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2007年 02月 27日

マレーシアのイスラム -三つのメニュー/三つの民族/三つの宗教-

「アジア学のみかた。」(朝日新聞社 1998)より(筆者:山内昌之):

マレーシアの病院に入院した田村愛理氏によれば、その夕食には三種類の違ったメニューが出されたという。もちろん、そこから一つを選ぶのである。たとえば、ある日のメニューは、①羊肉スープ・飯・ゆで野菜、②鶏の煮込みあんかけ風・飯・野菜いため、③鶏のカレー・ロティ(インド風パン)・野菜であった。…マレーシアが典型的な多民族国家であるという切実な政治と文化の反映なのである。
メニューの一番目はマレー人、二番目は中国人、三番目はインド人向けであった。豚肉と牛肉はついに一度も出されなかったという。豚肉はムスリムのマレー人にとってタブーであり、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べないからだ。…

憲法は原則ムスリム
マレーシアの国民19百万のうち、52パーセントがマレー人、33パーセントが中国人、9パーセントがインド人である。残りの6パーセントが、カダザンやイバンなどの土着民である。もともと人口希薄なマレー半島には、7世紀頃からかなりのマレー人がスマトラから移住していた。14世紀になると、ムラカ(マラッカ)王国が成立し、マレー語とイスラームという〈国民統合〉の遺産を後世に残すことになった。しかし、16世紀にポルトガルに滅ばされたのを機に、マレー半島の支配者はオランダ、イギリスとめまぐるしく変わり、第二次大戦中は日本の占領支配も受けるようになった。

19世紀になってイギリスがスズ鉱山の開発を進めると中国人も多数入ってくる。ゴム栽培が進められるとタミル系のインド人が流入してきた。こうして三つの民族集団が共生するような状況が生まれたのである。多民族社会とは、とりもなおさず多宗教社会でもある。住民の55パーセントがムスリムであり、マレー人のほぼ全体と他民族の一部がイスラームに帰依している。中国人には、仏教、儒教、道教あるいはその混淆を信じる者が多い。インド人の大多数はヒンドゥー教徒であるが、カダザンやイバンなどにはキリスト教徒も見られる。もし、地元民と非地元民といった二分法を用いるなら、マレー人、カダザン人、イバン人などは地元民、中国人とインド人は非地元民ということになろう。

マレー人の母語のマレー語は、この国唯一の公用語であり、国語ともなっている。言語状況は複雑であり、カダザンとイバンはマレー・ポリネシア語族に属する言葉を話している。他方、中国人は福建語や広東語といった多彩な方言を話しているが、共通語としての北京語を理解する者も多い。もちろん、文章語としての漢字は出身の差にかかわらず、すべてが了解可能である。インド人の主要な言語はタミール語であるが、他の方言も聞かれるという。

イギリスの植民地政策において産業化から疎外されていたマレー人は、独立時の中国人やインド人と比べると、非常に貧しかった。マレー人エリート中心の政府がアファーマチヴ・アクション(積極的優遇政策)を採用したのは、公務員採用、特定業種育成、奨学金給付によってマレー入の成長を助けるためであった。70年代からの新経済政策(NEP)においても優遇政策は変わらず、商工業にも適用されている。

こうして、マレー人は非マレー人と比べると政治的に一段と恵まれるようになった。非マレー人の多くは、第二次大戦後の数十年もたたずして、出身地の新しい土地で市民権を得ていたが、ムスリムに改宗した中国人は「マレー人」とは認定されず、マレー人にともなう特権を得ることができないままだった。

憲法は、「マレー人」について原則的にムスリムであり、日常にマレー語を話し、マレーの慣習に従う者と定めているが、マレーの言葉と習慣に中国本土の気風以上になじんでいる中国人二世や三世が「マレー化」できないという不条理を解決できないでいる。

貧困農民から中間層へ
それでも、独立後のマレーシアはまずまず多民族が共存する平和と安定を享受することに成功したといってよい。その理由としては、50年代初期に、マレー人、中国人、インド人の指導者たちが多民族社会ではエスニシティ(民族性)が大きな力をもつことを認識して、協力しあう必要性を互いに理解した点にある。問題は、各個の民族的忠誠心やアイデンティティをいかに自己制御できるのかという点にあった。かれらは、エスニシティをわざとらしく無視する代わりに、エスニシティを政治プロセスに無理なく包みこむことを選んだといえよう。

たとえば、三つの民族政党間の協力関係が1954年に強められている。それは、統一マレー国民組織(UMNO)、マレー中国人協会(MCA)、マレー・インド人会議(MIC)の「同盟」が、55年の最初の連邦議会選挙で勝利を収めたことである。選挙の勝利は、民族間の穏やかな連帯に正統性と信頼性を与えることになった。重要なのは、三つの政党は、権力を互いに分け合う点こそ多民族社会を運営する効果的方法であることを痛感させたことだろう。現在では「バリサン・ナシオナル」(人民戦線)には14の政党が入っている。その多くは民族間の協調を心がけており、「バリサン」は、前身の「同盟」から数えると、57年の独立以来決裂せずに権力を維持することに成功している。

この連立のリアルな意味は、すべての民族集団に対して、どれほど小さくても権力への参加意識を与えたことにあるだろう。UMNOがこのなかの第一人者であるが、行政権力においては内容、性格、実際において多民族性への配慮を忘れていない。

マレーシアの安定には、民主的な行政システムが成立していることも無視できない。57年以来、マレーシアはまずまず議会制民主主義を機能させており、経済もNIESに続くかのように好調であった。ほとんど40年間に及ぶ持続的経済成長は、民族間の利害対立と競争の鋭ざを弱めてきた。政府によるアファーマチヴ・アクションは、貧しかったマレー人農民を中間層に成長させ、商工業に積極的に参加できる集団へと成長させた。

これは、一世代のうちに生じた変容としてはかなり目立つものであった。政府は自由市場のメカニズムを通して私的投資や事業を奨励する一方、既成の企業も政府の大幅投資効果の好影響を受け、ビジネス・チャンスの拡大を大いに利用してきた。

マレーシアの幸運は、地元民と非地元民の必要や願望をいずれもまずまず満足させたことだろう。もし、アファーマチヴ・アクションが一方的に強調され自由市場が破壊されていたなら、非地元民とくに中国人の利益は失われていたはずだ。もし自由市場の力が優先されすぎ、地元民を庇護する政府介入がなければ、マレー人の大多数はすべてを失っていた可能性さえ否定できないのである。

多民族共存から学ぶこと
中東などではイスラーム主義の大義名分の下で〈イスラーム・テロリズム〉が猖獗(しょうけつ)をきわめているが、幸いなことにマレーシアなど東南アジアでは極端な暴力はかげをひそめている。

マレーシアのイスラーム理解研究所長イスマイル博士は、イスラームがマレー人の寛容性と順応性を形づくる上で重要な役割を果たしてきた点をしばしば強調する。イスラームの普遍主義(ユニヴァーサリズム)、すべての人類と生物に対する人道的な関心は、マレーシアの多民族共存を支える触媒になったというのだ。古典イスラームが教理の面では、民族・文化・宗教の違いを超越する救済の使命と正義感の感覚をもっていたことはたしかである。しかし、ともすれば中東では、こうした使命感が異教徒や異文化の排斥につながるイスラーム主義急進派の運動をひきおこしている。

そうしたなかで、イスラームがマレーシア多民族国家の重要な価値体系の一部として、宗教の多様性を認める開かれた態度を示しているのは好ましい。願わくば、正義や公正にかかわるすべての事柄について偏見がないというのであれば、日本や欧米の価値観も積極的に吸収するような意欲的な〈文明の挑戦〉を果たしてもらいたいものだ。

いうまでもなく、どの多民族社会にも固有の歴史と事情がある以上軽々に他と比較することはできないが、マレーシアの経験が民族紛争で苦しむ他の社会に提示できる教訓もあるのではないだろうか。イスマイル博士から受けた教示を私なりに咀嚼してみると、さしあたっては、五つほど浮かび上がってくる。

(1)多民族社会では異なった民族の政党が協力しあい、権力を分有すること。
(2)分離主義などの破壊的な傾向を規制し、エスニック・ナショナリズムを有効に統御するためにも、民族的な自己主張を無視するのではなく、それを議会制度に順応させるような民主的なプロセスをつくること。
(3)経済的再配分を重視し、異なった民族の力量や願望を念頭においた経済成長をバランスよく実現する努力。
(4)各民族の活力源としての文化と宗教の多様性を受け入れる柔軟性。
(5)日常の態度や振る舞いのレベルにおけるバランスと順応性。

これらは、多民族社会マレーシアの経験から引き出した公理であるが、分裂と脱統合に苦しむ中東から中央アジア、ひいてはアフリカにまたがるイスラーム世界の現実を考える際に示唆を与えてくれるのではないだろうか。
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by satotak | 2007-02-27 13:16 | 民族・国家
2007年 02月 23日

民族と歴史家の立場

「網野歴史学に何を見るべきか」(「季刊東北学第1号」 東北芸術工科大学 2004)より(筆者:中村生雄):

「国民的歴史学」の経験
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が新鮮なインパクトとともに盛んに引用された時代はすでに遠くなり、「国民」や「日本人」が近代という時代の想像の所産にすぎないことはいまや常識となった。20年まえのアンダーソンによる衝撃発言は、いまでは、誰もがそれを議論の前提とする共通の土俵となった。言い換えると、国民国家をめぐるもろもろの問題は、それらが、作為され、構築され、想像されたものであることを自明の出発点として論議されねばならないという共通了解が定着したのである。

近代による作為と想像の所産、そう理解されるべきだと言われるものは、日本人・日本語という観念や制度、古典や歴史をめぐる知のありかた、恋愛感情や家族間の愛情という心の作用まで、すこぶる広範囲である。そして、そのことをわきまえずに旧来の通念にもたれかかってそれらのことがらに言及すると、たちどころに「本質主義」のレッテルが貼られることになっている。

皮肉なことだが、現在したり顔をしてこういうレッテル貼りに夢中になっているものの多くが、じつはそれときわめて近似し、かつその原型ともなる議論が50年まえの日本にもあったことを忘れているらしく見える。それは、1950年代前半の歴史学界で中心的なテーマとなった「国民的歴史学」の動きのなかで起こった。とりわけそこでの、「国民」や「民族」をめぐって繰り広げられた学問的/政治的な論争においてである。そのことをここであえてとりあげるのは、それが歴史家・網野善彦の若き日の経験として大きな意味をもっていたからであり、またそれが歴史における時代区分の問題と密接にリンクしてもいるからである。

こんにちの目から見れば、当時の「国民的歴史学」の運動とは、敗戦とそれにつづく占領期の挫折感や焦燥感のなかから姿をあらわした左翼的歴史研究者のナショナルな思想と心情の一表現だったと言える。そして、…その運動を象徴するバイブル的書物としてひろく読まれたのが石母田[正]の『歴史と民族の発見』であった…。
皇国史観の圧制からは解放されたものの、ではその対極にある戦勝国連合や国際共産主義運動に乗り換えるだけが知識人の選ぶべき道でないことが気づかれた1950年代前半は、彼らに先進的な指針を与える役割を負った日本共産党指導部においても、複雑な内部抗争と路線対立がつづいた時代であった。…そして、その混乱と亀裂が歴史学の世界に直接影響するかたちで、「国民的歴史学」の運動が提起され、そこでの焦眉の問題として、「国民」や「民族」をどう理解すべきかが論争の的になったのであった。

そのことを振り返るにあたってもっと注意されていいと思うのは、そこでの争点が現在の国民国家論をめぐるいわゆる構築主義/本質主義の対立構図と大きく異なってはいなかった点である。網野じしんはそのことについて、小熊英二との対談のなかで、そのころアメリカ帝国主義に対置されるべき日本民族の独立性という観点から石母田らの「英雄時代論」が提起された事情にふれつつ、次のように言っている(網野善彦対談集『「日本」をめぐって』)。

〈 この見方…は「民族」は古代・中世まで遡る歴史・文化を背景に形成されるという立場に立っていたのですが、それに対して、「民族」は古く遡るのではなく、近代に入り資本主義が発達し、国内市場が形成される過程で初めて生まれるという立場からの強い反発がありました。むしろこのほうが当時のマルクス主義の公式的な理解だったと思いますが、この二つの見方の間で激論があったのです。これは現在、「国民国家論」に即して議論されている問題と本質は同じで、それが近代の産物なのか、それともその起源は古く遡るのかという議論につながりますが、いわばその「幼稚」な段階・・・・・・ 〉

ちなみに、この時期の「民族派」的立場の急先鋒である藤闇生大は、日本民族の英雄=ヤマトタケルを再評価することを通じて失われた「民族的ほこり」を回復することこそが、歴史学の使命であると学会で力説した。…抑圧的なアメリカ帝国主義に対峙する歴史的・民族的な根拠が、はるか時代をさかのぼって古代や中世のうちに探し求められたのである。
そして、若年の網野も否応なくその「民族派」の末流にみずからを位置づけて、歴史家としてのスタートを切ったのであった。

〈 当時の私は、「民族」は古く遡って考えるべきだという、いわば「民族派」でした。これは当時の日本共産党の分裂とも関係してくるので、民族は近代に形成されると主張したのが「国際派」といわれており、私のいう「民族派」は「所感派」といわれていました。ただ皆さんびっくりなさるかもしれないけれども、この時期のマルクス主義者のうち前近代史の研究者は、ほとんど「民族派」だったのです。 〉

網野はこのときの論争が「幼稚」であったと自嘲的に語ってはいるが、それが歴史認識のレベルにおいては、近年の国民国家論をめぐるそれと共通していたことを明言してもいるのである。そこで網野が自称する「民族派」にたいして、その批判者をかりに「近代派」と呼んでおくなら、50年代の「民族派」vs近代派」がほぼ半世紀ののち、「本質主義」vs「構築主義」として再現したと言ってもそれほど的はずれではないのである。

ただし、かつての対立が結果的には党派的敵対の論理のなかで「除名」や「査問」といった陰惨な方向にすすんでいったのに比べると、近年の対立にはその種の深刻な雰囲気はほとんど感じられず、むしろ学級内のできる子どうしのいさかいを思わせる。「二度目は喜劇として!」という歴史の法則は、遺憾ながらこのケースにも当てはまるのかもしれない。

いずれにせよ、政治主導で提起された「国民的歴史学」の運動はスターリン批判と六全協という政治によって外側からあっけなく幕を降ろされた。それゆえ、その論争が内包していた歴史学上の意義は強引に封印されて、それにかかわった多くの歴史家の心の傷としてだけ残ったと言われる。だとすれば、そのときの経験と知識がその後の歴史研究のための資源として貯えられなかったからこそ、近年の国民国家論をめぐる論争が何かしら底が浅く、口先だけの争いに見えるということでもあろう。

また、網野がしばしば「不勉強」を口実に国民国家論にたいする直接的なコメントを避けていたように思えるのは、50年代の経験をとおして彼じしんがその種の問題の困難さ、深刻さを知悉(ちしつ)していたからだと言えるはずだ。そのとき辛酸をなめた立場からすると、目下の状況はしょせん知的ゲームの域を出ないもので、あらためて口出しする意欲を感じさせなかったということだろう。

時代ヨコ割り分業体制の弊害
すでに見たように、網野善彦の回顧によれば、1950年代の「国民的歴史学」の運動において前近代史の研究者はほとんど「民族派」であったという。国民も民族も、決して近代という時代が唐突につくりあげたものではなく、古代・中世からの久しい時代の流れのなかで徐々に形成されて現在にいたっている、と考えられていたわけだ。そして、そのような理解にたいして、近代史家の犬丸義一や井上清が痛烈な批判を行なった。それらの論争の舞台となった1951年度の歴史学研究会大会前後の状況については、小熊英二のすぐれた解説がある(『〈民主〉と〈愛国〉』)。

ただ、…私見によれば、ここで前近代の研究者の多くが「民族派」となり、近代史研究者がその批判者になったという色分けは示唆的である。

すでに述べたように、この時期に「国民的歴史学」の必要が叫ばれ、その支柱となる概念として「民族」が主題化されていったのは、50年代の日本が占領期以来のアメリカ帝国主義という巨大な力にどう立ち向かっていけるかという政治的情勢に規定されていたからであった。そこでは、階級的な「人民」の視点よりもナショナルな「国民」の視点が優先され、「反米」が同時に「愛国」を意味することに特段の疑問はもたれなかった。そのような認識の裏づけとして重視されたのが当時新たに唱えられたスターリンの民族理論だった…。

強調しておきたいのは、そういう政治的・実践的なレベルとは別の問題、すなわち、そもそも個々の歴史家にとって自分が研究対象として選ぶ時代がどんな意味をもっているかという一般的な問題のほうである。

歴史研究、とりわけ日本史研究を志す者はおしなべて、古代・中世・近世・近代という時代区分に即して目分の専門領域を限定しておくのが学会での基本ルールとなっている。そして、どの時代を自分の研究対象に選ぶかと言えば、当然のことながら、その時代が自分にはもっとも興味深いからだというのが最大の理由であろう。また、その時代がなぜ興味深いのかとさらに問うとすれば、その時代を詳しく知ることが現在の自分にとって必要だからであり、現在の自分と世界をよりよく理解するためのカギが当該の時代のなかに存在しているにちがいないと考えるからだろう。…

要するに、網野の言う50年代の「民族派」の人びとが古代や中世のある時期に国民もしくは民族の起源を見出し、またそれらの画期的な展開過程を見出したのは、彼らの現在の問題を解くカギがそこにもつとも濃密に凝縮していると信じていたことを意味している。古代史家は古代のあることがらが、中世史家は中世のあることがらが、他の時代のどんなことがらよりも重要な意味をもっていると考えるからだ。なぜなら、他の時代にもっと重要な歴史的な意味があると思えるのなら、目分の専門領域をそちらに変更するのが当然だからである。とすれば、その反面で近代史家が「民族派」の主張を受け入れないのはあたりまえだろう。かりに彼らが「民族派」の主張を容認するとすれば、自分たちの近代史研究が歴史学のなかで二流の位置にあることをみとめることになるからだ。

こう言うとまったく身もふたもないのだが、歴史的出来事の評価という学問的ないとなみの奥底には、そのような「我が身尊し」のエゴイズムが厳として存在する。少なくとも私は、そのことを強く感じている。にもかかわらず、それは往々にして学問的な真理や客観性という美名によって粉飾されがちだ。アカデミズムの世界とは、そういう意味の覇権主義から決して自由ではないのである。50年代の「国民的歴史学」の時代も、近年の国民国家論主導の時代も、その点ではあまり違わないと言うべきだろう。
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by satotak | 2007-02-23 16:06 | 民族・国家
2007年 02月 02日

民族名称「ウイグル」の出現と定着

東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅡ」より(筆者:大石 真一郎):

1. 問題の所在
現在、ウイグルと呼ばれる人々は新疆ウイグル自治区の南部を中心として中国側に約800 万人、カザフスタンに20 万人ほどで、クルグズスタン、ウズベキスタンやトルコ共和国にも若干数が暮らしている。

1980 年代以降、新疆においては、移住による漢族人口の増加や中国政府の対応への不満から、ウイグル人による抗議運動や、さらには独立を求める分離主義運動が活発となっている。85 年12月と89 年5 月には区都ウルムチで大規模なデモが起こり、90 年4 月にはカシュガル近郊で礼拝を巡るムスリムと当局との対立が反政府武装襲撃にまで拡大した。各地で「東トルキスタン」や「ウイグリスタン」(ともに現在の新疆に相当する領域を指す)の独立とそのための聖戦を呼号する蜂起や暴動が散発し、95 年にはホタンでイスラーム原理主義の影響を受けているとされる一派によってイスラーム共和国の樹立が標榜された。記憶に新しいところでは、97 年2 月のクルジャでの暴動や、ウルムチ、北京など大都市での「ウイグル族分離主義者」によるものとされるテロ事件が日本のマスコミでも報じられている。

また、この間、1991 年にはウイグル人作家トルグン・アルマスのウイグル語による著書Uyghurlarを巡って当局主導で大規模な批判運動が展開され、著者自身も投獄されるという事件が起こった。
その内容が「大ウイグル主義」的であったからといわれる。すなわち、8000 年前に「東は興安嶺、西は黒海、北はアルタイ、南はヒマラヤ」の間に「古ウイグル人」が存在し、中央アジアの歴史が要するにウイグルの歴史に他ならないというのである。
今やウイグルという民族名称は、彼らにとって隣人である漢族(漢人)と自己との違いを強調したり、さらには中国からの分離独立を求める民族運動における場合のみならず、確固とした実体を有しているように思われる。しかし、世界中の民族名称の多くがそうであるように、「ウイグル」もまた今世紀になって新たに考案または創造されたものであり、新疆で「ウイグル」が公式に採用されたのは1935 年になってのことであった。

「ウイグル」の名称が歴史上初めて現れるのは唐時代の漢籍史料においてである。テュルク系遊牧民のウイグルは、744 年に突厥帝国が解体した後、これに代わってモンゴル高原に支配権を確立するが、840 年にクルグズ(キルギス)の襲撃を受けて四散し、その主力は東部天山山脈に本拠を移して西ウイグル(天山ウイグル)王国を築いた。定住化を進めるとともに仏教を受容し独自の文化を担ったウイグルの政権は、13 世紀末頃まで東トルキスタン東部に存続した。その後西からのイスラーム化が進んだ東トルキスタンにおいて「ウイグル」は「仏教徒」と同義に扱われ、16 世紀初頭に東トルキスタンから仏教徒がいなくなると、「ウイグル」という名称もまた忘れ去られた。

1921 年アルマアタで開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者マローフの発議に基づき、「ウイグル」という名称を復活させて自ら名乗ることが決定されたといわれる。ロシア人学者の提案によるものであり、ソ連が後に中央アジアで「民族的境界画定」を行うための準備作業の一つとみなされていることから、この「ウイグル」採用が東トルキスタン出身者たちの自発的な選択であったというよりは、政策上一方的な働きかけによって決められたかのような感を抱かせる。事実、そのようにみる研究者も多い。
しかし、果たしてそうであったのか。本報告はこの点を検討したい。


3.「ウイグルの子」
…ロシア・ムスリムの代表的な定期刊行物で東トルキスタンに関する記事が掲載されたが、その中で、ナザル・ホジャという、これまでの呼び方で言えばタランチ(注1)にあたる投稿者は、1911 年以降『シューラー』に18 編…、『ワクト』紙に2 編の記事を寄せている…。彼は当初、本名…を署名に使っていたが、1914 年半頃から、「ウイグルの子」を併せて使うようになる。すなわち、自身の祖先がウイグルであるという認識(現在のウイグル人は当然その認識を持っているが)をこの頃すでに有していたことが、署名からだけでも窺うことができるのである。
以下、「ウイグルの子」を名乗るにいたる経緯を彼の記事からたどってみよう。

ナザル・ホジャの経歴は詳らかではない。彼が書いていることから確実に知りうるのは、セミレチエ州ジャルケント郡のガルジャト村に暮らしていたということだけである。記事の中に「我々のクルジャというような表現もあり、恐らくは1880 年代初頭にクルジャから移住した者か、またはその子供であろう。…

ナザル・ホジャは当時のテュルク語刊行物の多くに通じていた。ガルジャトの住民のなかでは『テルジュマン』、『ワクト』、『シューラー』に加えて、カザンで出版されていた『ユルドゥズ』やイスタンブルの『テュルク・ユルドゥ』までが読まれていたといい、彼自身も読者の一人であったことは確実であろう。
これらの定期刊行物によって当時ロシア・ムスリムの多くの知識人たちの心を捉えていたテュルク主義にナザル・ホジャも傾倒していた。1911 年に『シューラー』に掲載された文章では自身をタランチと称するとともに、「我々テュルクたち」とも述べている。一方、「カシュガル人」を含む東トルキスタンのムスリムには「サルト」(注2)を用いている。「サルト」に関する議論はあったものの、この頃は依然として多くのタタール人はこの呼称を用いていたから、彼もそれにならったのであろう。
また、当時のタランチについて興味深い情報を伝えている。タランチがカシュガル地方(彼はアルトゥシャフル(注3)とほぼ重なる範囲をこう呼んでいる)にある町や村の全てからクルジャ(イリ)地方に移住させられたのがタランチの起源であることを踏まえて、「タランチ・テュルクは現在も前述の出身の町に関連してカシュガル人、ドラン人、アクス人、ホタン人、トゥルファン人と呼ばれるが、これはタランチたちの父から子まで知られ、明らかなことである」という。「タランチ」が自称として定着していたか否か明らかでないと先に述べたが、これとは別に出身オアシスによる従来の呼び方がセミレチエに移住したタランチのなかにも残っていたことが知られる。

彼は自分たちの歴史を知ることに並々ならぬ執着を持っていた。「シナ・トルキスタンのサルトの民族史に関する一希望」と題する投稿文は次のように始まる。

「民族の歴史を知ること、誰もが自分の祖先を識ること、家系や兄弟を、また彼らが過去に暮らした状況、すなわち風俗・習慣、学問・教育、技術・芸術、商業ではどんなことをしていたのか、この世の生活ではどんなふうに暮らしていたのか、その暮らし方は彼らを幸せに導いたのか、それとも災いにか? 誰と友で、誰と敵であったのかを学び知り、それを戒めや経験とすること、換言すれば、過去に存在したあらゆる祖先をよく見、愛する人々を、本当は自分が何者であるのかを、熟知するよう願うために知ることは絶対に正しいことである。」

そして、「私たちの本来の目的は民族の歴史、すなわちシナ・トルキスタンのサルトの歴史を知ることである」という。シナ・トルキスタンの「サルト」の歴史が、自分たちタランチの歴史の一部をなしていると認識していたのである。
1913 年に父と息子二人をあいついで失ったナザル・ホジャは、傷心を癒すために、翌年かねてからの希望であったアルトゥシャフルへの旅行を行った。『シューラー』に掲載された旅行記には「私たちの祖先の祖国であり文明的なウイグルの祖先たちの舞台であり、イスラーム戦士たちが前世紀に強大なテュルクのハーン国を樹立した場所であり、若干の裏切者の策略のために間もなく滅びたアルトゥシャフル」とか、「トゥルファンとヤルカンドはウイグルの祖先たちの首都の一つとみなされていた。その頃、ウイグル・テュルクたちもその時代では文明的な民族の一つであった」と述べている。また、「ウイグルの子」を署名に使い始めてからの記事には「我々ウイグルの子孫」という表現も使っている。

当時、「ウイグル」の名称はロシアのトルコ学者たちによって使われ始めていた。1890 年に『クダトゥク・ビリク』のウイーン本テキストをサンクト・ペテルブルグで刊行したラドロフは、1893年には「ウイグルについての問題に関して:『クダトゥク・ビリク』刊行の序文から」という論文を発表し、その後もトゥルファンなどで発見された古代ウイグル文献について多くの研究を残した。また、彼の弟子であり、後に「ウイグル」を民族名称として復活させることを提案したとされるマローフは、1910 年の2-6 月、1910 年10 月から翌年3 月、1913 年8-12 月の三度にわたって中国甘粛地方に旅行し、そこに暮らすサリグ・ウイグルの言語、民俗、フォークロアの調査を行った。サリグ・ウイグルの起源は16 世紀初頭に東トルキスタン東部から甘粛地方に逃れてきた仏教徒である。

ナザル・ホジャが「ウイグルの子」を名乗りはじめる1914 年以前に、テュルク語定期刊行物でもこれらの研究や調査旅行に関する紹介がなされた。1913 年8 月の『ワクト』紙には「ウイグルを調査する」という記事が掲載された。この記事の著者ブルハン・シャヒドは、三度目の調査旅行の途中ウルムチに滞在していたマローフとの会談を記し、「この学識ある旅行者が多くの困難に遭いながらも、遥か昔にいなくなったウイグルを探し出し、彼らの足跡を見つけ、テュルク・タタールの歴史に貢献したことは、我々のためにも称賛と感謝に値する」と述べている。また、同年11 月に出た『シューラー』誌には 「ウイグル語について」という論説があり、それには「テュルク文学はウイグル(ユグル、ウグル、漢語でホイフ)方言で始められた。オルホン碑文はより以前に書かれたが、真の意味で言うと、テュルク文学はウイグル語で始められた」とある。

これらの記事で使われた「ウイグル」はタランチやカシュガル人のことを差すものではなかったが、自分たちの歴史や出自を探し求めるナザル・ホジャの目に、「ウイグル」の情報は魅力的に映ったにちがいない。「ウイグルの子」を自認したナザル・ホジャは、現在の自分たちの呼称についても問題を提起する。

「昔の時代に「ウイグル」と呼ばれ、現在名無しとなった東トルキスタンのテュルクの生活風景はとても哀れで気の毒なものである。(中略)上で「東トルキスタンのテュルクは初めウイグルと呼ばれて、今や名無しとなった」と私は言った。何故か。土着のテュルクである以外に、あなたは何者かと問えば、私はカシュガル人だとか、コーカンド人だと言う。「それは土地の名前だろ!」と言えば、すぐに「私はムスリムだ」という。否、私はあなたの宗教を尋ねているのではないと言うと、恥ずかしそうに「私はチャントゥです」と答える。カザフやクルグズに混じって暮らしている者たちは「私はサルトです」と言う。要するに、彼らは自分たちが何者であるのかも知らないのである。なんと無知なことか!」

ここでいう「あなた」とは「東トルキスタンのテュルク」のことであるが、前述したように、彼らの歴史がタランチの歴史の一部をなすことを認識する以上、それはナザル・ホジャ自身への呼び掛けともとれる。彼は、テュルクであるという認識だけでは満足せず、さらにテュルク諸族のなかの何であるのかを自問する。彼が求めているのは、「タタール」や「カザフ」と同じレベルの名称だったのであろう。清朝の東トルキスタン征服以降、テュルク系ムスリム定住民にたいして「ターバンで頭を纏ったムスリム」の謂いで用いられた「纏頭(てんとう)(回)」すなわち「チャントゥ」は、「サルト」と同様、彼らにとっては他称にすぎず、しかも呼ばれる側からは侮蔑的なひびきを感じるものであったから、これらを名乗ることは受け入れがたいものであった。ナザル・ホジャは、この記事において言外に「ウイグル」を想定していたものと思われる。が、その後1917 年までの記事を見る限り、自身を「ウイグルの子」や「ウイグルの子孫」と呼ぶにとどまり、「ウイグル」であると言うまでにはいたらなかった。

しかしながら、1921 年にアルマアタで決定された民族名称「ウイグル」の採用が、ほど遠からぬジャルケントに住むナザル・ホジャのそれまでの文筆活動と全く関係なく行われたとはむしろ考えにくい。であるならば、ロシア人の発議による決定であっても、幾許かは「ウイグル」と呼ばれるようになる側にも主体性があったのではないかと思われる。

4.「ウイグル」の定着と『貧者の声』
それまで独自の刊行物を持たなかったロシア側のタランチやカシュガル人の間では、ロシア10月革命以降、そして1921 年にウイグルの民族名称が復活して以降さらに、盛んな出版活動が始められる。
そのなかで、「ウイグルの子」ことナザル・ホジャもまた、1921 年にクルジャで『オマクとアムラク』、翌年にはアルマアタで『ナズクム』と『タランチ・テュルクの歴史』という著書を発表している。…最後のものは、タランチのアルトゥシャフルからイリ地方への移住、奴隷時代、タランチの王国、セミレチエへの移住に関して叙述されているという。…

新聞『貧者の声』もそのような刊行物の一つであった。創刊号はカシュガル人、タランチ、ドゥンガン等の東トルキスタン出身者がタシュケントにおいて一堂に会した大会に先立って、1921年6月1日にタシュケントにおいて石版刷りで発行された。…
『貧者の声』は当初、「カシュガル─タランチ語」の新聞として創刊された。第3号では「タランチ語の週刊新聞」という表書きがなされるが、第8 号(1922. 8.17)で再び「カシュガル─タランチ語の週刊新聞」となっている。すなわち、「ウイグル」の民族名称が公式に採用された後も、依然として従来の呼称が使われていたのである。…見出しに限っていえば、「ウイグル」の名称が初めて現れるは第4 号(1922.2.13)の「革命家ウイグル青年について」という記事であり、これを書いたのも「ウイグルの子」であった。…

ナザル・ホジャにとって、「ウイグル」を使うことに躊躇はなかったであろう。しかし、当時はまだ多くの人々にとって某かの違和感を伴うものであったと思われる。他の執筆者のなかには、「タランチ」や「テュルク」を使い続ける者や、「ウイグル」を使うにしても、わざわざ括弧をつけて記す者もいた。『貧者の声』の表書きに「ウイグル語の週刊新聞」とようやく明記されるようになるのは、第52 号(1925.7.10)からであった。
勿論、この時期をもって「ウイグル」の民族名称が人々のあいだで定着したと断言することはできない。定着の過程を論ずるには、『貧者の声』その他の文献を十分に吟味しなければならないからである。しかしながら、これらの出版物を通じて自分たちが「ウイグル」であることを「知らされる」人々は、しだいにその数を増やしたであろうことは想像に難くない。

(注1) タランチ:その語源はカルムク語のtaran(耕地、種子、穀物)に由来し、〈播種人〉の謂いとされる。17 世紀にジュンガルは東トルキスタン北部のイリ地方を本拠として遊牧国家を築いた。彼らが南部のタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させたのがタランチの起源であり、その後、ジュンガルの統治政策を継承した清朝によっても1760 年以降幾度かに渡って強制移住が行われた。1864 年に東トルキスタン全域で反乱が勃発した時、彼らもイリの清朝勢力にたいして蜂起し政権を樹立した。
1871 年にはロシアがイリを武力占領し、10 年間ほど統治下においたが、1881 年のサンクト・ペテルブルグ条約でイリが清朝へ返還されることになると、報復を恐れた多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住した。

(注2) サルト:ソビエト革命前に中央アジア南部のムスリム定住民に対して用いられた呼称、またホラズムなど一部の地域のムスリム定住民が用いていた自称。帝政ロシアによる中央アジア南部の征服後、植民地当局はトルキスタンのテュルク語をサルト語と呼び、サルト人を一つの民族として扱った。しかし彼らが一つの民族としてのアイデンティティを共有していた形跡はない。20世紀にはいると、トルキスタンのムスリム知識人の間にはサルトという名称に反対する動きが現れた。それはカザフやクルグズ遊牧民が定住民を侮辱するときに用いる言葉であり、ロシア人やタタール人がこれを用いるときにも差別や蔑視の意図が込められていると理解したからである。ソビエト革命後、サルトは差別用語として禁止され、サルトは新しい民族ウズベク人の中に組み込まれた。

(注3) アルトゥシャフル:アルティ・シャフルともいう。新疆南西部のタリム盆地周縁オアシス地域に対する名称。テュルク語で〈六つの都市〉という意味で、六つの主要なオアシスを総称した表現である。一般には、カシュガル、ヤルカンド、ホータン、アクス、クチャに、ヤンギ・ヒサルまたはウシュ・トゥルファンもしくはカラ・シャフルを加えた6オアシスをさす。
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by satotak | 2007-02-02 08:44 | 東トルキスタン