をしばらく歩いているうちに、意外なものを見つけました。 ユダヤ教の礼拝所、シナゴーグです。 ブハラには昔から、そして今も、ユダヤ人が暮らし、コミュニティーを作ってきました。今でも、ブハラに住むユダヤ人が毎朝そのシナゴーグに集まり、礼拝を行っているといいます。 シナゴーグを見て意外と感じたのは、きっと私たちが、ブハラを中世におけるイスラム文化の中心地であったとする観光ガイド的な認識にとらわれていたからでしょう。… しかしブハラの人々にとってみれば、旧市街の片隅にシナゴーグがあることは何も意外なことではないはずです。何故なら、ブハラは何世紀も昔から、様々な土地から様々な民族がやってきては住み着いてきた、まさにシルクロード的な街だったからです。 ブハラは、パミール高原に源を発するザラフシャン川によって形作られる豊かなオアシスでした。東は中国、北はロシア、西はヨーロッパ、南はインドというように、長い歴史にわたってユーラシアの東西南北を結び、大陸を行き交うキャラバン隊の重要な拠点になってきました。 その結果、ユーラシアの各地から交易を通じて様々な民族がやってくることになったのです。 …そして、今もこの街に暮らす様々な民族こそ、ブハラがシルクロードの要衝だった何よりの痕跡といえるかもしれません。 イラン人、アラブ人、ロシア人、そしてユダヤ人。 ユダヤ人は、おもに13世紀頃、イランやアフガニスタン経由し、シルクロードをたどって中央アジアにやってきた交易商人の末裔といわれています。 ◆民族が共存する街 その昔、旧市街の中でユダヤ人は自分たちの居住区を作り、ウズベク人やタジク人などのイスラム教徒とは混住せずに暮らしていたといいます。 しかし、同じ旧市街の中でわずかに細い路地を隔てて共に暮らしていくうちに、いつからかお互いの文化や習慣が混じり合っていったようです。 ウズベク人やタジク人の女性は、伝統的に眉がつながってみえるような化粧をすることで知られています。ブハラでは、高齢のユダヤ人女性も、ウズベク人やタジク人と同じように眉をつなげる化粧をしています。若いユダヤ人女性でも、結婚式には同じように眉をつなげるのだと聞きました。 …もちろん宗教的なことはそれぞれお互いに大事に守っているし、イスラム教徒とユダヤ人が結婚することはないといいます。 それでも、ソ連時代の70年を経たせいか、今ではユダヤ人が住むエリアとウズベク人、タジク人などのイスラム教徒が住むエリアが、線引きできないほど混じり合うようになっています。 そして、お互いに隣人として普通の近所づきあいを続けています。… ◆ブハラを去るユダヤ人 しかし、ブハラで垣間見たユダヤとイスラムの共存の姿も、実はだいぶ前から状況は大きく変わってきていました。 ブハラのユダヤ人の多くが、街を去っているのです。 ブハラを去ったユダヤ人は、そのほとんどがイスラエルとアメリカに移住して行ったといいます。 かつて、ブハラにどのくらいのユダヤ人が住んでいたのか、その正確な数字を求めるのは難しいのですが、少なくとも2万人のユダヤ人がこの旧市街を中心に暮らしていたといわれています。そして、私たちがブハラを訪れた2006年時点で、ブハラに住むユダヤ人はおよそ150人ほどに激減していました。… いつ頃、ブハラからユダヤ人が去っていったのでしょう。 ユダヤ人の移住の大きな波は、1980年代以降、ふたつあったといいます。 ひとつ目は、ペレストロイカの時代である1980年代末です。 この時期、ペレストロイカによって、ユダヤ人がソ連からイスラエルやアメソカに移住することが、それまでより容易に認められるようになりました。そのため、ソ連に留まるより豊かな西側での暮らしを求めて、大勢のユダヤ人が移住していきました。 ◆ウズベキスタン建国とマイノリティー ふたつ目の移住の波は、ウズベキスタンが建国した1991年以降の数年間に起こりました。なぜ、この時期に再び大勢のユダヤ人が移住していったのかについては、いくつか理由が指摘されています。 ひとつには、経済的な理由があります。 独立後、ウズベキスタンもまた経済混乱に襲われていたため、もっと豊かで安定した生活が送れるところを求めて、ユダヤ人が移住していったといわれています。 もうひとつの理由として指摘されているのは、ウズベク人の民族意識の高揚がユダヤ人の移住の背景にあったということです。 ソ連が崩壊しウズベキスタンが誕生したことで、ウズベキスタンはウズベク人の国であるという認識が人々の間にゆっくりと浸透していきました。ウズベキスタン政府もまた、そうしたウズベク人の民族意識を高めるため、教育の現場などでウズベク人の民族の誇りを形成させるような歴史教育を行ってきました。 建国以降のこうした動きの中で、ウズベク人以外の民族は、自分たちがこの国ではマイノリティーになってしまったと感じはじめたといいます。 この感覚はとても微妙なもので、国がウズベキスタンになったからといって、あからさまな差別が急に行われるといったことは、少なくともブハラでは、ほとんどなかったといいますし、それまで隣人として親しく付き合ってきたウズベク人、タジク人とユダヤ人との人間関係も、ほとんど変わることなく続いていたといいます。 それでも、それまで同じソ連の国民として、まったく同じポジションにいた人々の間に、少しずつ段差のようなものが生まれ始めていったようです。 そして、この民族共存の長い歴史を持つブハラでさえ、ユダヤ人が住みづらいと感じるような空気が、かすかに少しずつひろがっていったといいます。 ◆ユダヤコミュニティーの崩壊 …B&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)と呼ばれる小型のホテルが、旧市街の至るところにできていました。 中を見せてもらうと、100年前の伝統的な家の装飾をそのまま残した、雰囲気のある造りになっています。泊るのはブハラを訪れる観光客で、そうした歴史を感じさせる部屋が観光客の人気を集めているといいます。こうしたホテルのほとんどが、元はブハラを去っていったユダヤ人の家なのだそうです。 本来、普通の人々の普通の生活の場だったブハラの旧市街も、こうやって櫛の歯が欠けていくように、少しずつ観光地とされていくのかもしれません。 何人ものユダヤ人の話を聞いて歩くうちに、分かってきたことがありました。 今、ブハラに残っているユダヤの人々も、そのほとんどがいずれブハラを去ろうと考えているのです。まだブハラに留まっているのは、意識的に故郷を離れないようにしているのではなく、主に経済的な理由で仕方なく残っているのであって、家が売れ次第、あるいはお金が用意でき次第、すぐにでもイスラエルやアメリカに移住したいと考えている人がほとんどです。 彼らに、どうして移住したいと思っているのか、その理由を尋ねると、ここまでユダヤ人の数が減ってしまうと、ブハラはもうユダヤ人の暮らす場所ではなくなってしまったから、という答えが返ってきました。 長い歴史の中で綿々と続いてきたブハラのユダヤ人のコミュニティーは、すでに崩壊しつつありました。そして、その流れが逆戻りすることはおそらくありえないだろうと、ユダヤの人々の話を聞いていると、思えてきました。… ◆失われる共存 そう遠くない将来、ブハラのユダヤ人はおそらく一人もいなくなるでしょう。 それが、ブハラに残るユダヤの人々の話を聞いて歩いた私たちの率直な感想です。 数世紀にわたって、イスラムとの共存を当たり前のように実現してきたブハラのユダヤ人が、今ゆっくりと、静かに、人知れず消えようとしています. シルクードによってもたらされた豊かな世界が、ここでは失われようとしているのでした。 それまでソ連の一部だったウズベキスタンがひとつの国として独立したことで、新たに国境が生まれ、ウズベキスタンという国家の独自の歴史が語られ始め、その民族の誇りが強調されていきました。そうやって国の輪郭がせり上がっていったことによって、シルクロード的世界が逆に寸断されてしまったようです。 ユダヤの人々が見えない境界線によって隔てられ、移住を余儀なくされているよう思えてきました。 かつての豊かなシルクロード的世界を象徴していたブハラのユダヤ人が、今、終焉を迎えようとしています。
by satotak
| 2007-10-26 11:41
| 民族・国家
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