テュルク&モンゴル

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2008年 03月 21日

イリ帰還後のトルグート

モンゴル国立中央図書館蔵『トルグート王統記』について」(宮脇淳子 2007)より:

ハズルンドが見たトルグート
…20世紀初めに新疆トルグート部を訪ねた、デンマークの有名な探険家ヘンニング・ハズルンド・クリステンセン... 彼は、1927-30年、スウェーデンの大探検家スヴェン・ヘディンが統率した中央アジア科学探検隊の一員になった。1928年から29年にかけて、ハズルンドは、新疆ウルムチの探検隊本隊から分かれて一人で天山山脈中のトルグートの牧地を訪れ、そこで一冊の古文書史料に遭遇したのである。…

…ハズルンド著『蒙古の旅』(内藤岩雄訳)の記述を利用しながら見てみよう。

1928年9月、ハズルンドはモンゴル語のできる二人の支那人従者とともに、支那官憲に気取られないよう、新疆ウルムチを出発した。トルファン盆地から山中に入った三日目、毛皮の帽子とコザックの軍服を着た二人のトルグート人が彼を出迎えた。彼らはウルムチから付いてきていたのである。一行はカラシャール(焉耆)に通ずる大道路を避けて、天山山脈の裾野にわけ入った。山肌を進み、やがてホシュート部の族長の野営地に到着した。おそらく小ユルドゥズ渓谷であると思われるこの一帯で遊牧していたホシュート部は、1771年にヴォルガ河畔からトルグート部とともに帰還した部族であった。まだ若いホシュート部族長の夫人はトルグート部族長の王女で、彼女の弟が、将来トルグート部を継承するはずであった。

この地でホシュート部の従者も加わって騎馬行列のようになった一行は、高い山の窪地で野営し、さらに峠を西に進み、渓谷を降り、渓流が大河となる低地の草原に出た。大ユルドゥズ渓谷と思われる。突然、トルグート部の指導者、テイン・ラマの冬の館邸である純白の町が出現した。これが、エレゲトのトルグート城であった。頂上に銃眼を設けた高い城壁に囲まれ、衛門だけが支那式で、あとはチベット(西蔵)様式の建物であった。…

…ハズルンドは1929年の新年、摂政(テイン・ラマ)の冬の館邸エレゲトから北へ一日行程のシャラ・スム(黄色い寺)廟を訪ねた。シャラ・スムは、広々とした谷間の南斜面に建てられた、九つの寺堂から成る、大建築物であった。一万五千いたラマ僧を、セン・チェン(テイン・ラマ)は摂政になったあと、三分の二以上減らした。仏教の教義に精通したものか美術工芸に堪能な者以外は、遊牧民生活に戻すために送り還したのである。

寺院には立派な図書館が付属していた。書籍の数は莫大であり、ハズルンドの時間は限られていたので、書籍の書名と内容に知悉しているラマたちに質問するだけにとどめなければならなかった。文庫はラマ教の寺院にありふれている西蔵の経書のみから成っているように思われたが、ついに住職との話で、トルグートの歴史家によって幾代にもわたって編纂せられた「トルゴト・ラレルロ(トルグートの起源)」と題される古文書の存在することがわかった。この著述は他の多くのトルグートの写本と同様に、この種族によって殆ど宗教的畏敬を以って見られていて、ただ選ばれた少数の者ばかりがこれを保管した楼閣に出入りすることが出来た。…

テイン・ラマの運命
テイン・ラマは…トイン・ラマ・ルーザン・チェレン・チュムベルと言い、中国側では「多活仏」と記される。彼は1890年、トルグート第五代ハーン、ブヤン・チョクトの第四子として生まれた。ヴォルガ河から帰還した旧トルグート部長ウバシ・ハーンから数えて七代目の直系の子孫であっが、チベットのセン・チェン活仏の化身と認定され、1897年、七歳でチベットに行き、戒を受けて修行し「トイン(沙弥)・ラマ」となった。

一方、トルグート部族長の方は、1891年ブヤン・チョクトが病気で亡くなると、多活仏の兄である長男ブヤン・モンケが第六代ハーンに即位した。辛亥革命後の1917年、ブヤン・モンケが突然死に、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。当時の新疆の実力者、楊増新(新疆都督)は、未亡人のセルジブジドにトルグート事務の処理を命じたが、実権は多活仏の手中にあった。1922年セルジブジドが亡くなると、北洋政府国務院は、多活仏が摂政となってハーンの事務を行うように命じた。…

1932年、新疆省政府に対する反乱運動が新疆の回教徒の間に起こったとき、省主席(金樹仁)は反乱の抑圧策について相談するためと偽って、セン・チェン(トイン・ラマ)をウルムチに招いた。セン・チェンは彼の有力な首領たちに取巻かれて到着したが、なんらの相談もなされなかった。というのは、第一日の饗宴の後、トルグートたちが省主席の衛門で座って茶を飲んでいたとき、主席は客の全部を彼の部下に背後から射撃させたからである。…

イリ帰還後のトルグート部
乾隆帝は、オイラトの一部族トルグート部が、ロシアを離れて自発的に清朝に帰属した(1771年)ことを、ことのほか喜び、自ら、トルグートの来帰を題材とした三篇の詩文を作った。…

乾隆帝は詔を発し、トルグート部を新旧二部に分け、それぞれジャサク(旗長)を設けた。1630年ヴォルガ河畔に移住し、今回イリの故郷に戻ったトルグート部は、「ウネンスジュクト(真の信仰を持つ)旧トルグート」と名づけ、十部に分け、ウバシに管轄させた。ウバシはハンとなり、以下の王公は、モンゴル各部と同様、それぞれ、親王、郡王、ベイレ(貝勒)、ベイセ(貝子)、公、一等タイジ(台吉)に封じられた

一方、ジューンガル帝国の構成員であって、1755年に清軍がイリを攻めた時にヴォルガ河畔に逃げ、今回再びイリに帰ってきたトルグートを、乾隆帝は「チンセトキルト(誠の心を持つ)新トルグート」と名付け、首長のシェレンを郡王に、他の一人をベイセに封じた。シェレン率いる新トルグート部は、おそらくジューンガル帝国崩壊後、ロシアに逃げてヴォルガ・トルグート部に合流したとき、そこで「新トルグート」と呼ばれたのであろう。…

さらに乾隆帝は、翌1772年に彼らに牧地を賜った。…彼らに与えられた牧地は、…すべてイリ将軍の統括下にあった。

1783年になって、乾隆帝の詔により、旧トルグートは東西南北の四路に分けられることになり、四人の盟長と三人の副盟長が置かれた。新トルグートは左右二翼に分けられ、正副各一人の盟長が置かれた。…

旧トルグート南路・ハーン旗ジャサク、ジョリクト・ハーンであったマハバザルは、1852年に亡くなり、息子ラトナバザルが後を継いで、1857年にブヤン・オルジェイトと改名した。同年、ブヤン・オルジェイトは、ヤンギサールその他の地方における盗賊を掃討するのに功があったことを清から賞せられ、ウネンスジュクト盟の副盟長の地位を与えられた。しかし、1864年に勃発したムスリムの大反乱(同治の回乱)により、彼はイリの牧地をことごとく失ってウルムチに逃げてきた。京師(北京)に行って皇帝に謁見したいという願いが聞き入れられ、1868年、ブヤン・オルジェイトは北京に赴き、清の同治帝に拝謁することができた。翌年、ウネンスジュクト盟長に賞せられ、さらに1872年には御前走行を命ぜられた。ブヤン・オルジェイトは1876年に病没し、息子のブヤン・チョクトが後を継ぎ、父のハーン号と盟長を引き継いだ。…

ブヤン・チョクト・ハーンは1891年に病没し、長子ブヤン・モンケが跡を継いだが、盟長の事務はその祖母が取った。1896年に今度は、盟長とジャサクの事務をブヤン・モンケの母が取ることになった。1902年、ブヤン・モンケが18歳になったので、ようやく自ら印務を取るようになったとある。夫人が摂政になる伝統があったらしい。

ブヤン・モンケの死後(辛亥革命後の1917年)、その子マンチュクジャブがわずか二歳で位を継いだ。マンチュクジャブの息子、ハーン・ゴンボ・デジドは、ゴンボ・ダンジンという名前であるが、現代中国の研究書の系図にも名前が掲載されているから、少なくとも戦後まで生きていたことは間違いない。…

現モンゴル国西部のホブド一帯にはかなりの数のトルグート人が住んでおり、もともとアルタイ山中のブルガンにいたという。彼らの言うところでは、毛沢東とスターリンの間で、新疆とモンゴル人民共和国の国境線が一夜にして引かれることになった。このとき、あわててアルタイ山脈を越えてこちら側に来たのが自分たちで、山の向こうに留まった同族が新疆トルグート・モンゴルであるという。…

by satotak | 2008-03-21 13:12 | 東トルキスタン


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