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テュルク&モンゴル

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2008年 04月 10日

東トルキスタン共和国時代のジュンガリア

王 柯著「東トルキスタン共和国研究」(1995 東大出版会)より:


東トルキスタン共和国支配地域 (1945年9月現在)
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共和国政府の大ウイグル主義的傾向
新疆では、五つのトルコ系イスラム民族があり、それはウイグル人・カザフ人・キルギス人・ウズベク人とタタール人である。東トルキスタン共和国政権には、各トルコ系イスラム民族はみな自分の代表をもっていた。たとえば、政府王席のイリハン・トレはウズベク人であり、副王席アキムベグ・ホジャはウイグル人であり、教育省長官アビッブ・ヨンチはタタール人であり、民族軍の副指揮官イスハクベグはキルギス人であり、遊牧業省長官オブリハイリ・トレはカザフ人であった。たしかにモンゴル人の政府委員もいたが、それはいかなる実際の職にも就かず、結局「民族平等」の飾り物にすぎなかった。このような政府委員会メンバーの民族構成は、東トルキスタン共和国がトルコ系イスラム諸民族を主体とする民族国家であることを示している。

東トルキスタン共和国の指導者たち
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しかし、同じトルコ系イスラム民族同士であるにもかかわらず、ウイグル人、ウズベク人、タタール人らオアシス農耕業・商業など同じ生産様式を有するトルコ系イスラム住民は、草原遊牧業を営むカザフ人に対して、政治的な民族差別が設けられていた。

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東トルキスタン共和国領内の総人口は、70万5148人である。そのうちカザフ人は約52.1%、ウイグル人は約25.3%を占めている(表9-1)。ところが、東トルキスタン共和国指導部の構成は、必ずしもこの民族構成を反映していなかった。1944年11月12日に設立された東トルキスタン共和国の臨時政府委員会の17人の委員のうち、ウイグル人が10人、ロシア人が二人、タタール人が二人、ウズベク人が一人、カザフ人が一人、モンゴル人が一人であった(表5-1を参照)。たんなる人数と職務の面からみても、東トルキスタン共和国政府は、主にウイグル人によって構成されていることがわかる。

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新疆のウズベク人とタタール人の人数は非常に少ない。1944年の新疆民政局の調査によれば、当時の新疆省総人口のうち、ウズベク人はわずか0.62%、タタール人はわずか0.14%を占めているにすぎない。にもかかわらず、東トルキスタン共和国主席はウズベク人であり、また政府の要職についているタタール人の政府委員も二人いた。それに比べ、現地人口の過半数を占めているカザフ人の政府委員は、わずか遊牧業省長官に任命された一人であった。ここから、カザフ人が東トルキスタン共和国の政策決定にほとんど影響力をもたないことが、想像できるであろう。

1944年11月12日以降、九人の新しい政府委員が任命された(表9-2)。監察委員会副委員長に任命されたタタール人のワカシ・ハジ、ソ連から軍を率いてきたロシア人のパリノフとキルギス人のイスハクベグ、和平交渉の代表に任命されたウイグル人のエホメッドジャン・カスミを除き、タルバハタイ区・アルタイ区が相次いで東トルキスタン共和国の勢力範囲に入ってから、五人のカザフ人政府委員が任命された。しかし五人のうち、一人は着任が不可能で、三人は地方の責任者であり、残った一人は東トルキスタン共和国の首都クルジャにいたが、いかなる実際の職務にも任命されなかった。つまりいずれも東トルキスタン共和国の政策決定集団に入れられなかった。東トルキスタン共和国において、ウイグル人・ウズベク人・タタール人の政治的優位性に対し、カザフ人がむしろ被支配民族の立場に立たされた理由は、二つ挙げられる。

まず指摘すべきなのは、カザフ人自身の東トルキスタン民族独立運動に対する情熱が、ウイグル人・ウズベク人・タタール人のそれほど強くなかったことである。歴史的にも、アルタイ区とイリ区とは別々の行政単位であり、ウイグル人が多く住むクルジャは、いかなる時代においてもアルタイ・カザフ人の行政的中心とならなかった。本来、東トルキスタン民族独立運動はウイグル人が主体である運動であり、カザフ人には東トルキスタンという意識はなかった。アルタイ区あるいは新疆北部のカザフ人地域は、むしろ「東トルキ.スタン共和国」の時代にはじめて「東トルキスタン」の領域に含まれるようになった。そのため、東トルキスタン共和国に合流してからも、アルタイ区はイリ区にある共和国政府とは、あまり関係しなかった。

しかし、もっとも重要な理由は、ウイグル人、ウズベク人、タタール人のカザフ人に対する民族差別思想にあった。同じトルコ系イスラム住民といっても、実際はカザフ人とウイグル人・ウズベク人・タタール人とのあいだには、大きな文化的隔たりが存在している。ウイグル人・ウズベク人・タタール人のあいだには、オアシス農耕業・商業など同じ生産様式を共有することによって、民族的文化的違和感が非常に希薄であった。しかし一方でウイグル人・ウズベク人・タタール人は、草原遊牧業を営み、彼らとまったくちがう文化構造と社会構造をもっているカザフ人に対し、むしろ文化・経済の側面で差別をつけている。このような差別主義思想は、共和国の行政にも反映されていた。

1946年4月14日の第262号政府決議は、厳しい口調で次の事項を決定した。「一、財政省計画局によるアルタイ区の32万1360元の予算を批准する、二、その使い道について、アルタイ区官庁としては、厳格に審査し、使用状況を機関の首長と会計人員によって共和国銀行に報告しなければならない、…」。決議の日付から、…1946年度の予算であったとわかる。これをアルタイ区で5000万元の「勝利国債」発行を命じた1945年8月22日の第85号政府決議と考え合わせると、予算の金額はあまりにも小さかったと実感せざるをえない。

アルタイ区財政局長ラティプ・ムスタファが当時クルジャにいたため、この金は後に彼によってアルタイ区に運ばれたかもしれない。しかしここで注目すべきは、ラティプ・ムスタファの「クルジャの旅」がアルタイ・カザフ人分裂の大きな引き金となったことである。ラティプは5月にアルタイに帰ってきてからまもなくオスマン・イスラムのもとへ走り、そこから、オスマン・イスラムがチンギリ県、コクトカイ県、ブルルトカイ県において、本来共和国政府によるはずの徴税を独自に開始し、アルタイの町にあるアルタイ区政府、そしてクルジャにある東トルキスタン共和国政府との対決姿勢をみせはじめた。…

オスマン・イスラムの離反は、たんに民族的な要素によるものとは考えられない。そのもっとも重要な理由はオスマン・イスラムの反ソ感情である。…しかし、ラティプ・ムスタファがクルジャから帰った後ただちにオスマン・イスラム自らが徴税しはじめたことを考えると、ラティプ・ムスタファがクルジャで体験したカザフ人に対する経済的な差別が、オスマン・イスラムを離反に走らせた一つの要因ではなかと言わざるを得ない。

カザフ人 オスマン・イスラム
…ソ連が領内のトルコ系イスラム住民とイスラム教に対して弾圧策を取っていたため、東トルキスタン共和国のトルコ系イスラム住民のあいだには、ソ連に反感をもつ人びとが少なくなかった。旧政権と戦った当初はソ連の支援を受けていた一部の民族指導者にも、民族の解放を達成した後、東トルキスタン共和国におけるソ連の横暴に対して不満が噴き出した。アルタイ・カザフ人指導者オスマン・イスラムの場合はその一例であった。

オスマンは最初からアルタイ・カザフ人の反政府運動を指導してきた人物であり、カザフ人にオスマン・バトル(オスマン英雄)と呼ばれていた。しかし1945年9月にアルタイ区の東トルキスタン共和国政権が樹立された際、アルタイ騎兵連隊長・警察局長・各県長など重職に就いたのは、オスマンの側近ではなく、ソ連からきた人物と親ソのカザフ人であった。10月に中国国民政府との和平交渉がはじまってから、内政干渉という口実を与えないため、ソ連はかつてカザフ人ゲリラ・グループに支援したソ連製武器を強引に回収した。この二つのことはオスマンの強い不満を引き起こし、彼はアルタイ区の知事に任命されてからも、しばらく就任しなかった。

オスマンの反ソ感情は、彼の強い宗教信仰心につながる。30年代にソ連から新疆に亡命してきた一人のカザフ人ウラマーが、オスマンに「ソ連が宗教を滅ぼす」と教えたことが、オスマンに大きな影響を与えたとも言われる。オスマンの反ソ感情は、またカザフ人の反ソ志向にもつながる。オスマン自らの話によれば、ソ連がかつてカザフスタン共和国のカザフ人に対して残酷な鎮圧を行ったため、新疆のカザフ人は本来反ソ的であったという。そのため、アルタイ区が東トルキスタン共和国の一部になると、オスマンの複数の部下は、早くも国民政府に降伏した。

やがて和平交渉がはじまり、政府部門とアルタイ騎兵連隊にいたソ連人は撤退した。その後、1945年11月4日にオスマンはアルタイの町に行き、アルタイ区知事に就任した。そこで、彼はシャリーア法の遵守を要求し、「礼拝しない者に50の鞭打ち、断食を行わない者に100の鞭打ち、酒を飲む者に30の鞭打ちの刑を処するべき」との命令を下した。それまでとはまったく異なる統治策をとったため、オスマンは親ソ的カザフ人と衝突し、1946年3月19日にアルタイの町を去り、コクトカイ県で自ら軍を組織し、さらに5月からアルタイ区東部のチンギリ、コクトカイ、ブルルトカイの数県において独自に徴税を開始した。

1946年5月には、ソ連のタングステン採掘隊が、盛世才と1940年に結んだ協定に基づいてオスマンの根拠地コクトカイ県に入り、採掘しはじめた。オスマンは、「私は我が領土、我が宗教を侵略するあらゆるものに、いかなる道をも開かない」と、それを武力で駆逐するよう強く主張し、親ソ的アルタイ区副知事・アルタイ騎兵連隊長デレリカンはこれに反対した。アルタイ・カザフ人の有力者たちは、オスマンが住むク・ウェ地方に集まって対応を討議したが、結局共通の認識がみつからず、アルタイ・カザフ人はついに親中国国民政府と親ソ連の二つのグループに分裂した。


(「中央ユーラシアを知る事典」(平凡社 2005)より)
オスマン | Osman, Ospan[カザフ] | 1899ころ~1951
1940年代に新疆で活動したカザフ人の首領.
盛世才政権は,アルタイのカザフ人に対し遊牧社会の改変を強制し,有力者を圧迫した.1940-41年の反乱は鎮圧されたが,43年のオスマンとダリルカンを指導者とする反乱は44年にかけて勢力を拡大した.
一方,44年8月にイリ地区で勃発したテュルク系ムスリムの反乱は,11月には東トルキスタン共和国の樹立へと進んだ.この反乱で組織きれた〈民族軍〉はアルタイにも進出し,ダリルカンと協力して承化(現アルタイ市)を攻略した.45年,アルタイ地区は反乱勢力の手に帰し,オスマンは地区専員に任ぜられた.46年,イリの反乱者と国民党政府との和平協定により新疆省連合政府が成立した後,オスマンはしだいに国民党に接近した.それにより国民党側はイリ反乱勢力の分断を図った.
49年,国共内戦の最終段階で中国西北部に進攻した人民解放軍は,省政府主席ブルハンの要請に伴い新彊に進駐した.アルプテキンら国民党系のウイグル人活動家がトルコに亡命したのに対し,オスマンは中国領内で抵抗を続け/が,人民解放軍に捕らえられ,処刑された.
政治的傾向は必ずしも明確でないが,アルタイ地域のカザフ人としての領域意識が濃厚であったとする評価もある.   (筆者:新免康)

by satotak | 2008-04-10 21:39 | 東トルキスタン


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