テュルク&モンゴル

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2008年 03月 13日

トルグート部の帰還 -ジュンガル滅亡後のジュンガリア-

宮脇淳子著「最後の遊牧帝国」(講談社 1995)より:

トルグート部とロシアとの同盟関係
1755年のジューンガル征伐の際、清軍は最初は無血でイリに到達したが、ホイト部長アムルサナーの叛逆とハルハのチングンザブの蜂起のあと、各地でジューンガルの残党が清軍を襲撃する事件が起こった。清軍がこれらの残党を掃討し続けている間に、天然痘が大流行し、オイラトの人口は激減した。なかでもジューンガルの人びとはほぼ全滅したという。イリ地方は、ほとんど無人地帯になった。

これを知ったヴォルガ河畔トルグート部長ウバシは、1771(乾隆36)年初め、配下の3万3千家族を引き連れてヴォルガ河畔を出発し、カザフ草原を過ぎてバルハシ湖沙漠を遠回りし、7ヵ月後にイリの故郷に到って、清の乾隆帝の保護を求めた。その年は暖かく、ヴォルガ河が凍結しなかったので、ヴォルガ右岸(西方)のカルムィク(トルグート部とドルベト部とホシュート部など) 1万数千家族は、渡河できずに取り残された。その子孫が、いまのロシア連邦内のカルムィク共和国の人びとである。

ここで、1630年にヴォルガ河畔に移住(注1)したあと1771年にそこを去るまでの、140年にわたるトルグート部とロシアの関係について、簡単に説明しよう。
アジアの奥地からやってきて、ヴォルガ河畔の草原を支配した新しい遊牧民カルムィク(トルグート部を中心とするオイラト)は、モスクワ政府にとって最初歓迎されざる客であった。モスクワ政府がようやく懐柔したヴォルガ左岸(東方)のノガイ・タタルは、カルムィクに駆逐されて、ヴォルガ河を渡ってクリム・タタルに合流したからである。しかし、1654年クリムとオスマン・トルコが同盟すると、モスクワ政府の政策は、カルムィクの軍事力を利用する方向に転換した。

モスクワは、カルムィクにロシアの町での交易の許可を与え、クリムを攻撃する見返りに贈物や報酬を約束したが、カルムィクがクリムの配下に入ったノガイを襲撃するのは、かれら自身の領民や牧地拡大のためだった。カルムィクたちはその後ずっと、報酬を受け取っても、モスクワの希望通りに行動したりはしなかった。

ヴォルガに移住したホー・オルロクの曾孫アユーキは、父プンツクの死後1669年にトルグート部長になった。かれは、1673年にモスクワ政府と同盟を結んだ。ウクライナ領有をめぐる紛争が激化していたので、ロシアはカルムィク騎馬隊の従軍を必要としたのである。モスクワ側から見れば、この同盟でアユーキは臣民として忠誠を誓ったことになったが、アユーキにすれば、ライバルの諸首長に勝って、多数の領民支配をロシアに公認されたことになった。

1677~83年に及ぶロシア・オスマン会戦の間、カルムィクはロシア側に立ったが、オスマンとクリムが多くの贈物を携えた使節をアユーキに派遣し続けたので、1683~96年アユーキは中立を守った。この間、アユーキ自身はモスクワとの独占的関係によって莫大な富を蓄え、他のカルムィク首長とは比較にならない強力な権力を手中にした。1697年、アユーキとロシアのゴリツィン公爵は、対等な権力者間の新たな同盟条約にサインした。…

トルグート部とジューンガルとのライバル関係
…1641年頃生まれたトルグート部長アユーキは、ジューンガル部長バートル・ホンタイジの孫であった。つまり、センゲとガルダンの甥であり、ツェワンラブタンの従兄弟であった。ダライラマ五世の摂政サンギェ・ギャツォは、1694年にジューンガル部長ツェワンラブタンにホンタイジ号を授けたあと、1697年ガルダンがアルタイ山中で死ぬ直前、ダライラマ六世の名のもと、なんとトルグート部長アユーキに、ダイチン・アヨシ・ハーンの称号を授けたのである。

ジューンガルのガルダンは、母方ではあるが、それでもチンギス・ハーンの弟の子孫と見なされたグーシ・ハーンの孫である。トルグート部長アユーキのハーン号には、チンギス統原理からすれば、もはやなんの根拠もない。ジューンガルのガルダン・ボショクト・ハーンの甥というだけだった(注2)。チベットのダライラマ政権すなわち摂政サンギェ・ギャツォは、ヴォルガ河畔で異教徒たちに君臨し、大勢力を築いていたアユーキを、遊牧民の間で信仰されていたチンギス統原理を無視して、全オイラトのハーンと承認した。ゲルク派にとって、ヴォルガ河畔のオイラト人は、最も遠隔地にいる、自派の有力な施主であったからだろう。

一方のアユーキにとって、このダライラマ政権によるハーン号授与は、周りのチンギス・ハーンの子孫のイスラム教徒たちに対して、実に有効な切り札となった。…

ホンタイジ号を有するジューンガル部長と、ハーン号を有するトルグート部長は、その後さらにいっそう、オイラト部族連合の盟主の地位を争うライバルになった。…

1698年、アユーキは、自分の従兄弟のアラブジュルを団長とする大使節団をチベットに派遣した。チベットからハーン号を授かったアユーキは、全オイラト統合の意図を持ったのである。ところが、父と対立していたアユーキの息子の一人サンジブが、自分の領民1万5千家族を連れて、ジューンガルのツェワンラブタンのもとへ走った。…およそ6万人の遊牧民がトルグート部からジューンガル部へ移ったせいで、軍事的にも政治的にもツェワンラブタンの勢力が優勢になり、アユーキは、ジューンガル制圧と全オイラト統合をあきらめざるを得なくなった。

一方、チベットに派遣されたアラブジュルは、ダライラマを訪問して帰国しようとしたところ、ツェワンラブタンとアユーキの間が不和になり、ジューンガルを通過できなくなった。アラブジュル一行は、やむなく清朝皇帝を頼って行き、嘉硲関(かよくかん)外に牧地を与えられた。かれらトルグート部は、1731(雍正9)年にエジネ河畔に牧地を移されて、エジネ・トルグートとよばれるようになった。…

ロシアと清朝のトルグート部への対応
アユーキ・ハーンが1724年に死んだ後、…継承争いのあと、アユーキの長男チャタドルジャブの息子ドンドクダシがトルグート部長となった。

ロシアの干渉のせいで長びいた内乱と、ロシア人の入植による遊牧地の減少の結果、カルムィクのなかでは、家畜を失って貧窮化し、漁師になる者やロシア正教に改宗する者や、子供や自分をロシア人に売る者が出てきた。しかも漁業権と塩はロシア人が握り、カルムィク人をロシアの法律で裁いた。ロシアは、カルムィクの経済力と軍事力が衰退したので、新たな遊牧民カザフとの関係を強化していた。このような中ですでに1747(乾隆12)年、トルグート部長ドンドクダシはロシアを去ろうとしていた。…

1761年、ドンドクダシの息子ウバシが17歳で父の後を継いだ頃、ヴォルガ河沿いにウクライナ人、ロシア人、ドイツ人の入植が進み、カルムィクは水のない荒れ地に追いやられた。現地の事情を知らないイェカテリナ二世は、カルムィクの抗議に耳をかさず、モスクワで地図を見ながら、カルムィクが遊牧する土地はたくさん残っていると断定した。その上、オスマン・トルコとの戦争に、応じるのが無理な数のカルムィク騎馬兵の参加を命じた。

すでに、ジューンガル部滅亡の情報が、ヴォルガ河畔にも届いていた。イリのオイラト人口が激減したことを知ったトルグート部は、今度こそ絶望的な状況のヴォルガ草原を脱出して、父祖の土地イリに向かった。ロシア配下のコサックやバシキル人や、カザフやキルギズなどの追跡と攻撃を受け、7ヵ月に及ぶ困難な逃避行で10万人を失った末、ウバシ率いる7万人のトルグートは、1771(乾隆36)年にイリ地方に帰還したのである。

乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部がロシアを離れて自発的に清朝に帰属したことを、ことのほか喜んだ。乾隆帝はみずから、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。そのなかの、頭韻を踏んだ四行詩を、満洲語原文から翻訳して紹介しよう。

〈このトルグート部というもの、
これらの先のハンはアユキであった、
ここに至ってウバシはオロス(ロシア)に背いて、
エジル(ヴォルガ)の地から降って来た。

懐柔したのでもないのに皇帝の徳化を慕ってきたのである、
手厚く恩を及ぼしあまねく慈しむべきである、…〉

清朝は、1636年、満洲人、モンゴル人、漢人の三種族から推戴された共通の皇帝が、チンギス・ハーンの孫のフビライ.ハーンが建てた元朝から統治の正統を受け継いで誕生した国家であった。ジューンガル征伐ののち、思いもかけずロシアからトルグート部が帰ってきたことは、清の徳を天下に知らしめる慶事であった。乾隆帝は、尊敬する祖父康煕帝も果たせなかった、全モンゴルの帰順という偉業を成し遂げたことに、心から満足したのである。

一方、カルムィクに脱走されたロシアの方だが、当時イェカテリナ二世が進めていた拡張主義政策に、カルムィクだけでなくロシア南方のさまざまな集団が不安を感じていた。ヴォルガ・カルムィクの大集団が、ロシア人に妨害されずに逃亡したことで、ロシアの辺境守備隊の無能ぶりと人力の不足が暴露された。カルムィクの背反に勇気づけられたクバン人やカバルダ人は、もはやカルムィクの援助のない草原の小規模のロシア守備隊を盛んに襲撃し、ロシアの町に対するカザフの掠奪も増加した。バシキル人は反抗的になり、伝統的な自由が脅かされていると感じたけれどもカルムィクと違って行く先のないヤイク・コサックは、ロシア政府に対して武装蜂起した。カルムィクが脱走した2年後、南ロシアすべてが、プガチョフの乱(プーシキンの小説「大尉の娘』の題材となった)として有名な大暴動の炎の中にあった。

(注1) トルグート部のヴォルガ河畔への移住
後世ヴォルガ河畔で書かれた年代記『カルムィク・ハーン略史』は、1630年のトルグート部の移住の背景をこのように伝える。

四オイラトで乱となった時、トルグートのタイシであったホー・オルロクという者が、「そのように互いに殺し合ってアルバト(属民)たちが尽きるよりは、遠い土地に行って異姓のウルスの近くに住んで、かれらと戦い、戦利品を取って暮らす方がましになろうぞ」と考えて、1618年にカスピ海の方に心利いた人を遣わして、その土地は主がないと確かに知って、1628年に自分のアルバト(属民)のトルグート、及びホシュートとドルベト5万家族を連れて、6人の息子を従えて、もとの牧地を捨てて、日の沈む方向に出発した。ジャイ(ウラル)河に到らないうちにエンバ河の傍らに牧地を持つ一群のタタルを打ち負かし、ジャイ(ウラル河)を渡ってノガイ、キタイ、キプチャク、ジテシェンというタタル人たちを征服して、1630年にイジル(ヴォルガ河)に到った。

(注2) オイラト部族連合系図

by satotak | 2008-03-13 12:00 | 東トルキスタン


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